忘れがたい1枚の写真がある。蛸壺に入った女たちの写真だ。ベトナム戦争中に撮影されたもので、場所はハノイのトンニャットホテルの前である。撮影したのは日本電波ニュース社の支局員だ。ハノイの中心にあるトンニャットホテルには当時、日本電波ニュース社の支局があった。カメラマンだった石垣巳佐夫さん(現在69歳)もそこで働いていた。
「ホテルの周りにこうした蛸壺がたくさん掘られていました。蛸壺にはコンクリ-ト製の蓋がついていました。しかし中に人が入ったときは蓋をしていなかったですね。蓋は普段、人が蛸壺に落っこちないためでした。」
しかし時にうっかり蓋が外れていて、蛸壺に落ちて怪我をする人がいたようだ。蛸壺はハノイで作っていた。コンクリート製で、円筒形になっている。底はない。人一人入れる大きさの小さな蛸壺をたくさん作って、地面に埋めておくのである。 それにしてもこんな蛸壺で米軍の爆弾から身を守れるのだろうか。それが結構役に立つ、と石垣さんは言う。爆弾が真上から直撃した時はどうしようもないが、多くの場合、被害は斜めや横から飛んでくる爆風と破片による。被害は蛸壺で十分に防げるのだそうだ。
■ボール爆弾
爆弾の1つ、「ボール爆弾」を石垣さんから見せていただいた。人間の拳くらいの大きさで砲丸のようにずしりと重い。ボール爆弾は当時使っていた16ミリカメラとともに日本電波ニュース社の会議室の棚に置かれていた。すでに火薬はなく、ウニのように、まっぷたつにされた金属の殻の状態である。これは石垣さんが実際にラオスで見た爆弾だ。ラオス空爆を撮影していた石垣さんは米機が接近してくるのを見た。ラオス人が叫んだ。みな岩陰に身を伏せて爆弾から身を守った。
「こんな小さな弾が数百個、円筒形の爆弾容器に格納されているんです。およそ280個から290個入っていたでしょう。米軍の爆撃機から落とされ、空中で容器がぱかっと開くと、ボール爆弾が四方に飛び散っていき、落下して爆発します。兵士の頭上に撒くこともあれば非戦闘員の暮らしている所に落とすこともありました。」
ボール爆弾の中にはさらに金属片が数百個入っている。それが爆発した勢いで四方八方飛び散り、周囲の人々の肉体を蜂の巣にする。「ボール爆弾」はクラスター爆弾のひとつだ。ベトナム戦争中、米軍が投下したボール爆弾のおよそ30%が不発弾だったとの報告もある。ラオスやベトナム北部では今も農夫が手足を吹き飛ばされている。ホーチミン・ルート爆撃でラオス側に落とされたボール爆弾は2億6000万個に上る。不発弾をすべて撤去するには100年以上かかるそうだ。
ベトナム戦争で投下された爆弾はボール爆弾などのクラスター爆弾以外に、ミサイル弾、白燐弾、黄燐弾、レーザー誘導爆弾、ナパーム弾、7トン爆弾、B52から投下された1000ポンド爆弾や500ポンド爆弾などである。
松岡完著「ベトナム戦争」によれば、ベトナム戦争中、米軍から北ベトナムに注がれた爆弾は250万トン、ラオスやカンボジアも加えたインドシナ半島全体では1400万トンを越える。第二次大戦全体でも610万トン、朝鮮戦争では311万トンである。これが意味するところは下にいたものでなければわからないだろう。
■17度線への旅
石垣さん(当時29歳)が最初にハノイ入りした1969年8月は北爆が停止されていた時だった。その頃、米軍はベトナムを後方から支えていたラオスのホーチミン・ルートを猛爆撃していた。ハノイ入りの3ヶ月後、1969年11月、石垣さんはハノイ支局長の石山昭男氏から南北ベトナムを分断する17度線まで行って撮影してくるように命じられた。
「安全な取材になると思うが、油断しないように。17度線の状況についてしっかり見てきなさい」
ソ連製ジープのジルに乗って7日間の旅である。北爆が開始されてから4年たっていた。キャパに憧れて早く戦場に行きたいと思ってベトナムにやって来た石垣さんだったが、おりしも北爆中断である。とにかく、北爆の後の橋や町の様子をしっかり撮影しようと心に決めた。石垣さんは鉄兜をかぶり、手にはフィルモという16ミリカメラを携えていた。ジープには他にベトナム政府対外文化連絡委員と、通訳、ドライバーの3人が同乗した。幹線道路の1号道路を南に向かう。1号道路はベトナムを南北に走る道路で、日本で言えば東海道のような物流の核だ。
ハノイを出発して1時間ほどするとフーリーという町に到着した。道路に沿って町があったはずだが、爆撃で町はない。瓦礫の広場になっている。住人は近くにわらぶき屋根の小屋を作って仮住まいしていた。ジルを降りてさっそくカメラを回した。 さらに南下して次に訪れたのはタインホワという町だ。町を大河が貫いており、鉄橋が架かっている。この町は北緯20度にほぼ位置する。
「橋の名前はハムロン橋です。鉄橋ですが、ファントム機の攻撃で穴だらけにされていました。しかし、無数の穴を修理して使っていたのが印象的でした。」
橋の中で生き残っていたのはこの橋だけだった。この先出会うほかの橋はすべて爆破され、仮橋や簡易渡し船、水の中に架設した秘密の道などでようやく輸送を確保していた。 タインホワの町もフーリー同様、町は壊滅していた。一号道路に沿った北緯20度以南の町はすべて瓦礫の山になっていた。
話は前後するが、72年に再開された北爆で石垣さんはF4が爆撃に来た瞬間を撮影している。場所はハノイ郊外だった。F4は無差別爆撃のB52とは違い、橋や堤防、電力施設など、明確な攻撃目標を狙った。その日飛んできたのは3〜4機で、ハノイ郊外の工場が標的だった。
「ファントムはもうむちゃくちゃくに動き回るんです。地上からの攻撃をかわすためにパイロットたちも必死ですよ。」
攻撃目標を確実にヒットするためにF4は低空で飛んでくる。しかし地上からミサイルを撃ってくる。それを交わすために激しくうねりながら旋回しては攻撃してくる。パイロットも戦争に取られたアメリカの若者だっただろう。北ベトナムにはソ連製の地対空ミサイルが設置され、多数の米機が撃墜されていた。攻撃する側も必死である。この日はハノイ中心部にあったフランス大使館でも爆弾の直撃を受け館員が死亡していた。
再び石垣さんの17度線への旅に戻る。タインホワからさらに南下したビンの町も瓦礫となっていた。発電所や港の施設は徹底的に破壊され建物は崩れ、折れ曲がった煙突なども見えた。港も発電所も軍事施設となっており撮影の許可は下りなかった。町の通りでは笑顔の青年たちが銃を肩に瓦礫の町を歩いていた。ビンはトンキン湾に近い人口10万人規模の大きな町である。ラオス側のホーチミン・ルートに通じる交通の要所でもあり、特に激しい爆撃を受けた。人々は家族ごとに瓦礫の中を片付けて小さな小屋を建ててすんでいる様だった。使えるレンガは丁寧に整理したうえに家々の壁や入り口に使用されていた。一号道路の両脇はこんな作業をする人々が黙々と働いていた。
ビンの爆撃について北爆当時の毎日新聞にこんな記事がある。
「‘米機が波状北爆‘ サイゴンの米軍当局の発表によれば、米海空軍機は26日未明から24時間連続8回にわたって北爆し、北ベトナムのビン精油所はじめ、ホンマト島のレーダー基地、クァンランの兵舎など目標多数を攻撃破壊した。特にビン精油所は前日にも爆撃され、炎上しているところをさらに爆撃したもの。」(1965年に5月27日)
■「二つのベトナム」
取材班はビンで一泊した。ベトナム政府が用意してくれた宿舎はわらぶきの家で、ベッドは竹で編まれていた。夕食にはローストチキンが出た。貧しいのだが客人のために奮発してくれたことを石垣さんは知っていた。米は小石混じりで噛むと歯が欠けそうなものだった。用心深く噛まなくてはならない。見に行く所も無く夜は早く床についた。小さな石油ランプを枕元において日本から持参したベトナム戦争の本を読んだ。バーナード・フォールの「二つのベトナム」だ。1956年に出版されたこの本には、ベトナムが南北に分断された経緯やベトナム人の誇り高い民族性などが書かれていた。ベトナム人の愛国心は「山より高く、海より深い。そして岩より硬い」とあった。
翌日、一号道路を南下した取材チームはついに北緯17度に位置するホサの町にたどり着いた。役場も郵便局も爆撃されて倒壊していた。商店は一軒もなかったが、半分地下になった店があった。住民も少し掘った半地下の仮住まいをしていた。町は高台になっていて、そこから遠く田んぼの向こうに南北の旗が見えた。その下には南北を隔てるベンハイ川が流れている。
鉄橋は閉鎖され、国境警備の兵士たちが岸辺に立っていた。対岸から白煙が時々上がるのが見えた。砲声や機関銃のような銃声も間断なく聞こえ、戦場の最前線に来たと緊張感が漲った。南側の丘にはアメリカ軍のゾクミョウ基地があり、着弾の精度を上げるためのテストをしていたのだ。
フィルモで撮影していると、対外文化連絡委員と通訳が「早くしてください、早くしてください」とせきたてる。何だ、と思うと、すぐに米軍の偵察機が低空を飛んできた。単発プロペラ機のL19だ。取材班の行動を監視するために飛んできたに違いない。石垣さんは偵察機にカメラを向けた。ところが、随行員が即座に遮った。カメラを武器と勘違いされ、撃たれる危険があったからだ。4人はすぐに、近くの蛸壺に飛び込んだ。
蛸壺の中は湿っていて、土の匂いが鼻についた。体をかがめてじっとしている。ホサの蛸壺にはコンクリ容器がなく、地面に穴を開けただけのものだった。だが偵察機をやりすごすことができた。
■ラオスへの旅
夜中、蚊帳を張ってベッドに入っていると、ズシーン、ズシーンと地の底から響いてくる。米軍がラオス領を爆撃する音だった。ここから50〜60キロも西に行けばホーチミン・ルートがある。ラオスでは夜中の今、爆弾が投下されているのだ。不気味な響きは今も石垣さんの耳に残っている。日中もラオスで空爆は行われており、響きは聞こえた。だが、夜になると一層重く響いてきた。この夜耳にした音に導かれるように、この旅からの帰還の後、とんぼ返りのように石垣さんはカメラを持ってラオスに入っていくことになる。そこは初めて体験する本物の戦場だった。
北緯17度線への旅で撮影した映像は1969年11月14日、「警戒続く17度線」と題して日本の放送局に配信された。1969年は安田講堂の攻防戦を始め、学園紛争で日本全国が騒然とした年でもあった。
あれから41年の歳月が流れた2010年の秋、石垣さんはベトナム戦争をふり返るドキュメンタリー番組を2本作っていた。「ホーチミン・ルート」をめぐる話と、1960年の「ベンチェの蜂起」に関する話だ。南ベトナムのメコンデルタに位置するベンチェ省で1960年1月に起きた蜂起が「ベンチェの蜂起」だ。これが契機となり、その年の12月、南ベトナム民族解放戦線(NFL)が結成された。去年は蜂起から50年を迎える年だった。奇しくも2010年は日本電波ニュース社の創設50周年の年でもあった。
■「ベトナム戦争中のハノイから」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011102243453 ■「石垣巳佐夫氏のカンボジア体験」(ポルポト後、最初に撮る)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201103052127366
村上良太
|