社説で野田内閣を「ドジョウ内閣」と呼んでいるのは東京新聞である。野田佳彦首相が民主党代表選で自らを地味なドジョウにたとえたことに始まる。詩人相田みつをさんの「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなあ」にちなんだもので、藤村修官房長官までも「ドジョウのように泥にまみれて・・・」と調子を合わせている。 さてそのドジョウ内閣の発足に当たって新聞社説はどう評価し、あるいは批判しているか。新聞読者の声や批評と見比べながら、新聞社説を採点すると、むしろ読者の率直で明快な主張に学ぶことが多く、教えられる。
大手主要紙の社説(9月3日付)は野田新内閣の発足を受けて何を論じたか。以下、5紙社説の主見出しを紹介する。かっこ内は社説の小見出しである。 *朝日新聞=野田新内閣スタート 「合意の政治」への進化を(政治改革の93年組、なじまぬ「対決型」、二重苦の国会で) *毎日新聞=野田内閣スタート 政治の総力を結集せよ(希望のシグナル送れ、内向きから外向きへ) *東京新聞=野田内閣スタート ドジョウは働いてこそ(震災・原発で継続性、協調で政治を前に、小渕内閣と類似?) *日本経済新聞=新内閣は一丸となって課題に取り組め(不毛な対立から脱却を、官僚を活用する発想で) *読売新聞=野田内閣発足 国難を乗り切る処方箋を示せ 「鳩菅政治」からの決別が急務だ(政官関係の見直しを、「震災」「原発」を迅速に、TPP参加へ動こう)
▽ 党内融和と「合意の政治」はどこまで評価できるか
朝日社説は党内融和のための首相の配慮を高く評価し、しかも<「合意の政治」への進化>を唱えている。その背景に<なじまぬ「対決型」>という朝日新聞としての認識がある。 例えば次のように指摘している。 ・イデオロギー対立はとうの昔に終わっている。 ・グローバル化や出生率低下、高齢社会の制約から、動員できる政策の幅は狭まり、手段も限られている。 ・こんな現実を見据えれば、民主、自民両党の立ち位置に抜きがたい違いがあるようには見えない。折り合える課題はもっと多いはずだ。 ・いまこそ、「対決の政治」を「合意の政治」へと進化させる好機なのだ。
一方、朝日新聞の投書欄「声」(9月3日付)に「党内融和より国民に目を向けて」(主婦 千葉市稲毛区 54歳=氏名省略)が載っている。その大要を紹介する。 今回の閣僚人事は各グループに配慮したものに思え、私は落胆した。党役員人事も、小沢一郎氏に近い人物を幹事長に起用するなど「内向き」が目立つ。菅政権のような失敗を恐れ、党内融和ばかりを気にする政権運営では、「国民生活が第一」という政策は実現できない。国民に100%目を向けることができない政党に、「もう一度やらせてみたい」とは思えない。
<安原の感想>「大連立」のすすめか「国民生活第一」か 朝日社説の唱える「合意の政治」は民主、自民両党を中心とする「大連立」のすすめであり、これに比べると読者の「国民生活が第一」(「声」)の主張の方がよほど素直であり、共感できる。 大連立のすすめは何を意図しているのか。政党それぞれの独自の主張には価値がないとでも言いたいのか。そもそも「イデオロギー対立はとうの昔に終わっている」という朝日社説の主張には承服しがたい。イデオロギーを「時代錯誤の思いこみ」とでも受け止めているのか。辞書によればイデオロギーとは「政治、道徳、宗教、哲学、芸術などにおける歴史的、社会的立場に制約された考え方」であり、「一般に思想傾向。特に政治・社会思想」を指している。 混迷深める今こそ日本の現状打開と行く末をめぐって、正しいイデオロギー論争が期待されているのではないか。それとも朝日社説は、かつて言論・思想の自由を奪い、日本国を破滅に追い込んだ軍部のように、もはや「問答無用」とでもいいたいのだろうか。
▽「脱原発」なのか、それとも「減原発」なのか
各紙社説は原発のあり方についてどのように主張しているか。 毎日社説=原発依存を減らし、再生可能エネルギーに転換していく前内閣の方針は踏襲するのが当然である。首相は記者会見で、将来は原発に頼らない社会を目指す考えを明らかにした。そこに至るプロセスについて政権内で議論を加速させ、どんなエネルギー政策を目指すのか、具体的に示していくことが必要だ。 朝日社説=原発新設の道は事実上閉ざされ、原発が減るのはどの党も認めざるを得ない。 読売社説=原発については菅政権のように、見通しのない「脱原発依存」に訴えるだけでは経済も、国民生活も混乱するばかりである。・・・原発の再稼働に向けて努力すべきだ。
一方、毎日新聞の投書欄「みんなの広場」(9月3日付)に「原発に頼らない国造りを」(無職 埼玉県幸手市 63歳=氏名省略)が載っている。その趣旨を紹介する。 原発事故が収束していないのに原発を再稼働させる動きが出ているが、これ以上国民に犠牲を強いていいのかと言いたい。原発は安全どころか、事故が一度起こると、とてつもなく危ないものだということがはっきりした。それでも再稼働させるのは何のためか。 「原発がなければ電力が不足し、電力がなければ日本の経済活動が衰退し、産業の空洞化が進む」。私はこれらの言葉を信じない。だまされてはならない。新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい。
<安原の感想> なぜ社説は「脱原発」を明言しないのか 毎日新聞(9月4日付)の全国世論調査結果を紹介する。「原発に依存しないエネルギー政策を打ち出した菅前内閣の方針を、新内閣は引き継ぐべきだと思うか」という問いに対し、回答は次の通り。 *引き継ぐべきだ=64%(全体)、60%(男性)、68%(女性) *引き継ぐ必要はない=31%(全体)、37%(男性)、25%(女性) この調査結果から見る限り、脱原発派が過半数を占めている。望ましい健全な意見と評価したい。
ここで念のため指摘しておきたいことがある。世論調査の問いの「原発に依存しない・・・」は「脱原発」を意味している。これと「原発依存減」(毎日社説)、「原発減」(朝日社説)とは意味内容が違うという点である。脱原発は原発をゼロにすることであり、例えばドイツは2022年を目標に完全な脱原発を目指している。一方、「原発依存減」、「原発減」は、原発の数を減らすという意味にすぎない。つまり完全な脱原発とは異質である。 読売社説の「原発再稼働」は論外として、問題は毎日、朝日の両社説がなぜ脱原発に踏み切ることに躊躇(ちゅうちょ)しているのか、である。不可解というべきである。
一方、毎日新聞の投書は「新内閣には原発に頼らない安全なエネルギーで国造りをしてもらいたい」と述べている。ここでの「原発に頼らない」は、投書の趣旨からいえば、明らかに脱原発を意味している。新聞社説よりも投書者の認識の方が的確といえる。
▽ 消費税引き上げをどう捉えるか
消費税引き上げについて新聞社説はどう捉えているか。 日経社説=社会保障と税の一体改革でも消費税増税などの検討作業の先送りは許されない。民主党内には議論そのものを敬遠する空気が漂うが、首相は成長戦略と歳出削減、増税の論議を平行して進める強い指導力が求められる。 東京社説=首相は財務相当時から、2010年代半ばまでの消費税率引き上げに取り組んでおり、この布陣(新財務相や新国家戦略担当相などの人事)も復興増税や消費税増税を確実にするためのシフトなのだろう。(中略)増大する社会保障費や財政規律の確保のため、いずれ消費税増税が避けられないとしても、野放図な歳出構造を放置しては国民の理解は得られない。 毎日社説=財政や社会保障の抜本改革は、誰が政権の座にあろうが避けては通れないテーマである。「国民の耳に痛いこともいう」のが持論の野田首相には、覚悟をもって取り組むことを期待したい。 朝日社説=年金などの社会保障制度は、政権が交代してもくるくる変えられない。その財源の手当ても与野党共通の課題だ。だからこそ与野党が協力して一体改革に取り組んだ方がいい。
一方、東京新聞の読者「発言」欄の「ミラー」(9月3日付)に「首相は国民の声を聞いて」(商店主 群馬県安中市 76歳=氏名省略)が掲載されている。その趣旨は以下のとおり。 代表選の候補者5人を比較すれば、無難な野田氏を選んだといえる。財務相を経験した野田氏だが、国民としては増税だけは避けてもらいたい。それ以前の問題として国会議員や公務員数の削減、報酬・給与の削減こそ先決問題だと思う。 一般庶民が何を考えているか、どうしてもらいたいかに耳を傾けられるか。これができなければ、短命に終わることは間違いないだろう。
<安原の感想> 民の声 ― 「増税だけは避けてもらいたい」 「民の声」すなわち「増税だけはノー」に政治が背を向けたら何が起こるか。その答えは「新内閣は短命に終わることは間違いない」である。民の声はこのように率直で単純明快である。新内閣の面々にとっては「内閣発足早々、縁起(えんぎ)でもない」とご不満だろうが、民の声を軽視しない方が身のためであろう。
新聞社説は今や消費税上げを意味する増税論が常識になっているらしい。日経と東京は「消費税増税」と明記しているが、毎日は「国民の耳に痛いこともいう」、朝日社説も「その財源の手当ても与野党共通の課題」という表現にとどめている。しかし毎日、朝日ともに消費税増税を意味していることは明らかである。
このように主要紙が事実上こぞって消費税賛成になびいているからといって、野田内閣は「消費税上げの環境が整いつつある」などと安心しない方が賢明である。なぜなら社説の主張は多くの場合少数意見だからだ。必ずしも「民の声」の代弁とはいえない。 政官財の代弁者であることもしばしばである。「3.11」前まで原発推進派としての役割を担ってきたことは今では常識となっている。社内でも少数派に属する。第一線の現役記者で社説を読んで参考にしたいと考える者は皆無に近い。かつて10年近く論説室に籍を置いていた私(安原)の体験からもそう言える。 野田内閣が泥まみれの「ドジョウ内閣」をあえて目指すのであれば、以上のことを見抜く眼力と実践が不可欠である。本物のドジョウに笑われないように精進を重ねることを祈りたい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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