オーウェルの「1984年」は全体主義社会の怖さを描く近未来SFである。舞台は「戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり」という不気味なスローガンを掲げる全体主義国家である。もとはソ連を描いたものと受け取られがちだったが、最近のアメリカにもよく当てはまるという人もいる。ハヤカワepi文庫「1984年(新訳版)」の巻末に寄稿しているアメリカの作家トマス・ピンチョンもその1人だ。
「1984年」は核戦争後の世界で、今や3つの勢力が対立しあっている。アメリカと英国が中心になったオセアニア、欧州とロシアなどユーラシア大陸の北部が連合したユーラシア、そして日本や中国、コリアなどが連合したイースタシアである。これらはその時々で、同盟したり、戦争したりしている。
小説の主人公ウィンストンが属するのはオセアニアである。オセアニアは小説の冒頭ではユーラシアと戦争していたのだが、その後状況が変わり、イースタシアと戦争を始める。すると、近年の歴史文書をすべて書き換える作業が主人公の所属する「真理省」で始まる。歴史の開闢以来、オセアニアにとって敵は永遠にイースタシアだったということになる。すべては今を中心に書き換えられていくのである。この国では人間の今の意識がすべてであり、過去は今の意識に過ぎない。人間が誕生した時が宇宙の始まりなのだ。今を握るものが過去も未来も握るというのである。だから歴史は絶えず捏造される。
興味深いのはこの国の言語政策である。ウィンストンは真理省の中で言語の改定作業に取り組む歴史言語学者サイムと親しい。かつて話されていた言葉はオールドスピークと呼ばれ、現在、支配している公式の言語はニュースピークと呼ばれている。サイムはニュースピークの研究者であり、今彼が取り組んでいるのは形容詞だという。
「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反対語だって無駄だ。」
サイムは新しい辞書を作るために、形容詞をどんどん減らしているところなのだ。
「いい例が<良い>だ。<良い>という単語がありさえすれば、<悪い>という単語の必要がどこにある?<非良い>で十分間に合う−いや、かえってこの方がましだ。<悪い>がいささか曖昧なのに比べて、まさしく正反対の意味になるのだからね。或いはまた<良い>の意味を強めたい場合を考えてみても、<素晴らしい>とか<申し分のない>といった語をはじめとして山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけ無駄だろう。そうした意味は<超良い>で表現できるし、もっと強調したいなら<倍超良い>を使えばいいわけだからね。」
こうして良し悪しの概念は1つの語に集約できる。これはビッグブラザーのアイデアだという。ビッグブラザーは党を象徴する個人で、ヒゲをはやした男である。ビッグブラザーの狙いはどこに?
「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には<思考犯罪>が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう。」
ニュースピークは言葉からニュアンスをそぎ落とし、歴史を漂白し、できるだけ数少ない純粋な記号に言葉を矮小化したものだ。そのため、使用不可の言葉が年々増え、改訂された辞書から消えていくことになる。あるいは知っていても公的には使えない言葉になるのだ。
「2050年の前に−たぶんそれより早くに−オールドスピークについての実際的な知識はすべて消えてしまうだろう。過去の文学はどれも破棄されてしまう。チョーサー、シェイクスピア、ミルトン、バイロン−それらはみんなニュースピーク版でしか存在しなくなる。何か別物に変わっているというに留まらない。元のものとは事実上矛盾するものへと変わっているのだ。党の文学でさえ変わるだろう。スローガンでさえもね。自由という概念がなくなってしまったときに、<自由は隷従なり>といったスローガンなど掲げられるはずもない。思考風土全体が変わるのだよ。実際、われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる。」
歴史言語学者サイムはニュースピークの言語が完璧なものになった時に、革命は完成するという。では文学はニュースピーク版でどう変わるのだろうか。シミュレーションしてみたい。以下は福田恆存訳のシェイクスピア作「ハムレット」の台詞の一節である。
ハムレット「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。いっそ死んでしまったほうが。死は眠りにすぎぬ−それだけのことではないか。眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる。胸を痛める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら!」
これをニュースピークにしたら、こんな感じだろうか?
ハムレット「生か、死か、それが疑問だ、どちらが良い生き方か、長く非良い運命を堪えるか、剣を取って倍超非楽と戦うか。超むかつく!」
言葉が全体に少なくなっているので一冊のボリュームも半減するだろう。味気もなくなるし、状況も心理も分かりにくくなる。しかし、サイムによれば、そうした印象を持つのは僕がオールドスピーク世代だから、ということに過ぎない。
「1984年」から霊感を受けたと思われる近未来を描いたSF作品は多数ある。本の所持が禁じられた世界を描いたレイ・ブラッドベリの「華氏451度」や暴力社会を描いたアントニー・バージェスの「時計じかけのオレンジ」もその中に入るだろう。これらの作家は言葉に並々ならぬこだわりを示す。
ブラッドベリの「華氏451度」では密告で誰かが本を持っている事がわかると、消防士が火炎放射器を持ってかけつけ、焼き払う。所有者は即逮捕である。この世界の住民はケータイのようなミニスクリーンを常時、手放さず、ほとんどすべての情報は政府の監視の届く電子ネットワークから得ることになる。その多くは映像である。住民達は始終だらんとスクリーンに思考をゆだねている。
紙の本なら隠すことができるが、電子ネットワークでは一瞬にして情報が消えたり改ざんされたりすることもありうる。そうした中、レジスタンス闘士達は古典を章ごとに分担して暗誦し、歴史や文学の忘却と戦っているのである。
■参照 高橋和久訳「1984年」 (ハヤカワepi文庫) 新訳は昨年7月に出版された。高橋氏は東京大学教授(英語英米文学研究室)で、これまでグレアム・グリーン「21の短篇」、アラスター・グレイ「哀れなるものたち」、マイケル・カニンガム「めぐりあう時間たち−三人のダロウェイ夫人」、ジョン・バンヴィル「ケプラーの憂鬱」(共訳)などを翻訳している。
■ペンギンブックス「1984年」http://www.penguin.co.uk/nf/Book/CoverImagePopup/0,,9780141191201,00.html
村上良太
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