警察庁はAPECへの反対運動について、ウエッブで次のように書いているー。 海外の反グローバリズムを掲げる過激な勢力等は、最近の各種国際会議に合わせ、開催都市や会場周辺で大規模なデモに取り組んでおり、その過程で一部が暴徒化し、警察部隊と衝突するなど過激な抗議行動を引き起こしています。
一方、国内の勢力は、北海道洞爺湖サミット開催に伴って、海外の過激な勢力等と連携し、デモ等の抗議行動を行いましたが、サミットの終了後も人的ネットワークを存続させ、市民団体や労働組合との連携を強化し、また、国内外の国際会議への対抗行動やインターネット等を通じて、海外の過激な勢力との交流を深めています。
APECに向けては、21年3月25日の開催地決定以降、国内の反グローバリズムを掲げる過激な勢力の一部が、既に抗議行動への取組みを示唆しており、これら勢力が各種国際会議に伴い、海外の過激な勢力と連携して、集会やデモを始めとする様々な活動を行うものとみられ、その過程で、道路封鎖や暴動等の過激な抗議行動を引き起こすことも懸念されます。
現に、アジアで開催された韓国・釜山APEC(17年11月)においては、会場周辺で約3万人がデモ行進を行い、一部の参加者が警察部隊と衝突しました。
この警察庁のウエッブでは、意図的にセンセーショナルな「過激」に見える写真を多用し、反グローバリズムの運動が暴動を扇動しているかのような過大な宣伝を意図的に行っている。反グローバリズムの社会運動に関わってきた者なら誰でも知っていることだが、日本の社会運動には警備公安警察が期待するような暴動を起こす力量もなければ、そのような街頭での抗議行動への大衆的な支持もない。1999年のシアトルでのWTO閣僚会議が、大規模なデモによって包囲されて開催不能に追い込まれたこと、その後、世界銀行やIMF,G8などの国際会議が大きな抗議のデモにみまわれたことも事実である。
しかし、こうした抗議は、警察庁がここで強く示唆しているように、あってはならない犯罪的な行為なのだろうか。ぼくは、そうは思わない(だから、反グローバリズムの運動をぼくは支持してきた)。むしろ抗議行動は、正当な異議申し立ての意思表示であった。この国では、多の多くの民主主義を制度として採用している国同様、集団による意思表示を権利として認めている。とりわけ表現の内容が、政治や社会のあり方に関わる場合には、最大限の表現の自由が保障されるべきことは、言うまでもないことだ。集会もデモも、憲法が保障している私たちの権利であり、この権利を阻害するいかなる権利も警察にはない。
上記の警察庁の文章、特に、集会やデモがあたかも「道路封鎖や暴動等の過激な抗議行動を引き起こす」「懸念」があるかのように述べられている箇所は事実に反する。ぼくがこの四半世紀、何度もデモや集会に参加してきたが、道路封鎖や暴動を経験したことは、少なくともこの国ではない。反グローバリズムを掲げる市民運動や民衆の運動がいったいいつ暴動を起こしたというのだろうか?道路封鎖をした事実はあるのだろうか? 欧米諸国のように、もっと自由に道路をデモや政治表現の場として使えるようにすべきだということはデモ参加者なら皆感じていることだ。四列縦隊を強いられ、少しでも隊列を乱すとむりやり歩道側に追いやられ、警察車両の不要な警告アナウンスは、デモのシュプレヒコールをかき消してしまう。歩道とデモ隊の間も機動隊が壁を作り、歩道の人たちへのメッセージは届きにくい。
こうした異様な光景が日常化し、デモの参加者はまるで危険物扱いだ。「デモ隊がとおり、通行に支障をきたいしてご迷惑をおかけします」といったアナウンスを警察は繰り返す。こうして多くの人たちは、デモは権利ではなく、一部の人たちによる迷惑行為だという印象を植え付ける。デモ隊には、交通の邪魔になるからという理由で、デモコースを変えられ、あげくには、さっさと歩け、交通の邪魔だということを執拗に叫び、デモ参加者を威嚇する。常に道路封鎖をしてきたのは警察であり、暴力を挑発して嫌がらせを繰り返し、膨大な写真やビデオカメラの放列をデモ隊に向け、時にはモや集会参加者を上回る数の警備公安の私服を集会場周辺に配置して、威嚇的な態度をとってきたのは警察なのである。こうしたデモに参加した外国の参加者は、日本には言論表現の自由がないことをしっかり実感してくれる。
デモに参加する者や反グローバリズムの思想・信条を持つ僕のような人間を、あたかも犯罪者かその予備軍であるかのように印象づける警察の公報は、憲法がぼくたちに保障している権利を侵害する行為だ。警察のこうした広報は、公正でも客観的な事実に基づくものでもなく、証拠などどこにもない予断と偏見だけで作られたフィクションにすぎない。こうした広報のあり方は警備公安警察に限ったことではない。警察が、犯罪の取り締まりにおいても、客観的な証拠に基づいて捜査するのではなく、むしろ予断と偏見、見込みや思い込み、捜査官の価値観によって大きく左右されるという、近代警察にあってはならない手法がまかりとおっていることと共通した警察のメンタリティの基本的な性格を形成してしまっている。警察が冤罪事件を繰り返し引き起こしてきた背景には、予断と偏見を野放しにする警察全体の体質と無関係ではないが、警備公安警察が長年つちかってきた捜査手法がむしろ刑事警察にも感染してきた結果が、刑事警察の腐敗とつながっているというのは、僕の予断と偏見だろうか。
「過激な反グローバリズム」などこの国のどこにもありはしない。反グローバリズムは、ひとつの思想であり、社会観である。こうした社会観を警察は「犯罪」とみなしているということをぼくたちは、深刻な問題としてとらえておく必要がある。資本のグローバリズムは貧困と暴力、環境破壊を生みだすことを正当化するイデオロギーであり、資本のグローバリゼーションはその具体的な姿だ。経済の基本は衣食住をきちんと充足することにある。これが経済活動に関わる制度と組織の責任だが、こうした責任を資本はとろうとはしない。このことを反グローバリズムは資本と政府の社会的な責任として糾弾しているにすぎない。貧困や環境破壊、資源をめぐる武力紛争は、いずれも資本による「犯罪」であって、グローバリゼーションがもたらしてきた社会に対する破壊的な作用に他ならない。反グローバリズムの運動は、こうした資本の破壊的な作用に対する唯一の抵抗のための民衆の力である。憲法にあるように、こうした民衆による自由の権利は、民衆みずからが「不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(12条)のだから、警察による偏見にみちた広報が野放しのままなのは、僕たちの努力の足りなさという以外になのかもしれない。
この国の警察は、本当に愛国心にあふれていて、デモであれ集会であれ反政府的ないかなる行動も監視しなければならないと固い熱意に突き動かされているのかといえば、そうではないと僕は思う。APEC警備の警察官が犯罪を犯したという論外の事件 は別にしても、警備公安明らかな人事と予算の過剰を維持するための警察による自作自演が反グローバリズム=犯罪化であって、警備公安組織の維持の犠牲になっているのが、正当な民衆による異議申し立て運動なのだ。日本の社会運動の実状にあわない多くの資源を配分されているにもかかわらず、警備公安の人事も予算も実態が明らかになれていないという問題が従来から指摘されてきた。警備公安は、オウム真理教の地下鉄サリン事件で宗教団体を新たなターゲットに入れ、反グローバリズム運動や市民運動などありとあらゆる社会運動を取り締まりの対象に入れることで、警備公安の既得権を維持しようとしてきた。本来ならとっくに事業仕分けで大幅なリストラがあってもいい部署であることは、デモや集会に参加したことのある者ならだれもが実感している。「なんでこんなに公安がいるの?」なんでこのしょぼいデモにこの警備なの?」という素朴な疑問がすべてを語っている。警備公安警察は、ターゲットの危険性を過剰にアピールするために、不必要な家宅捜索やデモにおける過剰警備と逮捕を繰り返す。デモで逮捕されても裁判を維持できないから、起訴に至らないケースがほとんどで、実はこうしたケースは隠された冤罪というべきなのだ。この問題は大変重要な人権侵害なのだが、冤罪問題としてはまだ十分な議論にされていない。欧米なら数時間で釈放されるようなケースであっても、日本では長期の勾留が続く。逮捕者にとっては、一ヶ月近い勾留で精神的な拷問にあったり、職を失うなど、犠牲は大きい。そして、こうした逮捕をあたかも大事件が起きたかのような宣伝に利用し、反グローバリズムの犯罪化だけが一人歩きする。こうした警察の組織の維持・拡大再生産を抑制できるような力がないまま野放しにされた場合の行き着く先は、言うまでもなく、政治活動における冤罪の山である。
APEC 警備で横浜周辺は厳戒態勢のようだ。夜のデート(デートって死語だっけ?)もしっかり監視され、市民の日常生活や楽しみにも支障が出ていると聞いているが、こうした過剰警備による不自由さや市民的な権利の抑制が警察に批判が向かうのではなく、反グローバリズム運動に批判の矛先が向かうように仕向けられている。しかし、思い起こしてみれば、ワールドカップのときにフーリガンの暴動が起きると扇動しまくって会場周辺に監視カメラの設置を容認するように世論が誘導されたが、フーリガンは現れなかった。G8サミットでも暴動のおそれがあるなどと言われたが、暴動などどこでも起きなかった。それは、警備が万全だったからではなく、フーリガンの文化は日本には皆無だし、暴動を起こすような力は日本の社会運動にはないし、そうした民衆の抵抗の表現のエネルギーもないからだ。フランスの年金問題でもデモや、ギリシャの金融危機における民衆の抵抗などをみるにつけて、日本の社会運動は、ぼくにとってはいささか残念と思うほどに後退していて、この対抗的な運動の脆弱さが余計に、経済の基本的な責任を資本と政府に守らせるという最低限のことすらさせられず、貧困と生存の危機を押し広げてしまったという僕たちのふがいなさを恥じ入ることになるのだが。
反グローバリズム運動は犯罪でもなければ、犯罪の可能性をもつものでもなく、犯罪化されるべきでもない民衆の生存への要求としての思想であり、正当な民衆の異議申し立てである。思想と生存に関わる限り、この点で警察の介入や過剰な警備、予断と偏見に基づいた広報は、憲法に保障された僕たちの権利と自由への明らかな侵害だということを改めて述べておきたい。
「いらない!APEC」横浜民衆フォーラム
http://susquehanna.edoblog.net/ いらない!APEC 神奈川の会
http://blog.livedoor.jp/noapeckanagawa/
<付記> 今回のブログでは、「反グローバリズムって何?」という肝心の問いには答えていない。この点に言及しないで、反グローバリズムは犯罪ではない、と言っても説得力はないかもしれない。この点については、手前味噌だけれど拙著「抵抗の主体とその思想』(インパクト出版会)を立ち読みしてください。 ほとんどの言論は犯罪ではない。「イズム」(主義)を犯罪であるかのようにして警察が取り上げることに僕は原則として反対だ。新自由主義的なグローバリズムはグローバルな資本主義の犯罪を正当化するイデオロギーだと僕は考えるから、これに対して僕は自分なりの批判を展開する。しかし、ぼくは、警察に「新自由主義グローバリズム」を取り締まれ、とは要求するつもりはない。「主義」は取り締まりの問題ではなく、論争と討議を通じて、人々が価値判断すべき問題である。 (小倉利丸)
http://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/ より。
|