デンマーク出身のトマス・ヴィンターベア監督が撮った「光のほうへ」を観て感じたことを記してみます。(川北かおり=ニューズマグ)
タイトルの「光」だけを信じて、信じて、ずっと待った。
アルコール依存症の母。夜毎に泥酔して帰宅する。男児2人と、生後まもない乳児。家に転がっている酒瓶を売ってお金に換えるしかない子どもたち。しかし、換金価値のある瓶は2本だけ。他に術を知らない子どもたちは赤ちゃんのミルクを手に入れるため万引きをする。彼らにできる「精一杯の生き延びる方法」が万引きだ。
泥酔して倒れ、そこで失禁している母親を、いつものことだというように、慣れた手つきで電気ショックを与えて意識を戻させる。
一番下の赤ちゃんをかわいいがり、名前を考え、ミルクをやり、交代でだっこする幼い兄弟2人。一生懸命洗礼の儀式を執り行い、この弟の誕生を心から祝福する。
彼らなりの精一杯の子育てだった。しかし、あっけなく赤ちゃんは死亡し、それは終わりを告げる。悲しみに絶叫する子どもたち・・・。唯一の保護者であろう母親の姿はそこにはない。
彼らが育った家庭とはそういう家庭だった。
人生の選択肢は無限で、可能性も無限にある、なんて戯言だ。誰だって、知らない世界を夢みることはできない。生きる手段だって、与えられた環境の中でしか見出せない。
子どもの頃、粉ミルクを手に入れる方法が万引きしかなかった彼らが大人になって、「まっとうな仕事によって生計を成り立てる」ことができるようになるのは奇跡に近いこと、なのだ。
成長した兄弟のうちの弟は、夫婦そろって麻薬中毒だったが、その妻を轢死で亡くしてからは一人で子育てをしている。懸命にかわいがり、面倒をみる。幼い頃に亡くしたく一番下の弟と同じ名前をつけて。
しかし麻薬とは縁を切ることができない。子どもへのプレゼントは万引きしてきた怪傑ゾロの帽子。麻薬の取引で手に入れた自転車。そしてお金の手だてがなくなると、訪問ヘルパーをしている先で強奪までしてしまう。
彼は彼が知っている世界の中で、必死に生き、懸命に子育てをする。しかし、がんばりは継続しない。ついつい、トイレで隠れて麻薬を摂取し、何度も分量を見誤って昏睡する。そんな父親に対し、子どもが学習した父親の愛情を失わない方法は「パパ、先にトイレに行っていいよ」。
父親が何時間も経ってようやく意識を取り戻したときには、子どもは空腹に耐えかねて食パンをかじりながら床で転がって眠っている。
互いに命の危険極まりない、ぎりぎりの生活を「家庭」という密室の中で父と子が毎日送っていることを、他人は知るすべもない。そして、行政ややさしい隣人が少し手を差し出そうとしも、孤独ゆえに二人の結びつきはそれを受け付けないほどに強固だ。
昏睡から目覚めた父親が保育園に持っていかせるお弁当を作ろうと冷蔵庫を開けると、中はからっぽ。それを見た子どもは珍しく号泣する。
子どもにとって、おそらく、どんなに粗末であろうとも父親が作ってくれるお弁当を持って保育園にいくことが、大切な親の愛情確認だったのだろう。
普段おとなしくお利巧な子どもが、全身をふるわせて泣き叫ぶ姿に、大阪で数年前にあった事件(離婚後一人で子どもを育てていた母親が幼い子ども2人をネグレクトした結果、子どもたちが餓死した。冷蔵庫からはなんとか食べ物を得ようと必死で冷蔵庫を開けようとした子どもの手の跡が多数みつかった)を想起し、万一父親が昏睡状態から生還しない状態で冷蔵庫をあけていたら・・・と、映画の虚構と現実が交錯し、激しく心が揺さぶられた。
一方、兄弟の兄のほうは幼い頃、赤ちゃんだった一番下の弟を不注意で死なせてしまった罪悪感から、愛する彼女と子育てする決心がつかず、別れを決めたあと、その鬱憤をはらすように他人を殴り服役していた。両腕にある無数の刺青の跡は、彼がたどってきた険しい人生を思わせた。
出所後、毎日ウェイトトレーニングをし、帰りにビールを浴びるように飲む、ただそれだけの毎日。しかし、隣人や友人たちには彼なりの精一杯の気遣いを見せる。
夜毎大音量でラジオを聴く老人、理由あって夫と別れ、子どもを引き取りたいと願うがそれが叶わず一人暮らす女性、自分の元恋人の兄で現実社会で蔑まれてきたために女性への妄想が抑止できず、トラブルを引き起こす男性・・・。
決して大きな幸福を得ているとは思えない人々に、同じく決して幸福ではないはずの兄はやさしく繊細に接する。それは弟に対する態度も同じ。
夫婦で麻薬中毒だった弟とその子どもを気遣い、公衆電話から電話をするものの、「こんな自分になにができる?何が言える?」と感じたのか、結局何も言えずに電話を切る。
そこから抜け出すすべを知らずに大人になった弟を、兄は決して責めない。仕方がない人生なのだと同じ境遇で育った兄には分かる。何を他人が偉そうに手を差し伸べることなどできるだろう、代わってやれる支援などないのだ。
苦しいだろうけど、がんばって抜け出せと、言ったところでできないことは承知だ。
「子どものために立ち直れ、できないなら子どもと引き離す」というセリフが行政の支援係の口から何度弟に発せられたとしても、そんな支援という名の説教では何も変えることはできないことを知っているからこそ、何もいえない。
亡くした自分たちのかわいい弟と同じ名前をつけた弟の子どものことを心配でたまらないのに・・・。
自分自身のどうしようもなさに腹をたてて電話機を殴りつけ、手に大きな傷を負いながら、それでも「その手を治療もせずそのままにしておく彼の姿は、まるで「死を待ち望む」心情の表れのようにも思えた。
ある事件に巻き込まれ再び刑務所に収監された兄は偶然に麻薬売買で捕まった弟とそこで再会を果たす。格子越しに言葉を掛け合う二人。弟の「もう俺はだめだ」という最期のメッセージが兄には聞こえたのか聞こえなかったのか。
弟が刑務所で死亡したことを知ったのは、兄が「死を待ち望んで」治療を放置していた壊死した右手の切断手術から意識を取り戻した後のことだった。
弟の葬儀で兄は弟の子どもと再会する。葬儀が行われる教会で、弟の子どもは叔父さん(兄のこと)から離れようとしない。その場にこれまで面倒をみてきたであろう、ケースワーカーらしき人たちがいるにもかかわらず・・・。
今も忘れられない話がある。
20年以上前、教員をしていた人から聞いた話だが、服役後、出所してきた父親がそれまで児童養護施設から通学していた児童を引き取りたいと申し出た後、登校しなくなったのを心配して教員らと自宅を訪問した。
何度ベルを鳴らしても出てこず、やっとわずかにドアが開いた瞬間に男性教員が部屋に飛び込むと、その児童は風呂場で犬の首輪をはめられ、餌同然の食事を与えられていた。児童をあわてて保護したが、その際、子どもは「お父さんと離れたくない、これは僕のお父さんだ」と泣いて抵抗したのだという。
その父親は子ども愛しさに同居を申し出たのではなく、何かに利用するためだったのだろう、決してまともな養育はしていなかった。しかし、自分に犬の首輪をはめるような父親ですら子どもは「大切な存在」だと泣いたのだ。
それに似た話は児童虐待やネグレクトの裁判でも切ない子どもの証言が数々聞かれる。
子どもにとって、どんなにひどい親であっても「親と呼べる存在のかけがえのなさ」は大人の頭で考えても理解しきれない。
どんなにやさしい先生がいても、親がほしい。どんなに親切な行政のケースワーカーや支援者がいても、その人たちは決して親ではないし、親と呼ばせてはくれないという切ない想い。
映画の中の兄弟が幼い頃に母親に対して想ったにちがいない「アル中のお母さんだけど愛されたい(愛されたかった)」という想いも、「これは僕のお父さんだ」と叫んだ子どものそれと大きくかけ離れてはいないだろう。
そして、映画のラストのシーンで、「父親の兄である叔父さん」の手を握り締めた子どもの気持ちとも・・・。
わたしたちの周りには様々な困難な状況のなか、必死に子育てをする親がいる。そんな親の苦しみが子どもにしわ寄せとなって押し寄せても、それでも親を信じたいと願い、生きる子どもたちがいる。
映画の中で、兄が手に大きな傷を負いながらも、その手を治療もせず、死を待ち望むかのような生活を送っていたのと同様に、生きる喜びや希望を見失った「自殺未満」の危険な状態にある子どもたちがいないという保証はない。
けれど、映画でもそうであったように、親を責めても、説教しても何も変わらない。
翻って日本の現状を考えるとき、ネグレクト同然の危険極まりない状態にある親子に、わたしたちが、かすかな光をかざすことはできるのだろうか?
多くの学者が考え、様々なNPOの人たちの努力をもってしても、すべての辛い状況にある人を「助け出せる」魔法は見つかっていないのだから、簡単な解決など望むべくもないだろう。
しかし、ひとつ可能性があるとすれば、親と子を唯一無二の切り離すことのできない閉じられた関係から、状況に応じて集合(同居)も解散(別居)もありえるのだと思えるような関係に社会が変えていくことの意義は考えられてもよいのではないかと思う。それは、家庭という密室状態を作り出さないことにもつながる。
親という存在と共に暮らしていないことがめずらしくなかったり、離れて暮らす親と、別に一緒に暮らす親と育ての親というように複数の親がいたり、血縁の有無に関わらず、子を監護する大人のことを誰でも親と呼べる、そんなことが当たり前だと思えるような社会になれば、親は「お母さんががんばらなきゃ、誰ががんばるんですか」といった無情な叱咤を受けずに、もっと早い段階でSOSを出せるかもしれない。
そして、子どもの側も一緒に暮らせない親の現状を理解し、新たに自分を監護してくれる存在に対して親という気持ちを徐々に感じられたり、新たな人間関係を肯定的に受け入れられたりする、かもしれない。
この映画の監督トマス・ヴィンターベア氏は「辛い状況にある人が持つ他者へのやさしさを描きたかった」という主旨の発言をしている。
わたしたちの社会は、どうやったら、この映画での兄のように、繊細な心遣いで、あの光のほうへ一緒に歩いて行こう、と手を差し出すことができるだろう。
どうしたら、差し出したその手に応えてもらえるようなつながりをもつことができるだろう。
どうしたら、魂が惹かれあうように、その差し出した手と掴む手が同時に求め合う瞬間を私たちは持つことができるのだろうか。
映画を観終わった今も、わたしの意識はそこから離れることがない。
***
映画「光のほうへ」
監督&脚本 トマス・ヴィンターベア 脚本 トビアス・リンホルム
原作:ヨナス・T・ベングトソン「SUBMARINO」
※ SUBMARINOとは、潜水艦から転じて、「水中に頭を突っ込まれて、頭を上げようともがいても、上から押さえつけられるという刑務所内での拷問」を意味しているそうです。這い上がることが許されない社会のありようそのもの、ともいえます。
※ 上映については、7月中は引き続き上映されるところもあるようです。
上映劇場のリスト: http://www.bitters.co.jp/hikari/theater.html
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