練馬に「ブレヒトの芝居小屋」と名付けられた劇場がある。ここを根城にしている劇団、東京演劇アンサンブルが9月11日(土)から、「避暑に訪れた人びと」を上演する。原作はマクシム・ゴーリキーの未完の戯曲「別荘の人びと」(1904)だ。モスクワっ子はダーチャと呼ばれる別荘を持っているが、「避暑に訪れた人びと」もダーチャにやってきた中産階級の男女数人の劇である。
ロシアでは農奴解放後の1860年代から70年代にかけて、「ヴ・ナロード(人民の中へ)」を合い言葉に、農村に入って農民とともに社会主義を目指す若者たちがいた。だが、農民の支持が得られず、やがて運動も挫折。運動に関わったかつての若者たちも様々に人生が分かれた。テロリズムに向かう者もいれば中産階級の生活に安住してしまう者もいた。「避暑に訪れた人びと」の時代背景はそんなナロードニキ運動の挫折後で、後に始まるロシア革命との間にある。この期間は政治的に弛緩した小休止だったのかもしれない。
劇中人物たちもかつては「ヴ・ナロード」に理想を求めた若者だったが、小金ができた今では社会改革の志も忘れ、不倫に恋に美食に、といった生活に浸っている。一方、そうした生活に疑問を持ち、脱出したいと思っている者たちもいた。中心人物の人妻ヴァルヴァーラもその一人だ。心の底にはこんなため息がある。
ヴァルヴァーラ「ああ、わたしたちはなんて無関心な人間なんでしょう。どれだけ鈍感で、無関心なのかしら。ときどきわたしは、あらゆる感情が自分のなかで麻痺してしまったような気がします。」
しかし、俗物で何が悪い、と開き直る男もいる。
スースロフ「おれは平均的な人間なんだ、マーリヤ・リヴォーヴナ、俗物市民でそれ以外の何者でもないさ。あんたにははっきり言っておくが、おれは俗物市民でいるのが気に入っているんだ。」
演出の入江洋佑氏(劇団共同代表)はこう述べている。
「<アル>ものに満ち足りて頽落する中流インテリゲンツィアの中で、この<場>にいたらいけないと考える5人の人間が脱出を試みる。未来を想定しているわけではない。希望があるわけでもない。ただ同じ場所に止まっていてはいけないという感覚がある。論理性とか思想性といったものではない、<アル>ところから<ナイ>ものに向かって出発する。ただ動けばいいのだ。」
この劇を翻訳し、同劇団に紹介したのは大塚直氏(愛知県立芸術大学准教授)だ。大塚氏によるとゴーリキーの原作戯曲は未完だった。完成させたのはドイツの劇作家ボートー・シュトラウスと演出家のペーター・シュタインである。1970年代のことで、ベルリン・シャウビューネという劇団の人びとだ。ドイツでも70年代は「小市民の時代」で、一方そこからの出口を演劇人は求めたのだという。1954年に創立されて以来、「演劇行為の中に人間の変化の契機をつくる」ことを根底に演劇に取り組んできた東京演劇アンサンブルにふさわしい戯曲ではないか、と大塚氏は考えたそうだ。
舞台は20代から40代の若手中堅俳優たちを中心に演じられる。彼らは舞台の中と外を分けて考えず、日常の中に変化を求め、それを舞台にも反映させていこうとする。そういう取り組みだからこそ、逆に観客の日常にも光が当てられることになる。そうした観客個々人の生きる場に想像力が届く舞台になっている。個に閉じこもってきたこのおよそ30年間から、アンサンブルの時代へ再び人びとが向かい始めている。そんな印象を受けた。舞台は20日まで。詳しくは東京演劇アンサンブルのホームページで。
http://www.tee.co.jp
村上良太
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