あわただしく我が人生を生きながらえて来て、ふと気がついてみれば、すでに後期高齢者(75歳以上)の域に脚を踏み入れている。来し方を振り返るのはほどほどにして、ただいま現在の「今」をどう生きるかを考えないわけにはいかない。世に「一病息災」というが、私の身体は最近、「二病息災」(二つの病と共存しながら元気に生きる)という新語を当てはめたい気分である。 「二病」をいたわりながらどう生きるか。人生の大先達から「覚老」(自分の役割を自覚しながら生きる老人)という生き方があるのを学んだ。めざすべきものは覚老で、どこまで実践できるか、今後の大いなる楽しみとしたい。無造作に現世に「さようなら」を告げるわけにはいかなくなった。
総務省が発表した高齢者推計人口(9月15日現在)によると、65歳以上は前年より24万人増えて2980万人、総人口に占める割合は23.3%と、いずれも過去最高を更新した。80歳以上は前年比38万人増の866万人、総人口比6.8%で、ともに過去最高となった。この数字は日本の高齢化がさらに進みつつあることを示している。
▽ 後期高齢者となって仏教書を読み直す
私自身、後期高齢者となった今、20年近くも昔に読んだ仏教関係の著作を読み直している。なぜそういう心境になったのか。「一病息災」(ちょっとした病気のある人の方が身体に注意するので、健康な人よりもかえって長生きするということ)は歓迎できるが、最近どうも「二病」にとりつかれたらしい。後期高齢者にふさわしく(?)、脚のしびれだけでなく、腰痛も時折感じる。外出は少し控えたいという気分でもあり、それが仏教書を再読・自習したいという動機になっている。
「敬老の日」(19日)を目前にして再読した仏教書は、松原泰道氏(注)の著作である。 (注)松原氏は1907年東京生まれ。早稲田大学文学部卒。岐阜・瑞龍寺(ずいりゅうじ)で修行。臨済宗妙心寺派教学部長を経て、「南無の会」会長、坐禅堂・日月庵(にちげつあん)庵主。1989年第23回仏教伝道文化賞を受賞。ベストセラー『般若心経入門』など著書多数。2009年7月肺炎のため死去、101歳。
(1)「覚老」への努力が老人問題解決のカギ 松原著『法句経(ほっくきょう)入門』(1994年初版第19刷発行・祥伝社)はなかなか示唆に富んでいる。人生の四苦(生老病死)の「老苦=老いることの苦悩」について以下のように指摘している。
私(松原)は、若いとき、よく父から「お前、あっという間に60歳になるぞ!」と言われたものだ。しかし私は大して気にせず、のんびりしていた。ところが本当にあっという間に、私は60歳はおろか、70歳も目前だ。あわてて「老い」を真剣に考え悩む。 釈尊の「老は苦なり」を実感している。現代では生活苦や対人関係も老苦の原因である。さらに病・死苦、孤独感が重なる老苦は老人を自殺に追い込む。老人を山野へ棄てた習慣が未開社会にあったことは、伝説で知られる。しかし経済的な効用と能力だけが支配する現在の社会では、今日的「棄老」の傾向を感じる。
東洋大学教授の金岡秀友氏によると、すでに昭和17年に竹田芳衛著『敬老の科学』で「共同社会から功利社会へと世の中が転移しつつあるとき、一番さきに老人の位置がむつかしくなる。したがって老人は、つねに自分でなければできない役割をもつように心がけよ」と忠告しているが、その達見に驚く。 思うに福祉施設の増強とか、養老、敬老の心情を高めるだけでは、現代の老人問題は解決できない。竹田氏のいう自覚的老人 ― 「覚老」を老人自身がめざすことだ。とくに自分の年齢相応に人生の意味を自覚する「覚老」への努力が老人問題解決のカギになる。年齢の数量よりも年齢の密度の問題である。
このことを法句(115番)は次のように詩(うた)う。 たとい百歳の寿(いのち)を得るも、無上の法(おしえ)に会うことなくば、この法に会いし人の、一日の生(しょう)にも及ばざるなり。 <大意> 仏法という真理を探究することがなかったら、百年の長寿も、真理を学ぶ人の一日という短命の価値に及ばない。
私(松原)は「人生は丹精(たんせい)だ」と受け止める。人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない。それは花器や茶器が壊れやすいから大事に扱うのに似ている。花器や茶器は、テレビやステレオと違い、新品よりも古さに価値がある。といっても水洩れする花瓶や、さびた茶釜ではだめで、傷つかぬよう、さびぬように手入れと丹精で守りつづけて、年を経た丹精の道具にして、はじめて価値がある。人生もまた同じである。 「仏法に会う」とは、「永遠の青春」ともいうべき柔軟心(じゅうなんしん)を身につけるといってもいい。しかし若いときは、若さと誇りと自信から、老いを学ぶ気が起こらない。私がそうだった。この自己への奢(おご)りが永遠の青春性を蝕(むしば)むことを、このごろ気づいて後悔している。
(2)病気と健康とを和物に和えて もう一つ、松原著『わたしの般若心経 生死を見すえ、真のやすらぎへ』(1991年初版第1刷発行・祥伝社)の中から「老いと若さ」について紹介する。
老いと若さを比べたり、死と生とを比較すると、目の前が真っ暗になってしまう。いま自分がしている生活や、いま自分が置かれている状態と、他のそれとの優劣を比べあわせるなら、苦悩はいつまでもなくならない。 もしもいま、あなたが病床にあるなら、「健康だったらなあ!」と、幻の健康と比べっこせずに、病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えてごらんなさい。健康なときには味わえなくて、病気になってはじめてわかる人生の意味・味わいをわからせてもらえる。
私は(戦後)復員したとき肺を結核菌に冒(おか)されていた。栄養失調で身体も衰弱していたので、トイレの往(ゆ)き来(き)は、両手を壁についての伝え歩きだった。終戦直後なので食糧も医薬品も不自由の絶頂で、病気回復などは望むべくもない。といって「死にたい」とも思わない。もちろん生きたいのであるが、生き死には私の力ではどうにもならないのだからと思い、床の中で般若心経などを黙読した。 私はそのとき「生き死にを超えるとは、大いなるもの(私の場合は仏の心)にお任(まか)せすること」だと、合点した。「超える」も「任せる」も、ともに小さな自分にとらわれる執着から脱皮することなのだと、腹の底からうなずくことができた。それが私の調理した生き死にの和物の味である。
<安原の感想> 病との共存を覚悟 ユニークな松原節(ぶし)には今さらながら示唆を受けるところが尽きない。「人生は丹精だ」、「人生ははかないがゆえに、大切にしなければならない」、「病気と健康とを和物(あえもの)に和(あ)えて」などがそれである。特に「和物に和えて」という表現を使って、病気と健康との優劣を比較しないで、病気と健康の双方を受け入れよ、という指摘は含蓄に富んでいる。 誰しも病気はいやで、健康でありたいと二者択一の考え方に囚(とら)われやすい。私自身そうであった。小中学生の頃、当時子どもには珍しいといわれた関節リュウマチにかかり、毎冬寝たきり同然になって、寝床で泣いていた。しかし高校生になった春から健康になりたい一心で毎朝冷水摩擦を始めたら、途端に関節リュウマチも逃げ去った。以来60年冷水摩擦を励行してきたが、今度は後期高齢者としての我が身に病魔が目を付けたらしい。軽い脚のしびれと腰痛が消えない。病との共存を覚悟せざる得ない、そういう心境である。
▽ 今後は「覚老」として何をめざすか
後期高齢者として病との共存は覚悟するとして、問題は覚老として何をめざすのかである。「悠々自適の老後を」という考え方もないではない。しかしこの生き方は中身が今ひとつ不明である。独りよがりの自己満足に堕する可能性もある。「覚老」の精神に沿わないかも知れない。 さてどうするか。やはり及ばずながら「世のため人のため」という利他の心構えは失いたくない。どこまで実践できるかは、今後の課題だが、少なくとも心構えだけは捨てたくない。そのためには仏教経済学(思想)のすすめをおいてほかには考えられない。一般の大学で教えられている現代経済学を批判する視点に立つ仏教経済学は今なお未完であり、広く社会に根づくにはさらに時間と努力を要する。
私(安原)の考える仏教経済学のキーワードとして八つを挙げたい。「八」(漢数字)は末広がりを意味しており、将来へ向かって発展していくという期待をこめて使いたい。しかも八つのキーワードによって仏教思想とのかかわりをより分かりやすく提示することに努める。その場合、現代経済学への根本的批判が原点となっている。 以下、仏教経済学の八つのキーワードを列挙する。〈 〉内は現代経済学の特質を示す。
*いのち尊重(人間は自然の一員)・・・〈いのち無視(自然を征服・支配・破壊)〉 *非暴力(平和)・・・・・・・・・・・〈暴力(戦争)〉 *知足(欲望の自制、「これで十分」)・・〈貪欲(欲望に執着、「まだ足りない」)〉 *共生(いのちの相互依存)・・・・・・〈孤立(いのちの分断、孤独)〉 *簡素(質素、飾り気がないこと)・・・〈浪費・無駄(虚飾)〉 *利他(慈悲、自利利他円満)・・・・・〈私利(利己主義、自分勝手)〉 *多様性(自然と人間、個性尊重)・・・〈画一性(個性無視、非寛容)〉 *持続性(持続可能な「発展」)・・・・・〈非持続性(持続不可能な「成長」)〉 補足(1):競争(個性と連帯)・・・・〈競争(弱肉強食、私利追求)〉 補足(2):貨幣(非貨幣価値も重視)・〈貨幣(貨幣価値のみ視野に)〉
仏教経済学の最大の特色は、いのち尊重(人間に限らず、動植物も含めて生きとし生けるものすべてのいのちの尊重)であり、現代経済学にはこの視点は欠落している。競争については仏教経済学もその重要性を認めるが、個性と連帯を生かす競争をすすめる。一方、現代経済学は弱肉強食をすすめ、個性や連帯を損なう傾向があり、仏教経済学とは異質である。 以上の八つのキーワードからいえることは、仏教経済学に立脚しなければ、地球も世界も日本も救われないだろうという期待がある。このような認識を大切に育んでいくのが覚老としての希望である。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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