遡ることすでに24年、1986年のチェルノブイリの原発事故は、大きな衝撃を人類にもたらしたはずだった。事故直後には、ヨーロッパのチーズは食べないとか、ワインもだめだとか、遠く離れた日本にあっても、危険を伝える情報が飛び交い、人びとは身を守るために右往左往。情報の隠ぺいで事故の全体像や被害はなかなかわからず、「住民の安全」なんて全然重視されない、というより、いったん事故が起きてしまったら、安全対策なんて無いに等しいということを世界中が思い知ったはずだった。 鎌仲ひとみ監督作品「ミツバチの羽音と地球の回転」
http://888earth.net/index.html 纐纈(はなぶさ)あや監督作品「祝(ほうり)の島」
http://www.hourinoshima.com/
◆いまどき流行りは“悪乗りエコ”
そして、原発事故の悲惨さを世界に伝える役割を担わされてしまった住民を案じ、子どもたちに白血病が急増したという情報に心を痛めたのではなかったか。日本国内でも高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏れ事故や茨城県東海村での放射能漏れ事故など、原発を巡る事故は相次ぐし、普通に考えれば原発は命脈尽きて当り前だ。電力需要を賄うには、というけれど、地震で柏崎原発が止まっても困らなかったし、ついこの間は島根原発が止まっても、電力需要はちゃんと賄えるのでご心配なく、と中国電力は地域住民を安心させてくれたし。かてて加えて、原発から出る廃棄物を処理する超危険なゴミ捨て場として造られた六ヶ所村の再処理工場は、何兆円をも投じながらトラブル続きで動かない。動き出せば危険も運転コストも増幅するのだから、このままじっと動かなければよいけれど、投じられた巨費には呆然とするしかない。
であるにもかかわらず、恐怖と戦慄と呆然の原発への感覚は、なんだかじわじわやられてしまっていたのだった。「エコ」ってやつに。「原発がキケンだっていうけど、電気がない暮らしなんかできないでしょ。ローソクで暮らすわけにはいかないし。となれば、原発って、CO2を出さないクリーンエネルギーだからね」。そう、エコの皮をかぶった原発となったのである。 さらに昨今、日本経済の手詰まり状況を原発輸出で打開しようと、政財界が一致して新興国の原発ビジネスへの参入にしのぎを削る。もっとも世界市場では日本の原発は性能がイマイチとあまり人気を博していないようだが、イマイチのものを輸出するってどうよ、という話でもある。
というような反・脱原発状況。そこに一矢報いんとするのが、鎌仲監督のドキュメンタリー「ミツバチの羽音と地球の回転」なのだ。 「なーに言ってんの、ローソクで暮らすなんて誰も言ってないでしょ。エコだって言うなら、本気で徹底的にエコをやろうじゃないの。断然面白いし、ちゃーんとビジネスにもなるんだから」と。超ポジティブにすっきりと、安全でキレイで持続可能で気持ちイイ新しいエネルギーへの転換を提案しているのだ。
◆自然エネルギーって楽そうじゃん
かなりの時間をさいて紹介されるのが、スウェーデンのエネルギー政策である。その実践を見てみると、自然エネルギーを使って暮らすというのは、どうもそう難しいことではなさそうであるばかりか、風や太陽や波や家畜の糞など、さまざまな自然資源を利用するシステムを作りあげ、動かしている実践者=生活者たちは、とっても楽しそうなのである。 「なんで日本ではこんな気持ちよくて楽しいことをやんないの?」と素朴に問われてしまう、そこにこそ希望がある。なーんだ、やればいいんじゃん、というわけだから。あんなに「規制緩和」とかまびすしかった日本だが、なんで電力は自由化されてないのだろうとか、日本の現状への疑問もわいてくる。無理を通せば道理が引っ込む、ではなくて、道理が通っていないから、案外簡単なことが無理だといわれるような社会に住んでいるのかもしれないのだ、私たちは。システム全体を大きく転換すること、それを制度化するのは最終的には政治だろうけど、政治をそのように動かす原動力は、大事にしたいものをはっきり発信する民意によって、地域で自治的に実践されてきた数々の挑戦にあるのだということもリポートからは伝わってくる。
そしてその未来への提案は、今まさに進められようとしている山口県の上関原発建設計画に対置される。対岸の原発計画と文字通り対峙させられることになり、原発建設に反対し続けてきた祝島の人びとが、美しい海や山の自然とともにゆたかに暮らし続ける、そのことこそが、ほんとうのエコエネルギーの実現への道に通じているのだということが、映画を見終わったとき、深々と胸に落ちてくる。
◆これって未来の豊かさだよね
そのゆたかに生きる祝島の人びとの暮らしに密着したのが、纐纈監督の「祝(ほうり)の島」だ。札びらを切られても原発はいらない、という島民の思いは、どこに根ざしているのかを、とつとつと語るようなドキュメンタリーである。祝島は、ハート形をした人口500人の瀬戸内海の小さな島。
http://www.iwaishima.jp/
島民は、魚を獲り、ひじきをとり、みかんや枇杷をつくり、棚田を耕して暮らしてきた。そこに28年前、突然中国電力が上関原発建設計画を発表。以来ずっと、島民はきれいな海とともにある暮らしを守るために建設中止を求め続けなければならくなった。島の人びとの暮らしぶりを見たら、誰もがそれを壊すことの理不尽に、胃がよじれるような痛みを感じるにちがいない。が、工事を進めようとする中国電力の社員は、抗議する島民に向かって、過疎化する島でいつまでも暮らせないだろうとか、仕事もないくせに、という言葉を投げつける。 彼らには、ゆたかに生きている人たちの姿が見えない。価値としてぶつかる2つの「ゆたかさ」があり、一方に軸足を置くと、もう一方のゆたかさは見えない。その光景は、そんな2層にはがれた日本社会のありようを映し出ているようにも見える。
棚田を耕し続けるおじいさんの顔は神々しいまでに美しい。海や山で働くお年寄りたちが毎晩、一軒の家の大きな炬燵に集って、眠くなるまで茶飲み話をし、大晦日は紅白歌合戦を一緒に見てすごす。これは北欧の福祉政策を超えている。なにしろ「政策」とかじゃないんだから。人びとの暮らしに寄り添えば寄り添うほど、ゆたかさの本質とは何なのかに思いが巡り、原発なんてものはあり得ない、という思いは動かしがたくなっていく。そういう2本の作品です。ぜひご覧ください。
(フリーライター)
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