ノーベル平和賞受賞者のワンガリ・マータイさんが亡くなった。マータイさんは2005年に初めて来日したとき、日本語の「モッタイナイ」に出会って、感激し、早速地球規模で普及に努め、今では「MOTTAINAI(もったいない)」は国際語にまで育ちつつある。 私の唱える仏教経済学(思想)のキーワードの一つが「もったいない」で、本来の意味は、モノの価値を無駄にしないように使いこなす、である。だからこの「もったいない」精神は、日常生活の簡素、節約、共生にとどまらず、広く地球環境の保全にまでつながっていく。その自覚を日本人に促したマータイさんの功績は限りなく大きい。
亡くなったワンガリ・マータイさん(注)について世界から悼む声が寄せられた。その一人、オバマ米大統領は06年、実父の故郷、アフリカのケニアを訪問し、マータイさんと一緒に首都ナイロビの公園で植樹したことがある。大統領声明で「世界はこの傑出した女性の特筆すべき生涯をたたえている。自然保護、民主主義、女性への力の付与、貧困撲滅の取り組みに無数の人々から尊敬を勝ち得た」と称賛した。
(注)マータイさんは1940年ケニア生まれ。71年にケニアのナイロビ大学で生物分析学の博士号を取得、77年から植林と女性の地位向上を目指す草の根運動「グリーンベルト運動」に取り組む。これまでに8万人以上が参加し、4000万本以上を植樹した。 ケニアの国会議員、環境副大臣などを歴任し、04年にノーベル平和賞を受賞した。毎日新聞「MOTTAINAIキャンペーン」の名誉会長、国連平和大使などとして地球規模で活躍した。 昨2010年2月、被爆地・広島を訪問、原爆慰霊碑に献花、さらに原爆資料館で被爆者の証言に耳を傾け、涙を流して抱き合ったと伝えられる。2011年9月25日深夜(日本時間26日未明)、ケニア・ナイロビの病院で子宮がんのため死去。71歳。
▽ 来日して日本語「モッタイナイ」に出会って
毎日新聞社説(9月28日付)は、<マータイさん死去 「モッタイナイ」を永遠に>という見出しで哀悼の意を表し、同時にマータイさんの功績を讃(たた)えた。社説の大要は以下のとおり。
環境分野で初、アフリカ女性としても初のノーベル平和賞を受賞した元ケニア副環境相、ワンガリ・マータイさんが亡くなった。 受賞後の05年から昨年まで、毎日新聞はマータイさんを5回にわたって日本に招き、「MOTTAINAI(もったいない)」という言葉とその心を世界に広めるキャンペーンも共に繰り広げてきた。この人がいてこその成功だった。 訃報に接し、心から冥福を祈るとともに、天に向かって「マータイさん、ありがとう!」と言いたい。
マータイさんは初来日の際、毎日新聞の編集幹部との対談で「もったいない」という日本語を知った。その意味を聞いて即座に「国際語にしよう」と提案したのは、ケニアで「グリーンベルト運動」を推進した実績ゆえだろう。 これは農村女性に植樹を通じた社会参加を呼びかけたものだが、当時の政権が進めた森林伐採への反対や民主化運動と連動したため、厳しい弾圧も受けた。その過程で、自然の恵みである資源を適切に配分し、大切に使ってこそ、紛争を避けられると考えるようになった。
この認識が節約、リサイクルなど資源の有効利用につながる「もったいない」の思想と共鳴した。マータイさんはさっそく、米、英など諸国訪問や各国メディアの取材を受ける際、この日本語とその意味を熱心に紹介してくれた。 後には「もったいない」に込められた深い意味、生きとし生けるものとの共生を喜び、大自然を畏怖(いふ)し感謝する日本古来の感覚も理解していたと、本人を知る人は言う。 マータイさんと二人三脚のキャンペーンは、もちろん日本国内でも大きな反響を呼んだ。読者の投書が次々に寄せられ、企業や地方自治体の協力も相次いだ。
いま顧みると、東北地方の呼応ぶりが印象的だ。例えば小中高校生を対象に独自調査を実施した福島県。大都市の若者の間では「もったいない」など死語同然という見方が強いが、福島の調査では10代のほぼ全員が「もったいない」という言葉を知っており、多くは「もったいない」と思う体験もしていた。 東日本大震災の際、世界を感動させた人々の忍耐と、周辺への思いやり。その根源にある「東北の心」を、マータイさんが元気だったら被災地を自ら訪れ、深く知ろうとしたのではないか。 毎日新聞は今後も「MOTTAINAI」キャンペーンを続行する。
<安原の感想> 「もったいない」精神が東北から広がる 上記の社説のつぎの一節に注目したい。<大都市の若者の間では「もったいない」など死語同然という見方が強いが、福島県の独自調査では10代(小中高校生)のほぼ全員が「もったいない」という言葉を知っており、多くは「もったいない」と思う体験もしていた>と。 「もったいない」に無関心な大都市の多くの若者と違って、理解を示す福島の若者たちの存在は心強い。原発惨事からの再生はもちろん、日本文化の象徴の一つ、「もったいない」精神が生き返り、広がっていくのは「東北から」といえるかもしれない。
▽ 東京新聞コラム「筆洗」から
東京新聞「筆洗」(9月28日付)はマータイさんの功績を振り返っている。その大要を以下に紹介する
日本で最も有名なアフリカの女性が亡くなった。荒れ果てた南の大地に三千万本もの木を植え、虐げられていた女性の地位向上に尽くしたケニアのノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんだ。 MOTTAINAIを合言葉に、環境保護運動を広げたその人の半生は、国家権力との闘いでもあった。強権的な前政権の弾圧を受け何度も投獄されたが、決してくじけなかった。 国も時代も違うけれど、凜(りん)としたマータイさんの生き方は、足尾銅山の鉱毒問題の解決に奔走し、明治天皇に直訴した田中正造の姿にどこか重なって見える。繰り返し投獄された正造も、民衆と生きることを選んだ人だ。 <真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし>。約百年前に正造が残した言葉である(小松裕著『真の文明は人を殺さず』)。 放射能が山や川を汚し、人が住めない「死の町」を生んだ原発事故に直面する私たちに、この言葉はずしりと重い。震災を経験した今、マータイさんが世界に広めてくれた「もったいない」の意味にも、あらためて気付かされたような気がする。 はげ山になった足尾は近年、ボランティアの植樹活動も加わり、緑が少しずつよみがえっている。アフリカはどうなのだろう。緑に揺れる大地を想像すると心が弾む。
<安原の感想> マータイさんと田中正造と マータイさんと田中正造とを重ね合わせたところが新鮮である。二人は環境保護運動、国家権力との闘い、投獄、さらに民衆と共に、というその生き方が見事に重なり合っている。<真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし>という田中の言葉は至言というべきである。その含意は自然、地域、さらに人間を含む生きとし生けるもののいのちの尊重である。これも「もったいない」精神の節約、資源の有効活用、いのちの共生と密接な関係にある。 マータイさんが「おんな田中正造」なら、田中正造は「おとこマータイ」と呼ぶこともできよう。二人は今ごろ天国でにこやかに握手を繰り返しているのではないか。そういう光景が浮かび上がってくる。
▽ 下野新聞の記事 <「もったいない」を心に> から
「もったいない」を心に ― と題する記事(2005年3月20日付下野新聞)の一部を以下に紹介したい。これは当時足利工業大学(所在地は地方紙・下野新聞と同じ栃木県)で経済学を講じていた私(安原)の署名入り記事である。05年2月に初来日したマータイさんの「もったいない」説を仏教経済学との関連で紹介している。
仏教経済学は仏教を経済に活かすことをめざす新しい考え方である。仏教のキーワードに知足(ちそく=足るを知ること)がある。これは「もうこれで十分」と考えて、簡素のなかに充実した生き方を求める知恵である。さらに聖徳太子の和の精神、今日風に翻訳すれば、人間と地球・自然・動植物との共生、平和共存を重視することも忘れてはならない。 仏教経済学は、仏教の知足や共生の知恵を活かしながら、現実の経済社会をどう改革するかを模索する学問ともいえる。身近な例を挙げれば、「もったいない」というモノやいのちを大切にする心を生活や経済のなかで実践することである。これが地球環境の保全にもつながっていく。 2月に来日したケニアの環境保護活動家でノーベル平和賞受賞者、マータイ女史は「日本文化に根ざした<もったいない>という言葉を世界語にしたい」と繰り返し語った。有難いことに彼女は仏教経済学の伝道者として行脚(あんぎゃ)していただいたことになる。
<安原の感想> 「もったいない」の再定義と仏教経済学 「もったいない」(勿体ない)の本来の意味は、モノの価値を無駄にしないように使いこなす、である。だから使い切らないで捨てるのはもったいない、という感覚である。このように我々日本人の「もったいない」観はややもすれば個人レベルの視点に閉じこめているともいえる。 ところがマータイさんの場合、視点が一挙に地球規模にまで広がっていく。<MOTTAINAIを世界に広げたい>、<「環境と平和」に向けたメッセージ>、<(地球上の)「いのち」という一つのファミリーの絆>などの視点にそれが表れている。こうして「もったいない」の視点を広げる再定義が進んできた。仏教経済学はこの再定義を高く評価する。マータイさんのお陰であり、深く感謝したい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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