2月3日、詩人・作家のエドゥアール・グリッサン(Edouard Glissant 1928-2011)がパリで亡くなった。享年82歳。グリッサンはカリブ海のマルティニク島で生まれ、パリで哲学と人類学を学んだ。マルティニク島はフランスの海外県にあたる。
グリッサンは1958年に小説「La Lezarde」でフランスで最も権威ある文学賞の1つ、ルノード賞を受賞した。詩人、作家、劇作家だったが、「デコロニザシオン」(植民地解放)、「クレオール」運動の闘士でもあった。同じマルティニク島出身の詩人エメ・セゼール(1913-2008)、後進のパトリック・シャモワゾー、ラファエル・コンフィアンらとも交友をもった。グリッサンはパリで文芸誌「Acoma」を創刊し、クレオール文学の発展に大きな影響を与えた。 (ル・モンド紙を参考にした)
死亡記事を書いている僕はグリッサンの作品は未読である。その名前もフランス語の講座で耳にしたくらいだ。「全ー世界論」も買ったまま、書庫に入れたきり、どこにあるかわからない。だから彼の作品の紹介ができないがご容赦いただきたい。
グリッサンを語る上で「クレオール」という言葉が重要だが、日本ではあまりなじみがない言葉である。マルティニク出身の作家パトリック・シャモワゾーとラファエル・コンフィアンが書いた「クレオールとは何か」(平凡社)に、翻訳者の西谷修氏が解説を添えている。
「「クレオール」という語はいろいろな意味で多義的だ。内容自体も多義的だが、使い方も地域によって違う。けれどもまずフランスで「クレオール」と言えば、アメリカ、カリブ海を囲むアンティル諸島の二つの島、グアドループ島とマルティニク島、それに南米大陸北岸のフランス領ギアナを思い浮かべる。ときにはそれにインド洋マダガスカル沖のレユニオン諸島などが加わることもある。要するに「クレオール」という語に結びついているのは、熱帯の元植民地でその後も独立することなく行政的にフランスに統合され、「DOM−TOM」つまり「海外県」とか「海外領」になった地域である。」
「この地域の植民地経営は、後にも触れるようにサトウキビ産業によって成り立っていた。そのため、アフリカから大量の黒人奴隷が運び込まれた。彼らも首尾よく生き残ればこの地で子供を生むようになる。そのとき、アフリカ育ちの奴隷と区別するために、この地で生まれた奴隷がやはり「クレオール」と呼ばれるようになる。そしてサトウキビ農園での労働のために、白人支配者と黒人奴隷との間に最低限のコミュニケーションの必要から生まれた言葉も「クレオール」と呼ばれるようになり、こうしていつしか、この植民地で生まれたあらゆるものが、人も、言語も、物も、文化も「クレオール」の名で呼ばれるようになった。つまり、「クレオール」は、植民地に生まれた生活世界の内実をまるまる意味する言葉になったのである。」
支配者である白人とアフリカから連れてこられた黒人との間の最低限のコミュニケーション言語に、黒人の二世、三世たちは生活に必要な言葉を加えて行った。こうしてできた言葉が「クレオール」だった。
「「クレオール語」という「国語」は存在しないし、また一方でクレオール語で書かれたものだけが「クレオール文学」とみなされるわけでもない。むしろ作品はフランス語で(この場合)書かれ、多くの本はフランス「本国」で出版されている。では「クレオール文学」はフランス文学の特殊な地域版なのかと言えばそうではなく、英語圏でもスペイン語圏でも「クレオール文学」を語ることができる。」
もともとは欧州、カリブ海、アフリカの言語と文化が混交したものがクレオール文化であり、クレオール文化は世界に開かれている。そして、クレオール文化は地理にはとらわれないもっと大きな概念になった。植民地と非植民地、西欧と非西欧、起源の異なるものが溶け合うクレオール文化は今日、その存在感を日々増している。20世紀まで信じられていた西欧中心の歴史観や世界観、価値観が次々と崩れつつあるからだ。
フランスのインターネット新聞Mediapartに編集長のエドウィー・プレネルがグリッサンの追悼文を書いている。この追悼文は英文である。
http://www.mediapart.fr/journal/france/180211/homage-edouard-glissant-martiniques-whole-world-poet ’Far from drawing to a close with his death, Glissant's century has only just begun. For this old prescience of the poet, this visionary intuition of the young Glissant is the very imagination required by our globalised world. If, that is, we wish to spare it the predicted catastrophe of the prevaricating, belligerent headlong rush in pursuit of identity, so destructive of humankind and nature. To the threat of a uniform world dominated by merchandise, possessed by power, Glissant opposed his Tout-Monde (Whole World), where humanity is multiple, diversity the number one common asset, where feeling fragile is the first mark of lucidity, where the very principle of uncertainty is a precious compass.’
「死によって幕が引かれるどころか、グリッサンの世紀は今、始まったばかりだ。というのも青年時代にグリッサンが予見したヴィジョンはまさにグローバル化する私たちの世界が必要としているものだからだ。(グローバル化の反動として)アイデンティティをせっかちに模索する動きが世界中で起きているが、曖昧でしかも好戦的なアイデンティティの追求は人類にとっても自然にとっても破壊的なものだ。しかし、グリッサンの思想があれば、そうしたカタストロフィーも回避できるのではないか。大国の商品が世界に氾濫することで世界が均一になっていく脅威に対して、グリッサンは「全−世界」で対抗する。そこでは人間は多様であり、他と違っていることがまさに共通の資産となる。自己がはかなく壊れやすいと感じることこそ明晰さの第一歩なのだ。(世界そして自己が)不確実であると認識することこそが、現代の貴重な羅針盤になると言っているのである」(プレネルのグリッサンへの追悼文より)
プレネルは今日グローバリズムの下で進んでいる世界の単一化に対してもグリッサンの思想は有効であると言っている。グリッサンは1997年に「全−世界論」を出版しているが、日本でもみすず書房から翻訳が出ている。
■エドウィー・プレネル著「五百年後のコロンブス」(飛幡祐規訳 晶文社刊)より
「島は大陸に占領され、無理やり結びつけられ、大陸に応じた立場を選ばされる。この関係は、植民地化という遺産のために、いっそう激しい痛みをともなう。ヨーロッパ大陸は、移民と経済・文化をとおして非常に近い存在となった。それでいて、つねにはるか遠くの他者なのだ。アンティーユの作家でマルティニック島出身のエドワール・グリサンが、この感情を表現している。彼はアフリカで、はじめて無限の大地を実感として味わった。「あなたを抱き、奪い、のみこんでしまう大地」−アンティーユのアイデンティティの矛盾を、彼ほどたくみに表した者はほかにいないだろう。「我々島の人間は、この大地のめまいを知らない。我々の世界は海だ。海は限界であり、開放でもある。海の階段を上がると、島という舞台がある。そこでは世界の誘惑が演じられる。」 グリサンの初期の作品、「西インド諸島」は、「発見」をテーマにした引きさかれるような詩だ。コロンブスの「発見」によって、実際、この島と大陸の悲壮な関係がはじまった。」
■エメ・セゼール(詩人・政治家) 「フォール・ド・フランス市長を引退後もマルティニーク島に多大な影響力を保ち、島を訪れる重要人物には政治色に拘わらず全員と面会するのを習慣としていた。ところが、2006年にはニコラ・サルコジ内相(当時)の面会要請を拒絶。このためサルコジは、マルティニーク島訪問中止を余儀なくされた。面会拒絶の理由は政権与党である国民運動連合 (UMP) が植民地主義を肯定する内容の教育カリキュラムを促進していることと、サルコジ自身がフランス暴動において若者を「社会のくず」呼ばわりしたことにある。2007年フランス大統領選挙では社会党のセゴレーヌ・ロワイヤル候補と面会している。2004年には、人種の融和を訴えていたバラク・オバマに注目していて、大統領になれると確信していたといわれている。」 (ウィキペディアより)
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