早朝、若いベトナム人の兵士達が続々と自転車でハノイ駅に向っていた。自転車をこぐのは妻達で、後ろに兵士が座っている。皆、カラシニコフ銃(AK47)をかつぎ、リュックを背負っている。旧正月を切り上げて召集されたのだろう。 「やはり始まったのだな」 ハノイの平和ホテルの3階の窓から石垣巳佐夫さん(当時38才)は駅前の大通りを見下ろしてそう思った。1979年2月18日のことだ。
■カナダの公共テレビ局の仕事でハノイ入り
日本電波ニュース社の石垣カメラマンはカナダの公共放送局CBCの仕事でハノイにいた。ディレクターのマイケル・マックレアはインドシナ専門のジャーナリストで、カナダばかりか、英国のBBCでもインドシナ情勢を報じていた。この時はベトナム統一後のインドシナ情勢を探る番組だった。すでに数年前からベトナムとカンボジアとの国境で血なまぐさい紛争が起きていた。その背景を探る番組だったのだが、この時、折しも中国軍が北から攻めてきた。
「マイケル・マックレアは記者として運に恵まれた男です。彼との仕事はこれが3回目でしたが、彼が来ると必ず何か起きるんです」
初めてマックレアと仕事をしたのが1969年だが、入国早々ホーチミン大統領が亡くなり、葬儀の映像がスクープとなった。今回もさっそくベトナム外務省に取材申請した。
前夜、石垣さんはベトナム外務省新聞局で「中国軍が攻めてきた」という発表を聞いた。中国軍が国境を越えて攻め込んできたのである。1975年のベトナム統一からわずか4年足らず。今、なぜ中国軍が攻めてくるのか?
■みなぎる緊迫感
その一と月前、ベトナム軍とヘン・サムリン軍はポル・ポト政権をカンボジアの首都プノンペンから駆逐した。今でこそ中越戦争はポル・ポト政権にてこ入れしていた中国がベトナムに与えた「懲罰」と考えられている。しかし、当時はどのぐらいの大きな戦争になるのか、わからなかった。ハノイでは1月半ばに郊外に高射砲陣地が設けられているのを石垣さんは見た。さらに防空壕も再び作られはじめた。中国軍が攻めてくる心構えはできていた、と石垣さんは赤旗に書いている。
「侵略が開始されてからは、ハノイの目抜き通りのニャンザン印刷工場や展覧会場、各工場の屋上に12.5ミリ砲が備えつけられていました。ホーチミン市にも緊迫感がみなぎっていました。」(「赤旗」1979年3月13日)
3〜4日待たされたが取材許可が下りた。前線には行けないが国境手前の町ランソンは取材できるという。マイケル・マックレア、石垣、助手とベトナム政府担当者、通訳、運転手。総勢6人で軍用ジープ「ジル」に乗り込み、一号道路を北上する。北上するジープの中から見える両側の山腹には、幾重にも真新しい交通壕が掘られ黄色い筋となって続いていた。ランソンはハノイから北に120〜130キロの距離だ。ランソン市の手前数十キロから砲声が間断なく聞こえてきた。久しぶりに戦場に入った実感がした。国境に近づくにつれ、混乱と緊張が高まってきた。
避難民が南下している。少数民族が多かった。それと逆にベトナム軍の車両が連なって北上していく。蛇行する中越国境は仮に直線に換算しただけでも500キロ以上はある。数万人のベトナム兵が国境の防衛に駆り出されたのだろう。中越国境から10キロ南の地点までたどり着いた。ランソンの町からすでに4キロも北上している。
「ほとんどが18歳から20歳前後の若い兵士たちでした。みんなにこにこして、士気高く感じられました。Vサインを見せる兵士もいました。Vサインなどは抗米戦争には見たことがありません。様変わりといいますか、新しい世代だと感じました。」(「赤旗」同)
1975年のベトナム統一直後からポル・ポト軍が国境を越えてベトナム領内に攻撃を繰り返すなど、新たな不穏な動きが始まっていた。そのポル・ポト政権を資金的、軍事的に支援していたのが中国だった。しかし、それはあまりにも不条理に思えた。
「一体なぜ中国が?ベトナム戦争中は支援していたのに・・」
前線を訪ねることは許可されなかったが、ランソンの町は撮影できた。ランソンは中国の南寧から1号道路で南下する道にあり、昔から中国との交易で栄えた町だ。ベトナム戦争中、アメリカ軍はランソンを空爆しなかった。中国との国境に近いため、中国内を誤爆することを恐れたからだ。1979年の2月のこの時、戦闘していたのは国境の町ドンダンだった。ドンダンから南下した町、ランソンには国境付近から避難してきた住民がごった返していた。砲撃の響きが伝わってくる。国境をはさんで中国側とベトナム側はそれぞれ高台から敵地に向けて砲弾を撃ち合っていた。
停戦後に訪ねて見ると、ドンダンでは丘と言う丘に、幅1メートルぐらいの壕が掘られていた。石垣さんの調べによると、遊撃に長けたベトナム軍は前線から撤退して、知悉した地の利を生かして闘った。ベトナム軍の装備がソ連から得ていた最新式の兵器が多かったのに対して、中国軍の兵器は古く戦法も人海戦術だったと言われている。数年前までアメリカ軍と闘っていたベトナム軍は強かった。ベトナム軍も被害を受けたが、中国軍がさらに大きな被害を受けたのは間違いない、と石垣さんは新聞にレポートしている。
■一枚岩でなかったインドシナ三国
1970年代の初頭、インドシナ半島の解放勢力は一枚岩に見えた。しかし、カンボジアとベトナムの国境地帯で紛争が起きているらしいとの話を耳にするようになった。カンボジアのポル・ポト政権を中国が支援しているため、ベトナムと中国の関係が悪化していた。ベトナム国内の多数の中国系住民が未来に不安を抱き、ベトナムを離れようとボートピープルになった。
元南ベトナムの軍や政府の関係者が再教育キャンプで虐待されているとの話も世界に伝えられた。ベトナム反戦運動に燃え上がった日本で、ベトナムのイメージは大幅にダウンし、大衆は次第にベトナムのことを省みなくなった。そのピークが1978年12月のベトナム軍とヘン・サムリン軍のカンボジア侵攻だった。ベトナムが隣国を侵略して傀儡政権を作った、と国際世論はベトナムに厳しい目を注いだ。
ベトナム戦争中、ハノイ支局を拠点に北ベトナムから戦争を報じてきた石垣さんにとって戦後のベトナム包囲網は卑劣に思えた。1975年の統一直後に石垣さんは片桐直樹監督と国家再建にかけるベトナムのドキュメンタリーを作っている。「トンニャット(統一)・ベトナム」だ。この映画では戦争中や戦後の生活が描かれている。不発弾の処理、戦争傷害者や更生する売春婦、村の復興のための喧々諤々たる会議、獄中時代を語る女性革命家など今見ると非常に興味深い内容だ。しかし編集と仕上げに予想以上に時間がかかり、上映が1979年になってしまった。ベトナムの評判が地に落ちた時期という最悪のタイミングである。そのため興行的にも大失敗してしまう。
「ベトナムがようやく戦争の傷から抜け出そうとした時に、隣の中国はベトナムが強い国家になるのを恐れたんです。そもそも中国はベトナムの統一にも反対していました。」
石垣さんは非情な政治力学に強い憤りを感じた。インド人ジャーナリストのナヤン・チャンダはベトナム統一後のインドシナ半島の政治力学を徹底取材した。彼は主著「ブラザー・エネミー」の中で、ベトナムが中国と関係の悪化しているソ連と手を握ることは中国にとって大きな脅威だったことを描いている。ところで中国とは別に、石垣さんが憤りを感じたのは日本政府が米中とともにポル・ポト政権を支持していたことだ。日本外交の汚点である。
■カンボジアとの国境地帯でも紛争が起きていた
1978年秋、石垣さんはカンボジアとの国境に近いタイニン省を訪ねた。道路の脇や家々などいたるところに蛸壺が掘られていた。石垣さんはその様子を見て、それまで噂として耳にしていたカンボジアとベトナムの戦いが本物であることを確信した。タイニン省のハティエンでは1977年9月、クメール・ルージュのゲリラがベトナム側に侵入し、村人数百人を殺戮していた。しかもこれが始めてではなかった。当時、ポル・ポト政権は反ベトナムを煽り、カンボジア国民を戦争に誘導していた。ベトナム政府は対外的にはカンボジアとの友好をアピールしていたが、ついに看過できずカンボジア領内に攻め込んだりするなどなど国境付近で戦闘が続いていた。
「1977年12月31日、クメール・ルージュはベトナムの‘侵略’を公然と非難した。・・・タイニンでの虐殺以後に起きたことを見ると、それが狂気からの、孤立した事件ではなかったことも明らかになった。この事件は、ポル・ポトが初めて中国を公式訪問する直前に起きた。カンボジアは明らかに、ベトナムと闘う決意がなみなみでないことを、中国に印象づけようとしたのだ。」(ナヤン・チャンダ著「ブラザー・エネミー〜サイゴン陥落後のインドシナ〜」より)
これがベトナムのカンボジア侵攻につながり、さらに中越戦争につながっていく。ベトナムとカンボジアにはプークオク島の帰属問題もあった。現在島はベトナム領だが、カンボジアは自国領だと主張している。紛争の火種になっている島は他にもある。長い歴史の中でカンボジア人は自国の領土が南下してきたベトナム人によって縮小し、メコンデルタが奪われてしまった恨みを持っているのだ。その感情を利用したのがポル・ポト政権だった。
■中越戦争を取材して
1979年2月に始まった中越戦争はおよそ一ヶ月で終結した。石垣さんは日本のテレビ局の取材で3月に再び国境地帯を訪ねた。ランソンの町は破壊されていた。今回は国境まで取材することが許可された。 中国軍が埋設した地雷は埋められたままになっていた。危険を避けるために、あちこちに地雷敷設を示す髑髏マークがつけられている。石垣さんは撮影場所を選ぶ際にも慎重を要した。
「こういうときはベストポジションから撮影しようと思わないことです」
中越国境で捕虜の交換があった。一度に双方の捕虜を20〜30人ずつ交換するのである。捕虜交換に立ち会う人間の腕に赤十字マークがついていたが、あの赤十字社でなく、戦闘員ではないという意思表示にすぎない。兵士達は捕虜になったことで帰国後どんな待遇を受けるかわからないのだろう、解放される喜びよりも不安が目立った。いざ交換になると、捕虜は皆着ている敵国のシャツを仇のように地面に脱ぎ捨てる。祖国に対する忠誠の意思表示なのだろう。石垣さんは思った。
「何百年もこうしてきたに違いない」
兵士達はみな若かった。国の面子などにこだわって政治を軽く弄んじゃいけない。石垣さんはそう強く思った。
■「カメラマン 石垣巳佐夫さんのカンボジア取材」 ポルポト政権の実態をいち早く報道
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201103052127366 ■「ベトナム戦争中のハノイから」戦場カメラマン石垣巳佐夫氏
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011102243453 村上良太
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