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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2011年05月06日13時04分掲載
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福島から
消された村 大野和興
40年間、コメを作ってきた。借地10ヘクタールをいれ、12ヘクタールの稲作を手がけていた。安全なコメ作りをめざし、農薬,化学肥料は控える環境保全型農業を追求してきた。営々と土を作ってきた田んぼに、もうはいれない。まだ1000万円の借金が残る農機も流された。残ったのは、その日乗っていた軽トラだけ。これが全財産だ。
はじめて会ったとき,志賀一郎さんは無精髭をなぜながら、以前ならこんなことはなかった、きれいに剃っていたんですが、と照れたようにいった。「以前」というのは2011年3月11日のことだ。東日本大震災が東北・北関東を遅い、福島第一原発が連続爆発を起こして、暴走をはじめた。
この日、志賀さんはすべてを失った。妻,孫,自宅,田畑、そして63年間生きてきた故郷、双葉町。お孫さんは昨年11月に生まれたばかり、遅い初孫だった。携帯電話に写真が残っている。見せてくれた。まるまるとした赤ん坊が笑ってこちらを向いている。涙が溢れ出して話が聞けない。我ながら記者失格だなと思った。
地震があった3月11日は志賀さんはイベントに野菜を運ぶために出かける途中だった。そこへ地震、引き返したが家は消えていた。息子夫婦も駆けつけ、探したが見つからない。そして原発爆発、退避指示。またすぐ探しに戻ってこれるつもりでそこを離れた。志賀さん自宅は海岸から500メートル、第一原発から3・5キロだった。
軽トラにいつも乗せていたものがある。一昨年、大阪であったコメの食味品評会でもらった金賞の表彰状のコピー。大事そうに取り出して見せてくれた。40年の手だれコメ作り百姓の唯一の存在証明。志賀さんにはこれしかない。
いま志賀さんは郡山の有機コメ作り仲間の家に身を寄せている。ここでコメ作りを手伝いながら,避難解除になったら妻と孫を探しに戻るつもりだった。原発から今も流出し続ける放射能は、その望みも断ち切った。「田植えが終わったら恐山に行って妻に逢い、許しをこいます。その後どうするか、何も決まっていません」と話す。何を許してもらうのか、ついに聞けなかった。
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村と家族とコメを話す
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