燐光群の芝居「推進派」(作・演出 坂手洋二)を伊丹アイホールで見た。冒頭、二人の男女がお互いを知るために自己紹介が必要か?という「議論」によって、結果的に「互いを知る」というパラドックスが提示されることで、どこのだれか互いに知らなくとも、同じ土地に暮らし、同じ空気を吸うことだけで、そこで起こるあらゆることに「無関係ではいられない」という原発事故後の日本の現実が浮かびあがる。(川北かおり=ニューズマグ)
舞台は徳之島をモデルにした日本の南にある架空の島。そこに次々と現れる大きなスーツケースをもった旅行者風の人たち。被災地の人々を受け入れると表明した一民間人の経営するスポーツジムへ集まってきた彼らはみな互いを知らない。互いに被災者であること以上にどんな肩書きがいるとでも?という思いなのかもしれない、彼らは互いの名前以外に自分を説明することはないまま、このスポーツジムのオーナーのもとで生活をしながら、島内で仕事や住まいを探し、ここに住まうかどうかのお試しに応募してきた人たちなのだった。
そして、彼らはここが沖縄に代わる「新たな米軍基地移転候補先」の島であり、その「基地受け入れ推進派」が自分たちを「受け入れた」オーナーその人であることを知る。
この島で過ごすにつれ、徐々にこのオーナーが本当に「推進派」なのか疑問に思いはじめる彼らはある日、全員でオーナーに問いかける。
「本当は基地なしで、島の経済がよくなり、島から若者がでていかなくなればいいんでしょ?でもいまは基地以外に考えられないから、だけなんでしょ?本当は基地なんてないほうがいいにきまってる、それならば、推進派じゃなくて、反対派だ」
また、反対派の人も「自分は反対派といわれるのは本当は違う。だって基地なんてないのが当たり前なんだから。それは自分たちの島にさえなければいいというのではなく、他の島にあるのはかまわないというのでもない。」
だれもが本当はこの島を守りたい、大切にしたい、人々とつながり合って生きて、ここで死んでいきたいと思っている。これほどにも「一致」した思いを抱きながらも、何者かによって「推進派」「反対派」それぞれのレッテルを貼られ、分断され、島を二分した争いに巻き込まれてしまう。彼らを別ち、分断する「何者か」とはどのような存在か?
それは原発をめぐる問題に見事に重なり合う。
戦前生まれの私の母は冷蔵庫が空っぽだと不安でたまらない、という。大正生まれの私の祖母は生前いつも「お金のないのは首がないのと同じだ」と言った。
彼女らには、消しても消せない「貧乏の記憶」「空腹の記憶」が染み付いている。食べるものに困った苦しい時代を生き抜いてきた世代にとっては、多少お金なんてなくても、生活を楽しくゆとりをもって、とか、多少不便でも環境のことを考えよう、と呼びかけたくらいでは消すことができない「貧乏」や「空腹」の強烈な記憶、恐怖、羞恥心が今なお、心の中を支配しているのかもしれない。
この思いを持つ世代は日本にはまだまだいるだろう。国会議員、町会議員、町の有力者、そういう人たちだけでなく、日本各地の小さな町、村、そして都会の一角にも、わたしの母や祖母のような記憶を抱え、「本当は」の思いを飲み込み、仕方なく、原発を受け入れざるを得ないと思っている人もいるかもしれない・・・。
そういう人々こそ、勤勉で、選挙にも進んで関わり、熱心に投票に行く世代なのだ。この世代の人たちの内なる恐怖心を無視して、我々世代の正義を主張するだけでは、対話は生まれない。
わたしは自分の正義を訴える前に、戦前戦中戦後をくぐり抜け、生き延びてきた彼らの体験に耳を十分に傾けたかと自問する。どんなに話しても話足りない、言い表せない苦労があっただろうこと、なんども聞かされたからと、遮ったことを思い静かに恥じる。あの世代の人たちが失ったもの、望んでも手に入れられなかったもの、亡くした絆や愛情・・・、若かったあの時代にこそ「得たかったであろう」モノゴトがあるだろう。
彼らが苦労を惜しんでも得ようとした平和や豊かさを、私は苦労もせず、享受だけして、それを当たり前だと疑うこともなく生きてきたのだから、彼らの無念さを私が引き受けるところから始めなければ、「お金」にこそ豊かさや安心を求める彼らの気持ちを揺さぶることはできないように思う。
「島の発展」と「若者がこの島から出ていかずに済むような未来」のためにと基地を選ぶ人の心を揺さぶる価値観をどういう言葉で伝えればよいのか、わたしは客席にいてその答えを探しながら芝居を見続けていた。
幸せとか満足の価値は必ずしもお金だけではないということを、どうやったら語れるのか。それは言葉で語れることなのか。
いや、おそらく人はみな、そのことに気づいている。人と人とのつながりや安心できるコミュニティーの存在こそ大切なものなのだと薄々気がついている。舞台にいる彼らもおそらく気づいているはずだ。
たとえば小学生の娘を伴ってこの島へ来た男性は、子どもに原発のテレビを見せたくない、母親が亡くなったことすら理解できずにいる子どもを守りたいといっていたが、父親自身が、実はテレビの原発報道に釘付けになり、その不安から目をそらすことすらできずにいたこと、母親が災害で亡くなったことを娘に伝えられずにいたのは父親の側だったのだこと。娘はかつて母親から、毎日疲れ果てて仕事から帰ってくる父親に心配をかけたり、負担をかけてはいけない、お父さんにやさしい声をかけてもらうことすら、お父さんにとってはさらに疲労を募らせることになるのだといわれ、父親には一日30分しか話しかけないルールを守り続けていたことなどが明らかになる。
またある女性。被災者だと周りは思っていたが、実は、被害報道をみて「一人でそれをテレビで見ている自分」が不安でたまらず、避難所へボランティアとして押しかけた。そこで目にしたのは、苦難の中でも支え合って生きる家族の姿。自分自身の孤独さ、惨めさをますます感じ、とてもたったひとりぼっちのアパートに帰る気持ちになれずに、被災者支援のこのプログラムにこっそり参加していたことを告白する。
そばにいるのに疲れ果てて言葉を交わせなかったり、自由に生きているつもりだったのに気づくと不安だけが募る毎日。豊かさを実感する余裕すらなく、今を維持し、回転させ続けるために追われるギリギリの日常でに疲れはてた様子が伝わってくる。
だからこそ、母や祖母の世代の人にはこんなわたしたちの生活を知って欲しい。見て欲しい。皆さんが得ようとして得られなかった豊かさを、得たために、疲弊しきったわたしたちの姿を。
そして、もう一度わたしたちと一緒に本当の幸せ、本当の豊かさの道を探してほしい。
全ての人にとっての「良い」解決や全ての人が同時に等しく「幸せになれる」方法などというマジックはない。一人が全員を幸せにできなくても、一人がまず自分を、そして一番身近にいる誰かを全力で守る行動」をとる。その気持ちをみんながもてば、自ずと世界はつながり合う。あらゆる人が自分を守り、大切な人を守り、支え合うという社会やコミュニティーのつながりを信じられるなら、お金を頼りにし、お金を信じなければならない理由は、もはや見当たらない。
芝居でこんなセリフがあった。
「いずれ、漏れ出た放射能の後処理のために、日本は徴兵制をしかなきゃいけなくなる。だれか一部の人にだけそんなことを背負わせていいはずがない。被爆量上限の250マイクロシーベルト以内で順番に分担して作業するための人は社会によって推薦されるのだ」
そのときに、誰かを「推薦」という名目で徴兵する社会とは、どんな社会なのだろうと、あたまの片隅に戦争、軍隊、という言葉がよぎる。今の沖縄の人々に対して、沖縄に暮らしていないわたしが「誰か一部の人にだけそんなことを背負わせている」当事者にほかならない。そして、徴兵制という言葉から軍隊や戦争が想起されることはわたしにとっては未来の悪夢だけれど、沖縄の人々の暮らしに戦争や軍隊の影が消えた日は一度もなかったのだ。
だからこそ、基地とは、「移転される」ものではなく、「なくさねばならないもの」でしかありえないのだと、沖縄の慰霊の日の6月23日に改めて強く思った。
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燐光群の推進派
http://rinkogun.com/2011-/entori/2011/6/8_Suishinha.html
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