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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2010年07月24日11時34分掲載
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やさしい仏教経済学
(8)シューマッハーの脱「経済成長」論 安原和雄
昨今、「経済」といえば、「成長」が合い言葉になっているような印象がある。「経済成長のために増税を」という珍説まで登場する始末である。経済成長こそが大目標で、そのためにはあらゆる手段が正当化されるかのような雰囲気である。しかし正直なところ、経済成長はそれほど立派な代物(しろもの)だろうか。 仏教経済学の視点からいえば、経済成長はもはや限界に直面している。それは地球上の有限の資源と環境が限りない成長を許さないからである。むしろ21世紀という時代は脱「経済成長」を求めている。それを前20世紀にいち早く提唱したのが仏教経済思想家、シューマッハーである。
ここではシューマッハー著『スモール イズ ビューティフル』(日本語訳は講談社学術文庫、原文・英文は1973年刊)が経済成長についてどう論じているかを紹介する。もちろん脱「経済成長」派として論陣を張っているが、今から40年近くも前の主張であることに留意したい。
▽ 際限のない経済成長はあり得ない
だれも彼もが十分に富を手に入れるまでは際限なく経済成長を進めるという考え方には、二つの点、すなわち基本的な資源の制約か、経済成長によって引き起こされる干渉に自然が堪(た)えられる限度か、あるいはその双方からみて重大な疑問がある。
ケインズ(注1)に従えば、経済的進歩は、宗教と伝統的英知がつねに戒めている人間の強い利己心を働かせたときに、はじめて実現できる。現代の経済は、はげしい貪欲(どんよく)に動かされ、むやみやたらな嫉妬(しっと)心に満ちあふれているが、そのお陰で拡大主義が成功を収めたのである。問題はこの秘訣が長期にわたって効力をもつか、あるいはその中に崩壊のたねを宿しているかどうかにある。 (注1)ジョン・M・ケインズ(1883〜1946年)はイギリスの著名な経済学者で、主著は『雇用、利子及び貨幣の一般理論』(1936年)。大量の失業を克服するには財政支出拡大による有効需要創出策が不可欠と説いた。さらに貪欲、戦争も是認した。
限定された目標に向かっての「成長」はあってもよいが、際限のない、全面的な成長というものはありえない。 ガンジー(注2)が説いたように、「大地は一人ひとりの必要を満たすだけのものは与えてくれるが、貪欲は満たしてくれない」が当たっていよう。永続性は、「おやじの時代のぜいたく品が今ではみんな必需品」といって悦に入るような欲深な態度とは相反する。 (注2)マハトマ・ガンジー(1869〜1948年)はインドの政治家・民族運動指導者で、インド独立の父ともうたわれる。非暴力主義の立場に徹したが、狂信的なヒンズー教徒に暗殺された。
貪欲と嫉妬心が求めるものは、モノの面での経済成長が無限に続くことであり、そこでは資源の保全は軽視されている。そのような成長が有限の環境と折り合えるとは、とうてい思われない。
<安原の感想> 貪欲と嫉妬心は、有限の資源と環境とは折り合えない シューマッハーの著作を読んでいると、「貪欲」、「嫉妬心」という言葉が繰り返し出てくる。「現代の経済は、はげしい貪欲に動かされ、嫉妬心に満ちあふれている」といった調子である。経済成長のために「貪欲のすすめ」を説いたのは、実はイギリスの経済学者、ケインズその人である。シューマッハーは、そのケインズとも交友関係にあったが、ここではケインズの経済成長論を批判する姿勢に立っている。その理由は、際限のない経済成長は有限の資源と環境とは両立できない、ということである。 つまり資源と環境は有限であり、経済成長が資源と環境に依存している以上、無限の経済成長は限界があり、不可能だという主張である。こういう認識は今(2010年現在)ではかなりの人々の支持を得ている。
▽ 経済成長は「善」という勝手な思い込み
数量的な方法によって、ある国の国民総生産(GNP)が5%伸びたとして、ではその伸びはよいことなのか、悪いことなのかと質問されると、経済学者は答えを避ける。GNPの伸びは、何が伸びたのかとか、その利益を得たものがいたとしたら、それはだれなのか、と関係なく善に決まっているのである。病的な成長、不健全な成長ないしは破壊的・破滅的な成長もあり得るのだという考えは、彼らにとっては抱いてはならない誤った考えなのである。 ごく一部の経済学者だけが、有限な環境の中で無限の成長はありえないことが明らかである以上、今後どの程度の「成長」が可能なのかという疑問を抱き始めている。とはいえこの人たちも、量的な成長の概念を脱却できていない。質的差異の優位を説かずに、彼らは(プラスの)成長の代わりにゼロ成長を主張しているにすぎない。
もちろん質を扱うのは量を扱うよりもはるかにむずかしい。判断を下すことが、計算することより高い次元の働きであるのと同じである。量的差異は質的差異に比べて分かりやすいし、定義もしやすい。一見科学的に精密だという印象を与えるけれども、その裏では重要な質的差異が犠牲になっている。
<安原の感想> 一部では「無限の成長」に疑問抱く ここでは二つの点に着目したい。一つは経済学者たちは経済成長(当時は<国民総生産=GNP>で計っていたが、現在は<国内総生産=GDP>で表す)は批判の余地のない「善」に決まっていると思い込んでいたこと。だから病的な成長、破壊的な成長もあり得るという発想には気づきもしなかった。つまり経済成長論者たちは思考停止病にかかっていたといえる。この思考停止病患者は21世紀の今なお後を絶たない。 もう一つは、シューマッハーのほかにごく一部の経済学者ではあるが、当時すでに「無限の成長」に疑問を抱き始めていたこと、である。その具体例が以下に紹介するローマ・クラブと著作『成長の限界』である。
▽ ローマ・クラブと『成長の限界』
ローマ・クラブ(注3)は、「人類の危機」レポートとしての『成長の限界』(デニス・L・メドウズ米国MIT助教授ほか著、大来佐武郎監訳、ダイヤモンド社、1972年刊)に関連して次のような「見解」を公表した。 ・多くの人々が、現在の成長の趨勢は、有限な地球の規模とどの程度まで両立できるのか、地球の生命維持能力からみて度を過ごしてはいないかと真剣に自問するようになるのに本書は貢献するだろう。 ・今はじめて、物的成長を放置することの対価を検討し、成長継続に対する代替策を求めることが決定的な重要性を帯びるに至った。 ・先進諸国が自らの物的生産の成長の減速を推進すると同時に、一方では発展途上国がその経済を急速に成長させる努力に対して援助を行う必要がある。
(注3)ローマ・クラブは1970年スイス法人として設立された民間組織で、世界各国の科学者、経済学者、教育者、企業経営者などから構成されていた。人類の危機(核戦力の拡大、人口増大、広がる環境汚染、天然資源の枯渇、都市化の進行、増大する社会不安など)に関するプロジェクトが活動の中心テーマ。日本からは当時、大来佐武郎(日本経済研究センター理事長)、木川田一隆(東京電力会長)らがメンバーとなっていた。
シューマッハーの『スモール イズ ビューティフル』とローマ・クラブの『成長の限界』は1970年代初頭に相前後して世に問われたが、共に脱「経済成長」論の先がけとなった。
▽1970年ころと21世紀の現状を比較すると
21世紀初頭の現在、脱「経済成長」論はどこまで広がっているだろうか。結論からいえば、「経済成長主義よ、さようなら」が合い言葉にさえなっている。一例を挙げると、米国ワールドウオッチ研究所編『地球白書2008〜09』はつぎのように指摘している。 時代遅れの教義は「成長が経済の主目標でなくてはならない」ということである。(中略)しかし経済成長(経済の拡大)は必ずしも経済発展(経済の改善)と一致しない。1900年から2000年までに一人当たりの世界総生産はほぼ5倍に拡大したが、それは人類史上最悪の環境劣化を引き起こし、容易には解消することのない大量の貧困を伴った ― と。
さらに次のようにも記している。 今日、近代経済の驚くべき莫大な負債が全世界の経済的安定を根底から揺るがすおそれが出ている。三つの問題 、すなわち 気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配 は、今日の経済システムと経済活動の自己破壊を例証している ― と。
<安原の感想> 経済成長はもはや「時代遅れ」 米国ワールドウオッチ研究所長のクリストファー・フレイヴィンはカリフォルニア州出身で、大学で経済学と生物学を専攻した。その彼が率いるチーム作成の『地球白書2008〜09』は、上述のように「経済成長は時代遅れ」と断じているだけではない。現下の最大テーマである「気候変動、生態系の劣化、富の不公平な分配」は、「経済システムの自己破壊」を例証している、とも書いている。 シューマッハーが1970年代はじめに経済成長への批判を始めてから約40年を経た今日、経済成長(経済の拡大)は、経済発展(経済の質的改善)をもたらすどころか、「経済の自己破壊」を招きつつある。それでもなお成長論者たちは、「経済成長」を錦の御旗として生活悪化につながる悪税(消費税引き上げ)などの画策を止めようとはしない。
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