ひとりの青年がにこやかな軍人の脇に立っている。軍人の手は青年のひじをつかんで激励しているようだ。この軍人はボー・グエン・ザップ氏、ベトナム人民軍総司令官である。撮影されたのは北ベトナムが米軍と戦っていた時代である。青年は石垣巳佐夫カメラマン。日本電波ニュース社ハノイ支局に派遣されていた。ベトナム戦争中、北ベトナムに支局を持っていたテレビ通信社は日本電波ニュース社だけだった。
石垣さんがハノイに入ったのは1969年8月。ラオスのビエンチャンから国連の双発プロペラ機DC3でハノイに飛ばなければならなかった。だが親米的なビエンチャン政府と北ベトナム政府との関係が悪く、雨季でもあり、一旦飛び立ったもののまたビエンチャンに引き返す、ということを繰り返していた。
当時、日本は北ベトナムと国交がなかったため、石垣さんは日本電波ニュース社の支局があったカンボジアのプノンペンに行き、現地で北ベトナムへの入国ビザを取得しなければならなかった。その後、国連機で一旦ラオスのビエンチャンに行って乗り継ぎ、ハノイに入る手はずである。
雨季でビエンチャンの空港は滑走路が水浸しになっている。その中で人々が網で魚を捕まえている。 「大きな網でね。彼らはそれを持ち帰って食べるんだよ」 石垣さんがハノイに着けたのは東京を出て2週間後だ。
■29歳、初めての海外体験
石垣さんは当時29歳。初めての海外取材だった。 「キャパとか、岡村昭彦、バーチェットなんか読んだり見たりしていたからね、早く戦場に行きたいと思っていました」 日本電波ニュース社は石垣さんをまずカナダの放送局CBCのカメラマンとしてハノイに入らせた。こうすると旅費が片道分、浮くのである。
ハノイに到着早々、9月2日、ホー・チ・ミン大統領が亡くなった。国葬は予想外のスクープとなった。 「集まった人の泣き声が天に昇っていく感じがしました。本当に慕われていた人だと思いました」 カナダの放送局の仕事を終え、石垣さんが日本電波ニュース社ハノイ支局に入ったのは10月である。
支局はハノイの中心街にあるトンニャットホテル(統一ホテル)の3室を借りていた。今もこのホテルは残っている。4階建てで、戦争中は外国人ジャーナリストたちが使っていた。中国の特派員は毛沢東のバッジを、北朝鮮の大使館員は金日成のバッジをつけていた。 北ベトナムの対外文化連絡委員が各国から来た特派員たちに取材用ジープを割り振る。ジープにはルーマニア製のものやソ連製のジル、また中国製の車両もあった。ハノイ支局は3人体制で、放送局向けの映像配信だけでなく、新聞社向けの記事とスチール写真も仕事のうちだった。東京本社との連絡は電報で行われた。米軍に傍受されないように人名や場所などは暗号を使っていたという。
ホテルで朝を迎えた。朝は暗いうちから豚の悲鳴で目が覚める。ホテルの料理人が豚をつぶしているのだ。日中もしばしばホテルの中庭で大きな音がしていた。従業員らが中庭で実弾を使った射撃訓練をしているのだ。彼らは民兵だった。 町中には空襲に備えて一人、二人が身を隠せるだけの小さな蛸壺がたくさん掘られていた。トンニャットホテルの近くには湖があり、湖畔にも爆撃に備えた防空壕が多数掘られていた。
初めて町を歩いてみて強い衝撃を受けたのはハノイの人々の貧しさだった。飢餓ではないものの、配給食で栄養が不足し、みんな痩せていた。そんな中で何年も戦っていたのだ。
■ベトナム報道〜北に唯一のテレビ通信社〜
戦争の激化はメディアにとっても山場となる。日本電波ニュース社はトンキン湾事件が起きた1964年に戦争劇化を予測し、いち早くハノイ支局を設置した。赤旗も後に支局を構えるが、他には中国の新華社、キューバのプレス・ラテン、モスクワ放送、フランスからはAFPとフランス共産党機関紙ユマニテだった。 日本電波ニュース社は撮影したフィルムをソ連のアエロフロート機に乗せ、モスクワ経由で東京に送っていた。ここから多くのスクープ映像が生まれ、BBCやアメリカ3大ネットなど海外の放送局にも配信された。
石垣さんがハノイ入りした1969年は北爆が一時停止している時期だった。この時期、米軍のターゲットは北ベトナムを背後からささえていたラオスに移っていた。ホーチミンルートを中心に、ラオスでは毎日激しい空爆が繰り返されていたのだ。米政府のドミノ理論はラオスが崩れれば東南アジア全域が共産主義化してしまうというものだった。そこでグリーンベレーをラオスに送り込み、山岳民族に軍事訓練を施していた。
■1960年の安保闘争が原点〜ベトナム報道に中立はない〜
1962年春、石垣さんは日本電波ニュース社の入社試験を受けた。採用されたのは7人の受験者のうち2人だった。石垣さんは静岡県南伊豆の漁師の家に生まれ、19歳で上京した。日本電波ニュース社に入る前、2年間東京の印刷工場で働いた。 当時日本は60年の安保闘争で沸き返っていた。石垣さんもデモには何度も参加した。樺美智子氏が死亡した6月15日も石垣さんはデモに参加していた。安保闘争の体験は石垣さんの原点だという。 「労働者という意識がありました。当時、僕は何だってできると思っていました」
石垣さんにとって、ベトナム戦争の取材に中立はなかった。 「間違っていないと自信を持っていましたよ」
■とうとう本当に戦場に入って
「第一日目の朝四時、記者は洞くつの中のベッドで、ジェット機のつんざくような爆音にたたき起こされた。岩を伝わって重い爆発音が数回響いてくる。午前八時、上空を米軍機F4が旋回している。しばらくして急降下音。キーンという爆音が加速度的に大きくなったと思った瞬間、ドスンと鈍い音がした。みると右の方でメラメラと炎があがっている。「小型ナパーム弾だ」とラオス人が叫んだ。炎が十分以上燃え、ジェット機の音が続き、また爆弾が投下され、大きな爆発音がはじけるように続く。ボール爆弾だ。急降下音がきこえると、みんな岩のかげに身をかがめた。ここはまぎれもない戦場だった。」 (東京新聞 昭和45年1月20日)
ハノイ入りの半年後、ラオスから石垣さんが送った記事だ。この頃、ラオスは「第二のベトナム」と言われ、日々米軍の爆撃が激しさを増していた。1964年のラオスへの爆撃は1日3〜4機だったが68年11月以後は1日のべ1千機を越えたという。
石垣さんはホーチミンルートの爆撃を取材するため、ラオス愛国戦線の根拠地パテト・ラオ支配区に入った。その時のベトナムからの移動を石垣さんはこう記している。
「早朝、北ベトナムのタンホア市にある宿舎を出発、自動車で約9時間ほど走り続けた後、午後五時やっとラオスとの国境線にたどりついた。長さ5メートルほどの竹ざおで仕切られた道路の先がラオス解放区だった。あたりはうす暗く、夕日がそそり立つ山々を真っ赤に染めていた。」 (東京新聞 前出)
岩山には横穴式の防空壕が多数あり、戦場に来たことを感じた。山々が燃えるように赤く見えた。洞窟の中では生徒たちが米軍機の爆撃を避けながら学んでいた。洞窟の中には病院も、学校も、食堂もあった。
石垣さんはこの解放区で愛国戦線議長スファヌボン殿下が灌漑用ダム建設に自らシャベルを取って働くシーンを撮影する。この写真は世界のスクープとなり、ニューズウィークにも掲載された。殿下は国王の息子でありながらパリ留学を経て革命運動に身を投じた謎の人物だった。
村上良太
■分断を見る’北緯17度線への旅’ 〜戦場カメラマン・石垣巳佐夫〜
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