今回から私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― を紹介したい。まず「いのちの尊重」、「非暴力(=平和)」を取り上げる。 「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。仏教でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間のいのちだけが尊重に値するわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、いのちの平等観である。一方、平和については一般に反戦・非戦、つまり戦争がない状態と理解されている。しかしこれは一面的な平和観である。21世紀の新しい平和観は「平和=非暴力」、すなわち戦争を含む多様な暴力がない状態と捉えたい。しかも平和は「守る」ものではなく、「つくる」ものであることを強調したい。
▽ 釈尊の説法 ― 「暴力といのち」について
仏教の開祖、釈尊は暴力といのちについて次のように述べている。(中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』・岩波文庫の「真理のことば」第一〇章)
「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。己(おの)が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」 「すべての者は暴力におびえる。すべての〈生きもの〉にとって生命は愛(いと)しい。己が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させしめてはならぬ」
ここに自己のいのちが大切であれば、人のいのちも大事にしなければならないという仏教思想の「いのち尊重」の原点がある。特に重要なことばは「殺させしめてはならぬ」である。これについて次のような受け止め方がある。
殺す暴力だけでなく、殺し合いを強いられる暴力、すなわち殺させるものと殺させられるものとの社会的不公平・支配被支配関係を前提する暴力 ― その代表は徴兵された兵士たち ― についても戒められている。私が殺されたくないのだから、私はだれも殺さないようにしよう、というのは、いわば個人的な決意の問題であるが、「殺させしめてはならぬ」というのは、それを実現しようとすれば、殺し合いを強いることが不可能な社会の仕組みをも視野に入れなければならない。 釈迦のことばは、(中略)実に社会的なものであったのだ。このことばに従うかぎり、仏教は暴力と戦争に反対する宗教である。(菱木政晴著『非戦と仏教』・白澤社)
ただ現実の世界では宗教とかかわる暴力沙汰が過去にもそして今日なお繰り広げられている。これを克服するためにも仏教本来の「いのち尊重と非暴力」の理念をしっかり認識する必要がある。
▽ 仏教の生命中心主義と不殺生戒
現代経済学の理論体系には「モノ」や「カネ」は登場してくるが、「いのち」の観念はない。無視していると言ってもいい。 では仏教経済学のキーワードの一つ、「いのちの尊重」とはなにを含意しているのか。まず生命(いのち)尊重(=生命中心主義)と人間尊重(=人間中心主義)とは質的に異なっていることを指摘したい。 仏教思想でのいのちとは人間に限らず、地球上の生きとし生けるものすべてのいのちを指している。人間も動植物も平等であり、人間だけが格別上位に位置しているわけではない。これが仏教思想の生命中心主義であり、平等観である。 これに対し人間を万物の霊長として自然、動植物を支配する地位に押し上げているのがキリスト教的人間中心主義といえる。キリスト教の世界である欧米では生きとし生けるものすべてのいのちではなく、「人間のいのちの尊厳」がしばしば強調される。
仏教といのち尊重とはどういう関係にあるのか。仏教に不殺生戒(ふせっしょうかい)があり、人を殺すことはもちろんだが、それ以外の無益な殺生を厳しく戒めている。人間は他の動植物のいのちをいただいて生かされているのだから、生きていくためには心ならずも殺生は避けられない。しかしそれは最小限度内に抑えるべきであり、それを超える無益な殺生は許されないと考えるのが仏教である。 日本人の習慣として食事前に「いただきます」と唱える。これは動植物のいのちをいただき、自らのいのちをつないでいることへの感謝の心の表現である。だからいのちある食べ物を大量に食べ残すのは、身近な無益な殺生の一つの具体例である。
国家権力による人間や自然に対する無益な殺生の典型例が戦争であり、それを促す軍備の増強も資源、環境に浪費と破壊をもたらすのだから無益な殺生である。自然開発という名の自然破壊も、多様ないのちを生かす営みを続けている自然の破壊だから不殺生戒に反する。
▽ 巨大な軍備も経済成長も盗む行為に等しい
不殺生戒と並んでもう一つ、仏教が説く不偸盗戒(ふちゅうとうかい)は、盗むことを戒めている。人のものを盗んではならないことは常識だが、ここでは盗むことを浪費、収奪も含めてもっと広い意味に理解したい。アイゼンハワー米大統領(在任期間は1953〜61年)は政権末期に「銃、戦艦、ロケットは、腹が減っているのに食べ物がない人々や寒いのに服がない人々からの盗品だ」と述べた。こういう発想に立てば、巨大な軍備それ自体が実は盗む行為そのものなのである。
大量生産ー大量消費ー大量廃棄という経済成長をめざす構造の中での物的資源、エネルギーの浪費は自然からの必要以上の無用無益な収奪であり、不偸盗戒に反する。経済のグローバル化と競争の激化を背景に生み出される失業と不完全就業による人的資源の浪費にしても、人から仕事の機会を奪うのだから、これも不偸盗戒に反する。こういう考え方に立てば、大量の兵器を作ったり、資源、エネルギーを浪費したり、安易に人員整理を行ったりする企業は「泥棒会社」と呼んで差し支えないのではないか。仏教はそれを戒めているのである。
イギリスの経済学者、J.M.ケインズは有名な著作『雇用、利子および貨幣の一般理論』(1936年。塩野谷九十九訳・東洋経済新報社)の中で、「戦争でさえ、富の増大に役立ちうる」と記している。ケインズ経済学を含む現代経済学は、さまざまな暴力を肯定している。戦争になって軍需景気が起こり、需要が増えることで経済成長が達成されるのはよいことだという発想に立っているからだろう。
<安原の感想> ― 今日の平和(=非暴力)はつくっていくもの
ここで21世紀における平和とは何か、どういう状態を指しているのかを改めて問うてみる必要がある。 「平和=非戦」、すなわち戦争がない状態が平和だという認識が一般的である。とくに日本人の多くはこういう平和観に囚われている。しかしこれは誤解であり、錯覚というほかない。これは狭い意味の旧型の「平和」観である。戦争さえなければ、本当に平和なのか。 身近な具体例で考えてみよう。日本での最近の年間交通事故死者数は約6000人(警察庁と厚生労働省の統計を総合的に概算したデータ)である。以前よりはかなり減少したが、それでも年間6000人もの尊いいのちが無造作に奪われている。自殺者は10年以上にわたって年間3万人を超えている。その主因は経済苦といわれる。交通事故死も自殺も戦場での戦死ではないのだから受忍せよ、といえるだろうか。
「平和すなわち非暴力」とは、単にテロ、紛争、戦争がない状態を指しているだけではない。多様な暴力がない状態を平和ととらえるのが今日的な新しい平和観である。すでに戦争よりもむしろ地球環境破壊、異常気象、感染症などの非軍事的な脅威・暴力によって多くの人命が失われている。さらに貧困、食料不足、安全な水の欠乏、飢餓、疾病、人権侵害、公正の欠如、格差の拡大 ― など多様な暴力によって苦しめられ、あるいは死に至る犠牲者が地球上には億単位で数えるほど多数いる。 米国では貧困層の若者が貧困からの脱出を目指して、志願兵として戦争に参加するケースも少なくない。いいかえれば貧困という暴力が戦争を容易にしているという側面もある。これら多様な暴力が克服されない限り、平和とはいえない。
仏教経済学の立場では平和について以上のように「非戦・反戦」に限定しないで、「いのちの尊重」を基点にして、広く「非戦を含む非暴力」ととらえる。このように平和を捉えれば、暴力があふれている現状は平和とはいえない。だから平和は守るものではなく、現状を変革し、創(つく)っていくものである。「平和を守ろう!」というスローガンは暴力のあふれる現状をそのまま維持し、守ろうと言っているに等しい。これでは今日の時代感覚にふさわしくない。
<参考資料> ・安原和雄「二十一世紀と仏教経済学と(上)― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年) ・同「同(下)― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同仏教経済研究所、平成二十一年) ・ブログ「安原和雄の仏教経済塾」掲載(08年8月15日付)記事=日本列島はすでに戦場である! 平和を「守る」から「つくる」へ ・ヨハン・ガルトゥング著/高柳先男ほか訳『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、初版第一刷1991年)
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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