7月、英国の新聞界の今後を占う、イチかバチかの賭けが始まる。エスタブリッシュメントが読む新聞として長い伝統がある「タイムズ」とその日曜版「サンデー・タイムズ」のウェブサイトが、6月いっぱいの無料閲読お試し期間を終了し、有料サイトに移行するからだ。(ロンドン=小林恭子)(**週刊東洋経済「メディア覇権戦争」(6月28日発売)に掲載された、筆者執筆記事に補足**)
「ウェブ・ファースト(=ウェブへのニュースを紙より優先する)」という言葉が古めかしく聞こえる英新聞界では、すでに「紙かネットか」と両者を対立させて論じる見方は消えている。紙媒体の新聞の売れ行きを気にしてウェブサイトには故意にすべての記事を載せない、あるいはスクープを出さないなど、「ネット敵視」の手法は過去のものになった。
では現在の敵は何か。それは「無料の壁」だ。サイト有料化を宣言したタイムズの5月26日付記事は、新聞社が電子版のニュースを無料で提供してきたことを「原罪」(人類の始祖アダムとイヴが最初に犯したとされる罪)と呼び、無料ニュースへの敵意を表現した。
―「タイムズ」の値づけは1日1ポンド、1週間で2ポンド
英国の主要新聞で、サイト閲読に課金しているのは「フィナンシャル・タイムズ(FT)」のみ。ほかはすべてがアーカイブを含め無料で閲読できていた。無料朝刊紙「メトロ」、テレビ、ラジオ、ウェブサイト上の無料ニュース配信で圧倒的なプレゼンスを持つBBC、グーグル・ニュースなど、無料のライバルが実に多い。ライバルが無料で情報を出している以上、新聞社が「無料の壁」を突き崩せば、読者が逃げてしまう。そのため、有料化は禁じ手だった。
にも関わらず、タイムズが有料化に乗り出すのはなぜか。その理由は「良質なジャーナリズムには、料金を払う価値がある」というもの。同社の親会社であるニューズ・コーポレーションのルパート・マードック会長は、グループの新聞社をいっせいに「有料化」に向かわせている。タイムズの有料化もその一環だ。
タイムズはFTのように一定の本数は無料で読める仕組み(いわゆる「メーター制」)をとらず、購読者のみが記事を読める「全面有料」だ。1ポンドを払うと丸一日、両サイトの記事を読める。タイムズ平日版は1部1ポンドで販売されているため、「紙媒体を買うのと同じ」印象を与える。2日以上読みたい場合は2ポンドで1週間読める。紙版の定期購読者はサイト閲読が無料で、定期購読者を増やすことにもつながる
新サイトの特徴は、白地が多くすっきりとした印象を受ける。紙のタイムズの題字を頭部に置き、「新聞紙面により近い」とライバル紙は評した。「有料の壁」(ペイ・ウォール)の中で提供されるコンテンツはこれまでのニュース情報に加え、著名コラムニストとのライブ・チャットやジャーナリストらとの情報交換など。購読者を対象にした会員制クラブ「タイムズ・プラス」が提供してきた、文化的イベント(映画鑑賞、美術展、対談など)への無料あるいは安値の参加ができる。
新サイトは「全面有料」に加え、「完全囲い込み」だ。グーグル・リーダーなどのRSSにも記事が流れないため、タイムズの記事を読みたければおカネを払ってサイトを訪れる必要がある(この点は、今後変わる可能性もありそうだが)。
―1日24万ポンドの損失、タイムズの台所事情
「良質なジャーナリズムには、料金を払う価値がある」というタイムズの論理を逆のサイドから見ると、要するに「ジャーナリズムの維持にはおカネがかかる」ということだ。
サンデー・タイムズのジョン・ウィズロー編集長によれば、同紙とタイムズの編集部の予算は年間1億ポンド(約133億円)だが、たとえばワシントン特派員の維持費用には給与、住居費、旅費を含めると年間50万ポンドかかる。バグダッド特派員にはこの上に警備費用(100万ポンド)が上乗せされる。「ウェブサイトを閲読無料のままにしていたら、特派員を送れなくなってしまう」。
月間ユニークユーザーが2300万人の旧タイムズオンラインは、7月の全面有料化による新サイト起動後、利用者が最大で90%減少する可能性もある、と見られている。「影響力が小さくなるかもしれないが、広告主は『有料の壁』の中のタイムズをわざわざ読みに来た読者を好むはずだ」(ウィズロー氏)。
タイムズ、サンデー・タイムズ両紙を発行するタイムズ・ニューズペーパズ社の09年6月期決算の売り上げは3億8550万ポンドと、前年より13・44%も減少した。理由は広告収入の下落。この影響から両紙の税引き前損失も前年の5020万ポンドから8770万ポンドへ膨らんでしまった。両紙合わせて1日平均24万ポンド(約3200万円)の損失を出しているとされ、ウィズロー氏の窮状説明に実感がこもる。
有料化はタイムズを救うのか。元タイムズのメディア記者だったダン・サバー氏が、新しいサイトが1〜2ポンドの課金で得られる収入をブログ「ビーハイブ・シティー」で推定している。両紙のデジタル収入年間2500万ポンド(ちなみにガーディアンが2500万〜3000万ポンド、有料購読制のFTが3000万ポンドの算定)は、90%の利用者が消えることで広告収入2000万ポンドを失う。しかし、2000万ポンドは約20万人の購読者がいれば、「回収できる」。
もし広告単価を課金後に上げることができれば、購読者はもっと少なくても済む。さらに、購読者のクレジットカード情報を利用してチケット販売などの電子コマースで収益を上げられる、と指摘する声もある。
しかし、タイムズの「完全有料」に対しては、懐疑的な新聞がほとんど。ネット投資を重点的に行ってきた「ガーディアン」もその一紙だ。
同紙のアラン・ラスブリジャー編集長は今年1月、課金制にすれば「オープンであることを基本とするネットの言論空間から切り離される」「アクセスが減ると媒体の影響力が落ちる」といった理由から、全面有料化に対して否定的な見方を示した。
しかし、ガーディアンが、何が何でも有料化策は取らないわけではないようだ。5月には「(課金制自体を全面否定する)原理主義者ではない」と、トーンダウンした。実際、ガーディアンでは複数の有料化モデルを終始議論しているという。
同紙のウェブサイトの月間ユニークユーザー数は3000万人を超え、英国の新聞サイトとしてはトップクラス。09年のオンライン広告収入は2500万ポンド(約33億円)。今年は4000万ポンドの見通しだ。「レガシー費用(編集・印刷・運送などのコスト)をまかなうには十分ではないが、決して小さな数字ではない」(同氏)。この収入を減らさずに有料化できるのか、これがガーディアン経営陣の悩みだ。
(参考までに、FTの購読者は09年12月時点で12万7000人。前年比で15%の伸びだ。オンライン購読を収入で見ると、前年比で43%増となっている。FTのオンライン購読とデジタル広告の収入は09年で全体の売り上げの5分の1だったが、2012年には三分の一になると予測されている。)
ガーディアンとユニークユーザー数でトップの座を争っているメール・オンライン(日刊紙「デーリー・メール」と日曜紙「メール・オン・サンデー」のウェブ版)も、無料のままで行く路線を選択している。膨大なアクセス数とディスプレー広告収入の伸び(前年比131%増)があってこそである。
無料モデルの収入は、広告だけではない。「デーリー・テレグラフ」は、同紙に掲載した記事と電子コマースを組み合わせた仕組みづくりに力を入れている。
サイトに有料化を導入する予定がないテレグラフは、トラフィック数の増大を今後は優先化しないことに決めた。「アクセス数の増大でデジタルビジネスを成長させるというやり方は08年3月で終わった」(同紙デジタル・エディター、エドワード・ルーセル氏)。これからは「3つのC」(コンテント、コマース、クラブ)を主眼にする。サイト上で特に人気が高いテクノロジー、旅行、ファッション、文化教育の各セクションのコンテンツをコマース(商業活動)に結びつけ、利用者をクラブのメンバーになってもらう。例えばガーディニングのページと電子コマースサイト「クロッカス」を結びつけ、テレグラフの記事を読んで、クロッカスが提供する商品を買うように道筋をつける。
「英国のネットディスプレー広告市場は10億ポンド規模で停滞中。一方、電子コマースは500億ポンドとずっと大きく、活気もある」(ルーセル氏)。「ニュースは無料」という看板を落とさず、別の角度からデジタル収入を増やそうというわけだ。
会員制クラブも英新聞の新しい試みのひとつだ。タイムズの有料会員制クラブ「タイムズ・プラス」に対抗してガーディアンが最近始めたのが「エキストラ」。年間25ポンドの会費を払えば、文化的イベントのチケットをディスカウント価格で買えたり、ガーディアンのジャーナリストの対談などに無料で参加できる。現在のところ、8月までは入会金は無料だ。
デーリーメールは「メールライフCo. UK」という商業サイトを作り、ワインや旅行など50以上の製品を販売している。年間3000万ポンドの収入を上げている。
新聞、雑誌、書籍の電子化ビジネスのコンサルティングを行うブルー・ディープ・インターナショナルのプリンシパル、ダンカン・クロール氏は、「課金制、広告収入やコマース重視による無料維持か。どの方法が成功するのか、誰にもその答えは分からない」と述べる。「唯一、賢明な方法は、さまざまな方法を実験することだ」。
―ネットのみの可能性も?
有料派タイムズと無料派ガーディアンのどちらのビジネスモデルがより効率的なのか、あるいは新たな収入源として期待がかかるタブレット型電子端末(アイパッドがその代表格)は「新聞を救う」のか?―課金制モデルの是非とアイパッドに議論が集中する中、さらに大きな枠組みの変化を問う声も出てきた。それは、「ネットサイトで十分な収入が得られるようになった時、紙は消えるのか?もしそうなら、それはいつか?」である。
ガーディアンのラスブリジャー編集長はかねてから、「紙のガーディアンとウェブサイトのガーディアンと、どちらが『本体か』と聞かれたら、ウェブサイトのほうだ」と表明してきた。
メディア業界の数字に詳しいピーター・ケーワン氏の分析によれば、「ガーディアン編集部の維持経費が年間1億ポンドと仮定すると(タイムズ、サンデー・タイムズと同様のレベル)、デジタル収入が年間10%伸びた場合、編集コストがカバーできるようになるのは2020年。15%なら2017年、20%なら2015年」。
ラスブリジャー氏は5月、BBCラジオの番組の中で「10年後、ガーディアンが紙の印刷を行っているか」と聞かれ、「分からない」と答えている。同番組の中で、サンデー・タイムズのウィズロー氏は「どんなプラットフォームでもタイムズ、サンデー・タイムズのコンテンツを出してゆくので、形にはこだわらない」と述べた。
有料電子版で成功するFTの役員が、同月、うっかりと「5年後には紙の印刷をしていない」と発言し、あわてて否定する顛末があった。その後、親会社ピアソンは「紙と電子版は互いに補完する存在」とする声明文を出している。
ケーワン氏は、「デジタル収入のみで編集コストをまかなえる状態になっても、すぐには紙はなくならないだろう。しかし、少なくとも、ガーディアンは近い将来の紙の消滅を『自然死』として想定しているようだ」。
ブルー・ディープ・インターナショナルのクロール氏によれば、電子版オンリーが普通になるような、デジタルが紙を凌駕する「大きな転換期」にまだいたっていない。「それにはまず、電子版出版物の価値を上げないとだめだ。例えば、新聞紙や雑誌、書籍を買ってもらったら電子版の閲読は無料とするのではなく、むしろ、電子版の購読をすれば、紙の印刷物がついてくるーとならなければ電子版の価値が上がらない」。
印刷物が無料で、電子版のマーケティング・ツールになる時―それは意外と近いのかもしれない。 (「東洋経済」7月3日特大号掲載分に補足、特に「−ネットのみの可能性も?」分は新規追加。)http://www.toyokeizai.net/shop/magazine/toyo/detail/BI/04096f9c9cd2790d9accb3ea894dcbba/
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