ドキュメンタリー番組のディレクター、瀬川正仁さんの新刊が出た。「なぜ尾崎豊なのか。〜明日が見えない今日を生きるために〜」(バジリコ)だ。昨年10代から40代までを対象に行われたオリコンのアンケートで「最も衝撃を与えたロック・アーチスト」は尾崎豊だったという。50代の瀬川さん自身も尾崎の死後、尾崎ファンになった。その魅力はとくに歌詞にある、と瀬川さんは言う。
人は誰も縛られた かよわき羊ならば 先生あなたは かよわき大人の代弁者なのか (「卒業」)
尾崎は教師達に直接怒りをぶつけるような歌詞を書かなかった。だからこそ、教師達に恐れられる存在だったという。尾崎の人気がピークに達した1985年、尾崎の曲を聴く事を校則で禁じる中学校が相次いだ、と書かれている。瀬川さんは5年後の1990年に起きた象徴的な「女子生徒校門圧死事件」についても触れ、学校教育の崩壊について書いている。事件を起こした教師は「自分は、校則で決まった職務を遂行しただけだ」と主張し、自己弁護の本まで出版したという。それに対し、瀬川さんは強く憤っている。
「ただ、高学歴が豊かな暮らしのパスポートでありつづけていたとしたら、教育現場の荒廃はここまでひどくはならなかったと思う。尾崎の時代、学校運営が行き詰った背景には、学業に邁進することが、すでに豊かな暮らしを何ら保証するものではなくなってしまっていた、という現実があった。」
その理由として、団塊の世代が主要なポストを占めてしまい、後続世代にはポストが残されていない現実があったという。だが、それだけではなかっただろう。日本が世界一の経済大国になってしまったら、若者はあえて冒険する必要もなく大企業に粛々としたがって生きるしか道がないように見えただろう。それは無味乾燥だったのだ。
「なぜ尾崎豊なのか。」で瀬川さんは尾崎論を書くつもりはなく、尾崎と言う時代の語り部を通して、そこから見えてくる今の日本の姿を見つめたかった、と書いている。尾崎が歌手として活躍した時代は1983年から亡くなる1992年までの約10年だ。日本がバブル時代に向かい、崩壊するまでのおよそ10年でもある。この時代は金余りの時代であり、ついにアメリカを抜いたと錯覚した時代だった。そんな中で尾崎は時代に違和感を抱き、その後の時代を予言するかのような歌詞を書いていたという。
いったいなんだったんだ こんな暮らし こんなリズム いったいなんだったんだ きっと 何もかもちがう 何もかもがちがう 何もかもがちがう (「フリーズムーン」)
この本の中で「尾崎ハウス」が紹介されていた。1992年4月25日未明、尾崎が死ぬ直前に泥酔して全裸で倒れていた足立区の民家だ。尾崎の死後、ファンがこの場所を一目見ようと訪れ、1日百人を越えることもあったという。家主夫妻はそれまで尾崎について知らなかったが、ファンたちと関わるようになり、だんだん彼らと打ち解け、話を聞くようになったという。92年だけで5千人を越えるファンが「尾崎ハウス」を訪ねた。夫婦は高齢になった今も、尾崎の命日と誕生日に「尾崎ハウス」を解放しているという。
「尾崎ハウス」になぜ尾崎が最後の夜、倒れていたのか。しかも全裸で。その推測が「なぜ尾崎豊なのか。」で紹介されている。尾崎ハウスのあたりは尾崎が子供の頃住んでいた練馬の家の雰囲気に似ていたそうだ。尾崎はその練馬の家が気に入っていて懐かしさを感じていたのではないか、と推測するのである。
このくだりを読み、唐突だが、無頼派作家と呼ばれた檀一雄を思い出した。檀は無頼派と呼ばれ、生活が破綻しながら酒と女に明け暮れた、という風にとらえられがちだった。しかし息子の太郎氏によるとそれは虚像だったというのだ。檀は子ども時代から買い物をして自ら包丁を握った生活者だった。書くためにあえて修羅場をくぐることも作家としてあったのだろうことをうかがわせる話である。檀一雄は63歳で死に、尾崎豊は26歳で死んだ。
瀬川さんは尾崎ファンの一人一人を訪ね、なぜ尾崎に惹かれたのかを聞いている。優等生がいれば、路上生活者もいる。それぞれ自分の人生の中で尾崎に出会った瞬間について語っている。この本は瀬川さんの前作「若者たち」に続く若者論だが、今回は世代を超えた若者論でもある。というのもリアルタイムで尾崎を聞いたファンばかりでなく、尾崎の死後、尾崎ファンになった人が少なくないからだ。
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村上良太
【テレビ制作者シリーズ】(3) 再生の希望を辺境に見る、瀬川正仁ディレクター
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