・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・アジア
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・入管
・地域
・文化
・欧州
・農と食
・人権/反差別/司法
・市民活動
・検証・メディア
・核・原子力
・環境
・難民
・中東
・中国
・コラム
提携・契約メディア
・AIニュース


・司法
・マニラ新聞

・TUP速報



・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus

・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2025年03月30日
・2025年03月29日
・2025年03月28日
・2025年03月27日
・2025年03月26日
・2025年03月23日
・2025年03月22日
・2025年03月21日
・2025年03月19日
・2025年03月18日
|
|
2010年07月08日22時28分掲載
無料記事
印刷用
真夏の夜の空襲 村上良太
ドイツ人が第二次大戦中に体験した空襲についてドイツの作家W・G・ゼーバルト(1944-2001)が「空襲と文学」にすさまじい有様を書いています。
「1943年盛夏、長びく猛暑のさなかに、イギリス空軍は応援のアメリカ第八空軍とともにハンブルクを連続爆撃した。<ゴモラ作戦>と称する作戦の目標は、市街を及ぶかぎり完全に潰滅させ、灰燼に帰せしめることだった。7月28日深夜一時にはじまった攻撃で、1万トンの爆裂弾と焼夷弾がエルベ河東部のハンマーブロック、ハム=ノルト、ハム=ズュート、ビルヴェルダー=アウスシュラーク、およびザンクト=ゲオルク、アイルベク、バルムベク、ヴァンツベクの一部といった人口の密集した住宅地に投下された。すでに効果のほどが証明された方法でまず4千ポンドの爆裂弾が家々の窓と扉を吹き飛ばし、ついで軽量の発燃剤が屋根裏に火をつけた。ほぼ同時に重さ15キロの焼夷弾が階下を貫いた。」(白水社刊「空襲と文学」より。以下同じ。)
こうして20平方キロ全域に火の手が上がり、15分もすると空域全体が見渡すかぎりひとつの火の海になったと言います。そして爆撃開始から20分後には−
「いまだ人の想像しえなかった規模で、火災旋風が発生した。火焔は2千メートルの上空に達して、凄まじい力で酸素を吸いこみ、台風並みの勢力に達した空気流が、巨大なパイプオルガンの音栓をいっせいに引いたかのような轟音をたてた。その状態で火災が3時間つづいた。」
パイプオルガンの音栓をいっせいに引いたら、どんな音が鳴るのか。さらに火焔旋風は梁や広告版を宙に巻き上げ、樹木を根こそぎにし、人間を生きた松明にして飛び回らせたと続きます。炎の渦ですから竜巻以上のこの世の果てのような光景です。
「崩れたファサードの背後でビルの高さまで火柱が上がり、それが洪水さながら時速150キロで通りを駆け抜け、広場では炎の筒となって、奇妙なリズムでぐるぐると旋回した。運河のいくつかでは水が燃えた。市電の車両はガラス窓が溶け、パン屋の地下では貯蔵してあった砂糖が煮えたぎった。防空壕から逃げ出してきた人々がグロテスクに体をねじ曲げて、溶けたアスファルトのあぶくの中に突っ伏していた。その夜どれだけの数が死んだのか、死の前にどれだけの気が触れたのか、たしかなことは誰も知らない」
「爆撃機のパイロットは、飛行機の内壁からその熱を感じることができたと報告している。街路200キロ分にわたる住宅が完膚無きまでに破壊された。不気味にねじ曲がった肉体がいたるところに転がっていた。青っぽい燐光がまだちろちろと燃えているものもあれば、褐色や紫色に焼けて、もとの体の3分の1に縮んでいるものもあった。それらは二つ折りになって、わが身の脂肪が溶解してできた、一部はすでに冷え固まっていた脂肪溜りに横たわっていた。 (中略) 肉塊や骨やあるいは折り重なった肉体が、ボイラーの爆発で噴出した熱湯によって完全に茹だっていた。」
真夏のおびただしい死体はやがて鼠や蛆の食料にもなりました。
「・・蝿が音を立てて群れ飛び、地下室は階段といい床といい、ぬるぬるした指ほどの長さの蛆にびっしりと覆われていたのである」
ゼーバルト自身は1944年生まれですから、空襲体験のこのような描写は記録に基づくものです。こうしたハンブルクの深夜の描写をした後、ゼーバルトはドイツの作家たちが空襲をどう描写したかを書いています。
「ノサックは、空襲から数日後、ハンブルクに戻ったときにひとりの女を見かけた。その女は、<ひとつだけ壊されずに、瓦礫の荒れ地のあいだにぽつんと立っている家で>窓をふいていた。」
ノサックは彼女のことを気が触れた、と思ったそうですが、同じような状態が各地で起きていました。生き残った者たちは罹災者とは無縁に日常生活を継続していたと書いています。
「人々は、当初まずは衝撃のあまり、あたかもなにごともなかったようにふるまうことに決めたのだ。」
ゼーバルトはこうした空襲体験についてドイツでは公的な議論をしてこなかったと書いています。
「イギリス空軍の大勢が1940年に是認し、42年2月を以て莫大な人的資源と戦時物質を動員して実施された無差別絨毯爆撃が、戦略的ないし道義的にそもそも妥当であったのかどうか、あるいはいかなる意味において妥当であったのか、という点については、45年以降の歳月、私の知るかぎりではドイツにおいて一度も公的な議論の場に乗せられたことはない。詮ずるところ、そのもっとも大きな原因は、何百万人を収容所で殺害しあるいは過酷な使役の果てに死に至らしめたような国の民が、戦勝国にむかって、ドイツの都市潰滅を命じた軍事的・政治的な理屈を説明せよとは言えなかったためであろう」
敗戦国である日本も似た状況にあります。林雅行監督のドキュメンタリー「おみすてになるのですか〜傷痕の民〜」がユーロスペースで今週土曜日から上映されます。第二次大戦中の空襲で戦災傷害者となり、戦後、苦しい人生を歩んだ人たちの記録です。
■白水社刊、鈴木仁子訳「空襲と文学」を参照した。一部横書きの都合上、漢数字を英数字表記に改めた。
村上良太
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|





|