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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2010年10月24日00時06分掲載
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文化
フランスからの手紙18 海峡華人‘ペラナカン’とシンガポール Les Chinois Peranakan et Singapour パスカル・バレジカ
パリのケ・ブランリ美術館で来年の1月30日まで興味深い催しが行われている。ペラナカン(Peranakan)の風習についてだ。ペラナカンとはマレーシア、インドネシア、シンガポールに何世代にも渡って住み着いた中国系の人々を指す。また彼らは「ストレートチャイニーズ」(海峡華人)と呼ばれることもある。
特にシンガポールではペラナカンに敬意を表し、2008年にペラナカン博物館をオープンさせ、ペラナカンが地域の歴史に果たした重要な役割を顕彰した。シンガポールは2世紀近くに渡って文化、人種、料理が見事に混交した世界でも恵まれた場所である。
実際、その起源を中国南部に持つペラカナンは、言語、衣装、料理の面で驚くほどの混合文化を作り上げた。たとえばペラナカンは「ババ・マレー語」を話す。これはマレーシア半島の現地語であるマレー語と、中国南部のホッキエン語が交じり合った言語である。最初に半島に渡ってきた中国系の人々はマレーシア人と結婚し、マレーシアの習慣を身につけ、マレーシアの衣装を着用した。また、女性は特にマレーシア料理を作るようになった。
コスモポリタンで商売にたけ、数ヶ国語を話すペラナカンは1824年にこの地域が英国の植民地になった時は英語を習得した。彼らは英国人と現地人の間で仲介人として積極的な役割を果たした。ペラナカンはまた学校を建てたり、学校を建てるために資金を拠出したりした。 タン・キムセン(陳金声1805-1864)やソン・オンシアン(宋旺相1871-1941)のような人々は元首相リー・クアンユー(李光輝1923−)の先駆者だ。
陳金声はマラッカで有名なペラナカン一族に生まれた。その後、シンガポールに渡り、英国の植民地時代にはシンガポール政府の設立に当って重要な役割を果たした。慈善家としても知られており、公共のための数多くのプロジェクトに私財を投じた。特に1857年にマレーシアからシンガポールへ水を供給する水道を建設するため13000ドルを寄付している。
宋旺相はアジアと欧州を結ぶ貴重な架け橋となった。シンガポール最高の教育施設ラッフルズ学院(リー・クアンユーもここの出である)を卒業後、1888年に奨学金を得て英国のケンブリッジ大学で法律を学んだ。シンガポールに帰ってからは弁護士として活躍し、古い制度を改革した。また女性の権利の擁護者でもあった。特に纏足やめかけなどの因習と戦った。1919年にはシンガポールの立法評議員(後の国会議員)に選出され、1936年には貴族の称号を与えられた。彼はまた「シンガポール華人の100年」と題する本も書いた。
そのように、19世紀以後、シンガポールは人種のるつぼとなった。西洋文化と東洋文化が平和に融合し、様々な分野で革新的な取り組みを行ってきた。20世紀後半にはリー・クアンユー首相が出て、シンガポールを世界でも最も豊かな国かつ腐敗の最も少ない国の1つに発展させた。彼はシンガポールを平和と繁栄のオアシスに築き上げたのである。オバマ大統領はリー・クアンユーを「20世紀と21世紀の伝説の人物」と評した。今では中国政府の幹部達も彼が築き上げた効率的なモデルに熱い眼差しを注いでいる。
■ケ・ブランリ美術館 2006年、パリ7区に開館した。アフリカ、アジア、オセアニア、南北アメリカなど西洋文明とは異なる文明や文化・芸術を扱っており、民族学の資料約35万点が収蔵されている。西洋文明中心主義からの脱却を図る目的で創設された。
http://www.quaibranly.fr/ ■シンガポールの水道 国土の狭いシンガポールでは飲料水をマレーシアから水道で輸入してまかなってきた。しかし、両国関係がぎくしゃくするなど、将来水の価格が値上がりする可能性がある。そこで現在シンガポールでは下水の浄水技術など、飲料水を自前で賄う研究開発を行っている。
■シンガポール共和国 人口499万人。国土は707万平方キロで東京23区とほぼ同じ面積だ。民族は中華系75%、マレー系14%、インド系9%、その他2%。宗教も仏教、イスラム教、キリスト教、道教、ヒンズーがある。 1819年に英国人ラッフルズが上陸し、1824年には英国の植民地となった。また1942年から45年までは日本軍によって占領されていた。1959年に英国より自治権を獲得し、シンガポール自治州となった。1963年にマレーシアが成立すると、その1州となる。しかし、2年後の1965年にはマレーシアから独立してシンガポール共和国となった。 (外務省のサイトを参照した)
寄稿 パスカル・バレジカ(Pascal Varejka) メールアドレス(言語は英仏伊) pascal.varejka@gmail.com 翻訳 村上良太
以下は元のテクスト
■Les Chinois Peranakan et Singapour
Le musée du Quai Branly, à Paris, présente jusqu’au 30 janvier prochain une intéressante exposition sur les traditions des Peranakan - un terme qui désigne les Chinois installés depuis plusieurs générations en Malaisie, en Indonésie et à Singapour, autrefois appelés aussi “Strait Chinese”. À Singapour en particulier, on remet à l’honneur les Peranakan - le Peranakan Museum a ouvert en 2008 - et le rôle très important qu’ils ont joué dans l’histoire locale. Singapour est en effet un lieu privilégié de la planète où les cultures, les populations et les cuisines se mêlent harmonieusement depuis près de deux siècles.
Originaires pour la plupart de Chine du Sud, les Peranakan ont créé une culture qui présente un fascinant syncrétisme sur le plan linguistique, vestimentaire ou culinaire. Ils parlaient le “baba malais”, un mélange de malais et de hokkien (un dialecte du sud de la Chine). Les premiers arrivés ont épousé des Malaises. Les Peranakan ont aussi adopté des coutumes locales, ainsi que des habitudes vestimentaires - chez les femmes en particulier -et des culinaires.
Cosmopolites, familiarisés avec le commerce, habitués à parler plusieurs langues, les Peranakan ont appris l’anglais dès la création de la colonie anglaise (en 1819). Ils sont vite devenus des intermédiaires privilégiés et ont joué un rôle actif. Ils ont aussi fondé ou subventionné des écoles. Certains, comme Tan Kim Seng (1805-1864) et Song Ong Siang (1871-1941), ont été en quelque sorte des précurseurs de l’ancien Premier Ministre Lee Kuan Yew (né en 1923).
Tan Kim Seng appartenait à une famille de notables qui a joué un rôle de premier plan dans la fondation et l’administration de la colonie britannique. Ce philanthrope a financé de nombreux projets d’utilité publique ; il a notamment offert 13 000 $ en 1857 pour créer un réseau d’alimentation en eau courante dans la ville de Singapour. Et Song Ong Siang a été un véritable trait d’union entre l’Europe et l’Asie. Après avoir fait des études à la Raffles Institution, la meilleure école de Singapour, où étudiera aussi Lee Kuan Yew par la suite, il a obtenu une bourse en 1888 et est allé étudier le droit en Angleterre, à Cambridge.
Après son retour à Singapour où il a exercé la profession d’avocat, Song Ong Siang été un réformateur, actif défenseur des droits des femmes (il a lutté contre la pratique des pieds bandés et la coutume d’avoir des concubines). Entré au conseil législatif de Singapour en 1919, Song Ong Siang a été anobli en 1936. Il a aussi écrit un ouvrage intitulé One Hundred Years of the Chinese in Singapore.
Ainsi, depuis le XIXe siècle, Singapour a été un creuset, à l’avant-garde dans de nombreux domaines, où se sont mêlés pacifiquement l’Orient et l’Occident. Puis, durant la seconde moitié du XXe siècle, Lee Kuan Yew a fait de Singapour un des pays les plus riches et les moins corrompus du monde, une oasis de paix et de prospérité. Le président Obama voit en lui “une des figures légendaires de l’Asie du XXe et du XXIe siècles”, et les dirigeants chinois ont les yeux fixés en permanence sur le modèle efficace qu’il a créé.
Pascal Varejka
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パスカル・バレジカ氏 ジャーナリスト。またパリやプラハの都市史を多数執筆。「図像で見るパリの歴史」「中世のパリ」「欧州の奇妙な象」、ガイドブック「パリ」など。イタリア語の芸術本、歴史書、ガイドブックなどを仏訳する翻訳家でもある。
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