1980年にスペイン語圏の作家と批評家100人あまりにアンケートが行われた。「ラテンアメリカ文学の最良の作品は何か?」という問いに、トップの座を分かち合ったのがメキシコの作家、フアン・ルルフォ(Juan Rulfo,1918-1986)の「ペドロ・パラモ」とガルシア・マルケスの「百年の孤独」だった。この話は翻訳者の一人、杉山晃氏が「ペドロ・パラモ」(岩波文庫)の解説で触れていることだ。
「百年の孤独」についてはあまりにも有名で誰でも知っているだろうが、「ペドロ・パラモ」はどうか?あまり知られていない作品ではないか。数年前に一度手にとって読んでみたが、正直言えばとっつきにくい小説だった。とっつきにくさの理由はこの小説が70の断片から構成されていることである。断片は時系列に並んでいるわけではなく、登場人物や時間がしばしば飛ぶ。これは何の話だっけ・・・と思ってしまう。だから読みにくい。しかし、スペイン語圏の文人たちが「百年の孤独」と同点をつけた小説というからには、みすみす見逃せない価値があるに違いない。
余談になるが、レイ・ブラッドベリと言えば「華氏451度」や「火星年代記」などで知られているが、未だ創作を続けている。最近刊行された短編集「社交ダンスが終わった夜に」(新潮文庫)の中に、「ドラゴン真夜中に踊る」という短編がある。この小説は試写会の日、映写を担当したアル中の映写技師がウイスキー瓶を片手にフィルム缶の順番をでたらめに次々と映写機にかけ続けたところ、凡作だったはずの映画が批評家たちをうならせる前衛的大傑作と化け、会場は拍手の渦、ついにベネチア映画祭金獅子賞を受賞するという話である。話を時系列・単線で語るのがいい場合もあれば、バラバラに断片化し、前後脈絡なくつないだ方が面白い場合もある。
さて、この「ペドロ・パラモ」だが、話は青年が母親の死をきっかけに未知の父親を訪ねる話である。母親は昔、夫のペドロ・パラモと別れ、姉のいたこの町で暮らすようになった。しかし、死に臨んで息子に父を訪ねるように促す。
「ものをくださいなんて言うんじゃないよ。わたしたちのものをよこせとお言い。わたしに当然くれなきゃいけないものさえもらっちゃいないんだから・・・・人をこんなに放り出してさ。いいかい、うんとつぐなってもらうんだよ」 「そうするよ、母さん」
青年は父のいる町を訪ねるが、町は寂れ、ほとんどゴーストタウンと化している。若い頃、母親と親しかった老女が質素な家に青年を迎えてくれる。しかし、ペドロ・パラモはもうとっくの昔に死んでいることがわかる。ペドロ・パラモがいかに母親と結婚し、別れたか。いかに暴力的に地主としてのしあがったか。いかに別の娘と再婚し、その愛を失ったか。またなぜ息子の一人(つまり青年の異母兄弟)に殺されたのか。こうした話が、ペドロ・パラモの愛した女たちの側のエピソードの断片と絡み合い、複線になって続いていく。
全編、むっとする暑気と泥臭さが漂う。驚いたことにこの物語を語る青年も今やすでに墓場の下に埋まっており、物語は死者たちの会話だったことが後の方でわかる。小説のラストでペドロ・パラモは息子の一人に刺され、石のように荒野に崩れ落ちる。愛を乞いながら、愛を全うできなかったペドロ・パラモという男の寂しさが語られるのだ。時系列でみれば、青年が母親の死に際してペドロ・パラモを訪ねるように促されるのはこの後になる。
ルルフォはこのように話の時間的な流れを断片化し、女たちの物語の断片と交えて複線にした。こうした1つ1つの断片がやがて最後にペドロ・パラモの死で焦点を結ぶ。ペドロの死を最初に持ってきたのではそこで全部語ってしまう羽目になりかねない。これはあくまでもペドロ・パラモ=父を探す旅路の物語であり、ペドロ・パラモの正体は最後に明かされなくてはならないのだ。この小説がスペイン語圏の作家たちから高い評価を得たのは欧米の小説になかった独特の手法が評価されたからだろう。物語はジグゾーパズルのように断片化され、全体の絵は最後にぽっと浮かび上がるのである。これは何か彼らラテンアメリカの作家の内的必然をはらんでいるのではないか。
時間の流れを裁断し、いくつかのエピソードと絡めて複線でバラバラに進めていく手法はたとえばメキシコの映画監督、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの映画「アモーレス・ぺロス」にも見られる。最後に各エピソードは1つの大きな流れとなって結びついてくる。観客は最初大いに戸惑うが、単線的な出来事の流れではつかめない、物事の関係性が見えてくる。視野を広げ、個別的現実に距離を取ることができるクールな手法である。
こうした手法がなぜラテンアメリカで開花したのだろうか。思うにラテンアメリカにはスペイン人の歴史、原住民のインディオの歴史、アフリカから連れてこられた黒人の歴史が重層的に響きあっている。だからラテンアメリカの歴史は単線では語れない。そしてメスチソ(混血者)であれば自分の血の中に、いくつもの歴史と物語が交じり合っているのである。それらの断片の1つ1つに真実が宿ると同時に、それが何を意味するのかはもっと巨視的な視点を必要とするのだろう。
■アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014)またはメキシコ人の力
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201906011259396
■テキサスという土地 村上良太
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201305160719114
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