仏教経済学(思想)は政治・経済・社会さらに人間自身の生き方の変革をめざしている。なぜなら現世は地獄さながらの様相を呈しているからである。そういう現世の変革を意図しない社会科学とりわけ経済学は存在理由がないといっても過言ではないだろう。だからこそ現世の変革を説くところに仏教経済学の存在価値があるといえるが、難問は、変革によって現世の生老病死などの「四苦八苦」を克服できるのか、である。 その答えは、変革は克服への必要条件ではあっても、十分条件とはいえない、つまりそこには自ずから人智の及ばぬ限界がある。とはいえ、それを読み取ったうえでなお変革への道を志すのが仏教経済学の眼目である。
▽ 仏教が説く「思いのままにならない四苦八苦」とは
仏教の開祖、釈尊は「人生は苦なり」と説いた。苦とは仏教では通常「四苦八苦」を指しており、『岩波 仏教辞典第二版』(岩波書店)はつぎのように解説している。 四苦とは、生(生まれること)、老、病、死で、これにつぎの四苦を加えて八苦となる。 ・怨憎会苦(おんぞうえく)=憎い者と会う苦 ・愛別離苦(あいべつりく)=愛する者と別れる苦 ・求不得苦(ぐふとくく)=不老や不死を求めても得られない苦、あるいは物質的な欲望が満たされない苦 ・五取蘊苦(ごしゅうんく)=五陰盛苦(ごおんじょうく)ともいう。現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は、苦であるということ。
現実を構成する「五つの要素」とは、「色」(しき=感覚器官を備えた身体)、「受」(じゅ=苦、楽、不苦不楽の三種の感覚あるいは感受)、「想」(そう=認識対象からその姿かたちの像や観念を受動的に受ける表象作用)、「行」(ぎょう=能動的に意志するはたらきあるいは衝動的欲求)、「識」(しき=認識あるいは判断)― を指している。いいかえれば人間を「身心」すなわち肉体(色)とそれを拠り所とする精神のはたらき(受・想・行・識)とから成るものとみて、この五つによって個人の存在全体を表し尽くしていると考える。
四苦八苦の仏教的解説は以上のようであるが、ここで念のため指摘すれば、「苦」を「苦しみ」というよりも「思い通りにはならないこと」と理解する方が分かりやすい。四苦の生老病死にしても何一つ思い通りにはならない。例えば自分の意志でこの世に生を享けた者は地球上で誰一人存在しない。老病死にしても、拒否したいと思っても、いつの日かは別にして、必ずわが身に迫ってくる。いくら頭脳が冴えていて、身体が頑健であっても老病死を避けることは出来ない。思い通りにはならないからこそ人生はおもしろい、ともいえるのだ。そこに「自由、挑戦、創造」をめざす生き方も選択できる。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(1) ― 脱・新自由主義路線へ
さて問題は仏教経済思想による日本の変革構想が四苦八苦とどのようにかかわってくるのか、四苦八苦の克服、解決にどの程度貢献できるのかである。 具体的な事例で考えてみたい。まず脱・新自由主義路線と四苦八苦との関連について ― 。
1980年代以降の主流派経済思想として市場原理主義と「小さな政府」(福祉や教育にも市場原理の導入を図る)を徹底させる新自由主義(=新保守主義)を挙げることができる。この新自由主義登場の背景には経済のグローバル化(地球規模化)がある。多国籍企業など大企業が地球規模での生き残り競争に打ち勝つためのイデオロギーであった。 その具体例はサッチャリズム(イギリスのサッチャー首相は1979年就任と同時に鉄道、電話、ガス、水道など国有企業の民営化、法人税減税、金融や労働法制の自由化など)、レーガノミックス(1981年発足した米国のレーガン政権の軍事力増強、規制の緩和・廃止、民営化推進など)、さらに中曽根ミックス(1982年発足した日本の中曽根政権にみる軍備拡張、日米同盟路線の強化、規制の緩和・廃止、民営化推進=電電公社、国鉄の民営化など)から始まった。
日本の場合、新自由主義路線の土台になっているのが日米安保体制=日米同盟(軍事同盟と経済同盟)である。特に指摘する必要があるのは、新自由主義路線には一つは日米軍事同盟の強化、もう一つは日米経済同盟の強化、という二つの側面が表裏一体の関係で構造化している点である。後者の日米経済同盟の強化がもたらしたのは、グローバル化の名の下に利益、効率追求第一主義に立って強行されてきた弱肉強食、不公正、不平等、多様な格差拡大、貧困層増大などである。自殺者は「小泉政権の構造改革」のころから増え始め、今日、12年連続で毎年3万人を超えており、孤独死も目立っている。 2008年秋の世界金融危機、世界大不況の発生とともにこの新自由主義路線の悪しき貪欲(=強欲)の構造は行き詰まっているが、消滅したわけではない。執拗に復活をねらう勢力も残存しており、その策動は民主党政権への交代以降も続いている。.
以上のように日米安保を土台とする新自由主義路線は大きな災厄を日本列島上にもたらし、四苦八苦を深めた。この計り知れない「負の効果」から免れるためには日米安保体制を破棄し、日米平和友好体制へと質的転換を図り、新自由主義路線の告別式を執行する必要がある。この質的転換はこれまでの格差拡大から縮小へ、貧困層増大から減少へ、自殺者や孤独死の削減へ ― と流れの変化を可能にし、四苦八苦の緩和にもつながるだろう。
▽ 変革構想と四苦八苦の克服(2) ― 「原発マフィア」、「原子力村」の解体を
大惨事をもたらした原子力発電の今後のあり方に関する世論調査(2011年4月16、17日実施)結果を紹介する。朝日新聞(4月18日付)によると、「増やす方がよい」5%、「現状程度にとどめる」51%、「減らす方がよい」30%、「やめるべきだ」11%で、「減らす」、「やめる」の合計は約4割。一方、日本は電力の3割を原発でまかなっていると説明したうえで、同様の質問をした2007年の調査では「減らす」21%、「やめる」7%で、原発疑問派が28%となっていた。 原発大惨事を受けて原発疑問派が増えるのは、当然のことで、ここではむしろ4年前の前回調査で疑問派がすでに3割近くも存在していた、その事実に注目したい。3割は決して小さい数字ではない。このことは安全神話で粉飾された原発推進はこれまで国民の合意を得て行われたのではなかったことを示唆している。
原発推進をごり押しした組織的勢力は何か。私(安原)は米日の戦争勢力、軍産複合体になぞらえて「原発推進複合体」(政産官学のほか、大手メディアも含む)と名づけているが、このほか多様な捉え方がある。 その一つは、「原発マフィア」と呼ばれる利権集団(中村敦夫著『簡素なる国』講談社・参照)である。 構成メンバーは、経済産業省や電力会社のOBで造る原子力安全・保安院、資源エネルギー庁原子力立地・核燃料サイクル産業課、原子力発電環境整備機構、元「動燃」(動力炉・核燃料開発事業団)の核燃料サイクル開発機構、電力10社、原発ゼネコン(原発工事一切を請け負う大手の総合建設業者)、日本原子力学会。これらの頂点の機関として内閣府に原子力安全委員会が置かれているが、単なる飾り物で、原発をよく知らない素人集団といえる。
もう一つは、小出裕章・京都大学助教が唱える「原子力村」の存在で、原子力利権に群がる産官学の存在(東京新聞4月9日付「こちら特報部」欄・参照)を指している。小出氏は次のような趣旨を指摘している。 ・電力会社からみて、原発は造れば造るほどもうかる装置だった。経費を電気料金に上乗せでき、かつ市場がほぼ独占状態だったからだ。さらに大手電機メーカー、土建業者なども原発建設に群がった。 ・大学研究者らがこれにお墨付きを与えた。研究ポストと研究資金欲しさからだ。原子力分野の研究にはお金がいる。 ・カネと同時に「原発推進は国の方針」という力も大きかった。だが、日本は唯一の被曝国で核アレルギーも強い。なぜ推進されるのか。核兵器の製造能力を維持するため、としか考えられない。原発を推進すれば、核兵器の材料であるプルトニウムが手に入るからだ。
以上のような原発推進組織体に共通しているのは、原発をめぐる利権集団であることだ。脱・原発へと進むためにはこの利権集団を解体することが不可欠である。 各紙の報道(4月19日付)によると、石田徹東京電力顧問が2011年4月末で辞任する。同氏は旧通商産業省(現経済産業省)に入省、2010年資源エネルギー庁長官を退官後、東電顧問に就任、2011年6月に副社長に就任の予定で、実現すれば5人目の経産省出身副社長になるはずだった。これが「官」から「民」への天下りで、世に言う「政官産学癒着体制」の具体例である。この相互なれ合いのため原発の安全対策がおろそかになったことはいうまでもない。 今回の辞任劇は「癒着体制」の一角が崩れ始めたことを意味するが、これが原発推進組織体そのものの解体にまで進むかどうか。遠くない日に解体できれば、脱・原発も夢物語ではなくなり、現実の選択肢となる。
ドイツのメルケル政権は、今回の福島原発大惨事をきっかけに脱・原発(2020年に完全撤退)の姿勢に転換し、新たなエネルギー政策として風力、太陽光・熱、地熱、バイオマス(生物資源)などの再生可能なエネルギー重視を打ち出している。ドイツにできることが日本では不可能という言い逃れは通用しない。脱・原発は新たな原発大惨事に伴う底知れぬ「苦」からの解放につながる。
▽ 変革は「四苦八苦」克服の十分条件ではないけれど
私が唱える変革構想の実現とは、大まかに言えば、仏教経済学の八つのキーワード(いのち尊重、非暴力、知足、共生、簡素、利他、持続性、多様性)の現世における実現を意味する。それがそのまま実現したとしても、四苦八苦が全面的に解決できるという性質のものではない。脱・新自由主義路線、脱・日米安保体制さらに脱・原発に成功したとしても、人間にとっての四苦八苦が完全消滅するわけではない。要するに変革によって八つのキーワードが実現し、多様な災厄を克服できたとしても、それは四苦八苦の克服にとって必要条件ではあるが、十分条件とはいえない。
四苦の生老病死の中の老病死は、この現世ではどこまでも思い通りにはなりにくい。八苦の中の残りの四苦はどうか。怨憎会苦は、変革によって世情が改善され、憎しみ怨む度合いが少なくなれば、軽減されるだろう。愛別離苦も、生きるに値する現世に変革できれば、時の流れが癒やしてくれるだろうという考え方はあり得る。求不得苦はどうか。物質的な欲望では「もうこれで十分」という知足の精神が身について簡素を求めるようになれば、不満は消失できる。しかし不老や不死への願望は、人智では手が届かない。 五取蘊苦はどうか。迷いによる一切皆苦を指しており、その背後に煩悩が居座っている。煩悩の代表的なものは三毒といわれる貪(とん=貪欲、むさぼり)、瞋(じん=怒り、憎しみ)、痴(ち=愚痴、無知)のこと。これが人間を苦しみに満ちた迷いの世界につなぎとめておく原因となっている。この煩悩をどこまで断つことができるか。大乗仏教では「煩悩即菩提」ともいう。すなわち煩悩を断つのではなく、煩悩と共に悟りへ精進、修行していくという考え方である。
いずれにしても政治、経済、社会の変革によって四苦八苦が完全に解消できるわけではない。四苦八苦を軽減し、和らげることは期待できても、一人ひとりの人間にとって消滅させることはむずかしいだろう。なぜならすべての人が悟りの境地に達することは不可能だからである。それを承知のうえで、やはり仏教経済思想を生かす変革を進めなければならない。昨今の現世は地獄そのままの様相を呈しており、その悲惨な現実が変革を求めているからである。変革に精進を重ねる努力こそが、大乗仏教でいうところの利他の実践であり、衆生済度(しゅじょうさいど=人間に限らず、いのちあるもの一切の救済)への大きな一歩にほかならない。変革への意志は今日も明日も持続させていくことが期待されている。
<参考資料> ・安原和雄<「平成の再生」モデルを提唱する ― 大惨事の廃墟から立ち上がるとき>=ブログ「安原和雄の仏教経済塾」に2011年4月5日掲載 ・同「二十一世紀と仏教経済学と(上) ― いのち・非暴力・知足を軸に」(『仏教経済研究』第三十七号、駒澤大学仏教経済研究所、平成二十年) ・同「同(下) ― 仏教を生かす日本変革構想」(『同』第三十八号、同研究所、平成二十一年)
<御礼>「連載・やさしい仏教経済学」は2010年4月から掲載を始め、今回の2011年4月22日付41回目でお開きとします。1年余にわたるご愛読に感謝申し上げます:仏教経済塾主宰者・安原和雄
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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