私(安原)が構想する仏教経済学の八つのキーワード ― いのちの尊重、非暴力(=平和)、知足、共生、簡素、利他、多様性、持続性 ― のうち今回は「簡素」を取り上げる。簡素は非暴力(=平和)とも深くかかわっており、簡素に背を向ければ、それは暴力への道につながっている。その関連で地域重視のローカリゼーション(ローカル化)に言及する。一方、地域を軽視し、世界を壊しつつあるグローバリゼーション(グローバル化)に批判の目を配る。 簡素、シンプルな個人の暮らし方に最近関心が高まっているが、仏教経済学の簡素は、単に個人生活にとどまらず、政治、経済、社会を含めた視野で捉えたい。
▽ 簡素、シンプルな生き方に関心が広がってきた
最近は簡素、シンプルな暮らしへの関心が広がってきている。例えば朝日新聞(2010年8月17日付)の書籍広告欄にドミニック・ローホー著/原 秋子訳『シンプルに生きる』(幻冬舎)について次のような大きな活字が躍っている。 ものをもたない暮らしはこんなに楽しい! ヨーロッパを席巻した大ベストセラー 歴史を重ねてきた国に学ぶ心豊かな人生の過ごし方 変哲もないものに喜びをみつけ、味わう 上質なものを、上質な場所で、上質な時間をかけて
売れ行きについては「忽ち5万部!」と宣伝されている。 著作の内容は「シンプル主義37カ条」で、そのいくつかを以下に紹介すると ― 。
・嫌なことは引き受けない ・1年間に1度も使わなかったものは、すべて捨てる ・欲求と必要の違いを区別できるようにする ・可能な限り物質的なものを排除する ・シンプルにすることは「愛するものを排除するのではなく、幸せのために役にも立たず、貢献もしないものを排除するのだ」と自分に言い聞かせる ・泥棒が入っても、とっていくものがないくらいにしておく ・関わっているさまざまな活動の数を減らす
ともかくここでのシンプル主義は個人の日常的な暮らしぶりについての助言といえる。我が身に引き比べてみて、なるほどとうなずかせる寸言でもある。
▽ 簡素は非暴力とも深くかかわっている
仏教経済学が重視する簡素は、上述のような個人レベルにとどまらない。むしろ政治、経済、社会にかかわる変革の視点を重視し、非暴力とも深くかかわっている。一方、現代経済学では、表面を飾り立てた「虚飾」でしかないような貪欲、浪費、無駄を追求し、それは暴力に走りやすい。 ドイツの仏教経済学者、シューマッハーは著作『スモール イズ ビューティフル』(講談社学術文庫)の中で簡素と非暴力とについて以下のように指摘している点に注目したい。(シューマッハーの主張は、<シューマッハーの「小さいことは素敵」=連載・やさしい仏教経済学(5)>を参照)
・簡素と非暴力 「仏教経済学の基調は簡素と非暴力である」 「簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、〈すべて悪しきことをせず、善いことを実践し〉という仏教の戒律を守ることができる。物的資源には限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人は、これを沢山使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会のなかで知足(=Self Sufficiency自給自足)的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも戦争などに巻き込まれることがまれである」
・遠隔地の資源に頼るのは経済的失敗 「仏教経済学者は、欲求を満たすのに手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だと主張する。現代経済学者は国民一人当たりの輸送量(一マイル当たりのトン数で表示される)の数値が上がれば、それが経済的進歩の証左だというが、この同じ数値が仏教経済学者には消費の様式が悪化した指標となる」 ・再生不能資源(石油など)の浪費は暴力 「再生不能の燃料資源は、その地域的分布がきわめて偏っており、総量にも限界があるから、それをどんどん掘り出していくのは、自然に対する暴力行為であり、それは間違いなく人間同士の暴力沙汰にまで発展する」
以上のシューマッハーの指摘の中で特に以下の諸点が眼目といえる。 ・「地域社会のなかで暮らしている人たちは、世界各国との貿易に頼る人たちよりも戦争に巻き込まれることがまれである」 ・「手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済的成功どころか、むしろ失敗だ」 ・「再生不能の燃料資源(石油など)は、その地域的分布が偏っており、総量にも限界があるから、それを無制限に掘り出すのは、間違いなく人間同士の暴力沙汰に発展する」
以上の分析、認識、主張は、昨今の経済のグローバリゼーション(グローバリズム=地球規模化を目指すこと)を批判する立脚点を提供している。しかも簡素と非暴力の視点からローカリゼーション(ローカリズム=地域の中で多様な結びつきつくること)を目指す方向を打ち出している。
▽ 簡素、非暴力のローカル化へ転換を
「9.11テロ」(2001年の米国での同時多発テロ)以降、世界は暴力に満ちている。米国主導のイラク攻撃は世界第二の石油資源国・イラクの石油を確保することが狙いの一つであった。今日までの多くの戦争が資源・エネルギーの確保と争奪をめぐる国家間の暴力沙汰であったことは改めて指摘するまでもない。戦争を含む暴力を横行させるのがグローバリゼーション(グローバル化)である。 企業レベルでいえば、グローバル化とは、地球規模で事業展開する多国籍企業などのビジネスの規制緩和・自由化を推進するシステムのこと。例えばコカ・コーラやIBM、トヨタや三菱のような巨大企業にとって地球のローカルな市場に入っていく、あるいは退出していく自由が与えられているが、競争力の弱い企業は没落していく。
このようなグローバル化への対抗軸として簡素、非暴力、平和をもたらす地域重視のローカリゼーション(ローカル化)への転換が21世紀の大きな課題となってきた。これが仏教経済学の主張である。
▽ ローカル化とグローバル化をめぐる一問一答
グローバル化とは異質のローカル化への転換は、容易ではなく、以下のような疑問がつきまとう。それへの答えも考えてみる。
<問い1> グローバル経済の中で仕事をしている人も沢山いる。ローカル化を進めると、失業者が増える可能性はないか? <答え> 地球規模で規制緩和・自由化が進められると、企業が合併し、2つの企業が1つになる。この過程で必ず雇用が減る。だから企業合併への誘因をローカル化によって変えて、逆に企業を分ける方向に進めていく必要がある。これを進めていけば、労働力、資本、資源とのバランスがとれるところに辿りつくのではないか。
<問い2> 政府のほか、WTO(世界貿易機関)など国際機関が進める経済グローバル化の圧倒的な力がある中で、ローカル化が果たして対抗軸になり得るのか? <答え> グローバル化の推進者は実は一握りの人たちで、圧倒的大多数の人たちは、利益を受けると聞かされてはいるものの、実際には失うものの方が大きい。先進国では例えば社会的な福祉の崩壊、労働時間の長期化、その結果、子供と過ごす時間、自然の中で過ごす時間、生活を楽しむ時間がなくなってきている。日本ではこれに自殺、過労死などが追加される。要するにゆとりと人間性の喪失である。 このようにグローバル化で様々なものを失っている現実をまず明確にすること、そういう気づきを広めていくとともに、システムとしてもう一つ別の選択肢、ローカル化があることを広めていく必要がある。
<問い3> ローカル化を進めていく上で企業や政府などとのパートナーシップ(協力関係)はいかにあるべきか? <答え>パートナーシップ、コラボレーション(協働)など表現は様々だが、要は人間同士、人間と企業・政府を含む組織との協力関係をどうつくっていくかが課題である。グローバル化はこの相互の関係を断ち切った。企業は利益第一主義に走り、CSR(Corporate Sosial Responsibility=企業の社会的責任)やSRI(Socially Responsible Investment=社会的責任投資)への取組は不十分である。政府は大企業の支援者となり、一方、個人それぞれは弱肉強食の競争を強いられた、乾いた砂粒のような存在になっている。お互いの協力関係を築くにはグローバル化を批判し、ローカル化への視点に立って出直すほかないだろう。
<参考資料> ・世界を壊していくグローバル化 ― その多様な弊害の実相を観ると(ブログ「安原和雄の仏教経済塾」07年12月13日付掲載) ・台頭するローカリゼーション ― 経済グローバル化への果たし状(ブログ「同」07年12月20日付掲載) 上記の安原のブログ記事には女性活動家、ヘレナ・ノーバーク=ホッジさん(スウェーデン生まれの言語学者で、ISEC=エコロジーと文化のための国際協会・本部イギリス=の代表)らの意見が紹介されている。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
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