仏教経済学は原子力発電にはどういう姿勢なのか。仏教経済学の提唱者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』で「原子力 ― 救いか呪いか」と題する一章を設けて原子力発電と核分裂について主張を展開している。一口で言えば、「人類の生存に脅威」、「人間の生命にとって想像を絶する危険」などと警鐘を打ち鳴らしている。つまり人類にとって「救い」どころか「呪い」そのものという認識である。 しかも「経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の<採算性>にしか目を向けていない」と視野の狭い既存の現代経済学に手厳しい。原発について流布されている「原子力の平和利用」という虚言を打破しなければならない、と言いたいのである。
「原子力 ― 救いか呪いか」での主張(要旨)を以下に紹介しながら、対応策も考えてみたい。
▽ 人間の生命にとって想像を絶する危険
人間が自然界に加えた変化の中で、もっとも危険で深刻なのは、大規模な原子核分裂である。核分裂の結果、放射能が環境汚染の重大な原因となり、人類の生存を脅かすことになった。一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きいかも知れない。 石炭か石油を使う在来型の発電所を建設するか、それとも原子力発電所を作るかの選択は経済的根拠に基づいて行われており、核分裂が人間の生命にとって想像を絶する特殊な危険だということがまったく考慮されていない。(中略)これこそ経済学という宗教に毒されて、政府も国民も原子力の「採算性」にしか目を向けていない例である。
直接放射能を浴びた人だけでなく、その子孫をも危険に陥れるような、今までの経験にない「次元」の危険である。 新しい「次元」の危険のもう一つは、人類が放射性物質をいったん造ったが最後、その放射能を減らす手だてがまったくないことである。(中略)放射能は半永久的に残るわけで、放射性物質を安全な場所に移す以外に手はない。 原子炉から出る大量の放射性廃棄物の安全な捨て場所とはいったいどこか。地球上に安全な場所はない。(中略)生物がいるところならどこでも、放射性物質は生物循環の中に取り込まれる。(中略)生物は他の生物を食べて生きているのだから、放射性物質は生命の連鎖を上にたどって、最後には人間に戻ってくる。
<安原の感想> 「原子力の平和利用こそ危険」 ここで見逃せない指摘は、「一般の人たちが原子爆弾の方に注意を奪われるのはうなずけるが、それが将来二度と使われないという希望はまだ持てる。ところが原子力の平和利用が人類に及ぼす危険の方がはるかに大きい」である。 これは約40年も前、エネルギーの総需要に占める原子力の比率がまだ数%の頃の指摘であることに注意を向けたい。オバマ米大統領の「核なき世界」発言(09年4月プラハで)以来、核兵器廃絶への希望が生まれている。その半面、原子力の平和利用では特に日本の政府、経済界に執着心が強い。地震による事故、実害などへの懸念が高まっているにもかかわらず、である。
日本における原発推進派の思慮の欠落さには、日本人だけで300万人を超える多くの犠牲者を無理強いしたあの戦争(当時の呼称は大東亜戦争)にみる指導者たちの無責任ぶりとの類似性を感じないわけにはいかない。同じ過ちを再び繰り返しつつあるのか。原発事故で多くの犠牲者を出した後で、推進責任者が自決し、遺書の中でいくら謝罪しても、それで償えるわけではない。
▽ 使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑
一番大きな廃棄物は、耐用期間を過ぎた原子炉である。原子炉を使える期間が25年か、30年かといった些末な経済問題について議論がやかましいが、人間にとって死活の重要性をもつ問題はだれも論じていない。その問題とは原子炉が壊すことも動かすこともできず、そのまま、多分何百年もの間、あるいは何千年の間放置しておかなければならないこと、そしてこれは音もなく空気と水と土壌の中に放射能を漏らし続け、あらゆる生物に脅威を与えるということである。どんどん増えていく、このような悪魔の工場の数と場所を人は考えてもみない。使用済みの原子力発電所は、醜悪な記念碑として残り、今日わずかでも経済的利益がある以上、未来は意に介する要はないという考えの愚かさを記録し続ける。
石炭や石油で空気や水を汚す害悪を軽視しようというのではないが、「次元の相異」を認識すべきである。放射能汚染は、そのひどさの次元でこれまでのどんな汚染とも比較にならない。疑問はこれだけではない。空気が放射性粒子を帯びてくると、きれいな空気を求めても無意味ではないか。空気の汚染が避けられたとしても、土壌と水が毒されてしまえば、それも無意味ではないか。
人類にとってかけがえのない地球が子孫を不具にするかもしれないような物質で汚染されているのに、経済的進歩、高い生活水準について語ることに意味があるのだろうか。 いかに経済がそれで繁栄するからといって、安全性を確保する方法も分からず、何千年、何万年の間、ありとあらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらすような、毒性の強い物質を大量にため込んでよいというものではない。それは生命そのものに対する冒涜(ぼうとく)であり、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い。文明がそのような罪の上に成り立つと考えるのは、倫理的、精神的にも化け物じみている。それは経済生活を営むに当たって人間をまったく度外視することを意味する。
<安原の感想> いのちと生存を保障する「英知」を ここでも恐ろしい指摘が冷静に行われている。その一つは、「経済がそれ(原発)で繁栄するからといって、あらゆる生物に計り知れぬ危険をもたらす毒性の強い物質を大量にため込む、その罪はかつて人間が犯したどんな罪よりも数段重い」である。我が国でもやがて使用済みの原子力発電所が「醜悪な記念碑」としての残骸を曝(さら)すことになる。 目先の経済繁栄に執着して、原発による人間、自然を含めた「いのちの破局」へと突き進むのか、それとも今ここで原発による「経済繁栄」を捨てるのか、その二者択一はすでに迫られつつある。求められるのは、目先の私欲を満たす「繁栄」や「経済成長」ではなく、いのちと生存を保障する「英知」である。
▽ 反「原発」のための対応策は
シューマッハーの著作(英文)が世に問われたのは1973年だから今(2010年)から約40年昔のことである。それ以降、日本では「もんじゅ」の再開に伴う事故(注)を含め、原発がらみの事故が絶えない。不幸にもシューマッハーの警告は的中しつつある。 (注)2010年5月、日本原子力研究開発機構(原子力機構)の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)は運転を再開した。1995年末のナトリウム漏れ事故で停止して以来、14年半ぶりの運転再開であるが、装置の故障や制御棒の操作ミスなどが相次いだ。
典型的な原発大事故として、チェルノブイリ原発事故を挙げることができる。1986年4月に旧ソ連ウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故では上空に吹き上げられた放射能が他国にまで降った。原発周辺は30キロにわたって人が住めなくなり、約14万人が移住させられた。いまなおガンなど病気にかかる人が増えている。北に隣接するベラルーシ共和国では国土の30%が放射能に汚染された。
予想しない核分裂連鎖反応が起きた事例として東海村JCO(株式会社ジェー・シー・オー=住友金属鉱山の子会社)の臨界事故がある。1999年9月茨城県東海村でJCOの核燃料加工施設で発生、作業員2人の死亡者と600人余の被曝者を出したと伝えられる。
では一体どうしたらよいのか。シューマッハーは次のように提案している。 ・神の賜物(たまもの)である自然界 ― 人間はその部分であって、自分の手で創ったものではない ― 、この大きく、すばらしい自然界と調和した、非暴力的で調和を重んじる有機的な方法を、意識的に探求・開発していくこと。 ・廃棄物の管理方法が分からない間は原子炉の建設を行わないこと。 ・電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと。
<安原の感想> 自然エネルギー活用もすでに示唆 「原発拒否」という以上、原発に依存しないで、どういうエネルギーを重視するかが問題となってくる。その提案はシューマッハーにしても、あまり具体的ではない。ただ「自然界と調和した、非暴力的で有機的な方法」の探求・開発をすすめている。この指摘は何を示唆しているのか。その含意を以下のように読み解くこともできるのではないか。 21世紀になって、周知のように石油、石炭さらに原子力の代替エネルギーとして太陽光、風力、水力など再生可能な自然エネルギーの活用が大きなテーマになっているが、シューマッハーすでにこれら自然エネルギーの可能性に視点を向けつつあった ― と。
一方、次のようにも指摘している。「石炭、石油のような再生不能の燃料は、やむを得ない場合に限って使うべきで、ぜいたくに使うことは一種の暴力行為である」と。この発想が上記の「電力を含むエネルギーを無駄遣いしない社会を作っていくこと」という無駄遣い抑制の提案に結びつく。この提案は今日こそ実践に値する。
<参考>ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に掲載の原発関連記事 ・「今日はお寺で6時間過ごそう ― 原子力発電と仏教をテーマに」=08年1月25日付 ・「日本列島に住めなくなる日 ― 原発を並べて戦争はできない」=07年8月28日付
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
|