今年8月18日、チリでは1973年9月11日にピノチェト将軍が起こしたチリクーデターによって人権侵害を受けた人の報告書がピニエラ大統領に手渡された。これは1990年に調査が開始され、1991年2月に報告書がまとめられたレティグ委員会(真相と和解委員会)が作成したレティグ報告書とは別で、調査委員会のリーダーの名前をとってVarech報告書と呼ばれている。ちなみに1991年のレティグ報告書では3550ケースの告発が寄せられ、そのうち2296ケースを調査した。その結果、2279人が殺害ないしは行方不明と認定された。
http://www.ddhh.gov.cl/ddhh_rettig.html 今年報告されたVarech報告書(第二部)と前回2004年と2005年の報告書(Varech報告書第一部)とを総合すれば73年のチリのクーデターによって38254人が政治犯として投獄され、その大半が拷問を受けていたことがわかった。さらにレティグ報告書の被害者数に加えて処刑・行方不明者が新たに30人確認された。そして今回をもってチリクーデターにおける人権侵害の国家調査は終了するとされる。調査開始から21年、さらにクーデターから38年の歳月を要したことになる。
http://latercera.com/noticia/politica/2011/08/674-385704-9-segundo-informe-de-comision-valech-incluira-32-mil-nuevos-casos-de-violaciones-a.shtml
http://www.latercera.com/noticia/politica/2011/08/674-387056-9-mandatario-recibio-en-la-moneda-el-segundo-informe-de-la-comision-valech.shtml チリの真相解明がこのような長丁場を経つつも粘り強く行われたことには理由があった。1990年、ピノチェット独裁政権から民政移管が行われ、パトリシオ・エイルウィン大統領のもとで真相究明が行われることになった。真相と和解委員会のリーダーとなったラウル・レティグ氏はピノチェット将軍のクーデターで倒されたアジェンデ政権の外交官だった人物である。そのレティグ氏が法律家らを擁して真相解明に乗り出すのだが、当時はまだ軍をピノチェット将軍が掌握し、ことあれば再びクーデターを辞さず、という状況であり、かつ真相が解明しても加害者は罰せられないということになっていたという。つまり、真相だけを究明する委員会だったのだ。このように加害者と被害者が同時に併存している状況にあったということである。
ところで今年はアラブの春で独裁者が何人か倒されたことは記憶に新しい。中でも最も印象深いのはリビアのカダフィ大佐だろう。独裁者の最期は裁判を経ない処刑だった。さらにカダフィ政権高官を含めたカダフィ派数十人の死体がホテルの庭に並んでいたと報じられた。新生リビアのリーダーはカダフィ時代の法務大臣である。カダフィ独裁のひどさは報じられても、カダフィ派に対する処刑やNATO空爆による犠牲者のことは中々報じられない。新聞やテレビの大方の反応はカダフィは独裁者だったから民衆に殺されても仕方がない、というものである。しかし、そうして裁判なしに処刑をすれば真実はむしろ闇に葬られることになる。広場で白日にさらされたのは死体であって真実ではなかった。そこに残るのはひきつがれた暴力文化である。
1991年にチリで1つの戯曲が発表された。アリエル・ドーフマンによる「死と乙女」である。この戯曲はピノチェット独裁時代に虐待を受けた被害者が加害者とどう向き合うかを描いた劇である。1973年、クーデター派に逮捕され、拷問とレイプを繰り返し受けた当時女子大生だった女性が17年後、自分を犯した男に偶然再会する。彼女は男を縛り上げ、ピストルを突きつける・・・・しかし、彼女の夫は弁護士で「真相と和解委員会」のリーダーだった、という設定である。
アリエル・ドーフマンは「死と乙女」のまえがき(1991年)でこう書いている。
「8年か、9年前、アウグスト・ピノチェット将軍が、まだチリの独裁政権の座にあって、私は亡命中だった頃、私の心に浮かんだ1つの劇的状況を、折にふれてふくらませようとしたのが、やがて、「死と乙女」の核となるものの始まりだった。ある男の自動車がハイウェイで故障するが、親切な通りすがりの人が、家まで送ってくれる。男の妻は、その通りすがりの人の声を、かつて自分を拷問し、レイプした男のものだと確信して、彼を幽閉し、裁判にかけようとする。数度にわたって、私は机に向い、当時は小説になると思っていたそのアイディアを、書き進めようとした。2−3時間後、満足できないページを2枚ほど書いては、私はいらいらと諦めた。何か肝心なものが足りない。」
ドーフマンが「死と乙女」を書き出したのはまだピノチェット独裁の真っただ中だった。その時、彼には何かが足りなかったというのだ。それが何か気づいたのは「真相と和解委員会」(レティグ委員会)が設立された時だったという。この委員会は先述の通り、復讐を遂げるものではなかった。ただ真実を追求することしかできなかったのである。しかし、そのことが戯曲を作る上での起爆剤になったという。戯曲の登場人物はたったの3人だ。被害者の女、その夫、そして加害者の男。この3人の中でドーフマンにとって決定的に見えてきたのは女の夫である。この夫を「真相と和解委員会」の重要なメンバーに設定することでこの劇は単なる被害者による復讐劇を越えるものになった。劇の基盤となる葛藤が据えられたからだ。これこそ復讐劇に欠けているものである。
被害者の女性、ポーリナの抱くトラウマは激しく強い。彼女は長年秘めてきた真実を夫にこんな風に打ち明ける。
ポーリナ「私は自分が怖かった。これほどの憎しみを抱いているなんて−。でも、復讐の場面を想像しないと、夜も眠れなかった、あなたとカクテルパーティへも行けなかったわ。私は、いつも考えずにはいられなかったんだもの、もしかしたら、ここにいる誰かが−たとえ張本人ではないとしても、大勢の人のうちに、もしかしたら・・・そう思うと気もそぞろで、あのタヴェーリ・スマイルを、あなた、さっき、これからもずっと振りまき続けるんだと言ったけど、とてもそんな気分じゃなくなる−そんな時、私はいつも想像した、あいつらの顔を、あいつらの排泄物を貯めたバケツにつっこむところ、あいつらの体に電流を通すところ。でないと、あなたとセックスする時も、オーガズムが高まりそうな気分になると、電流が体を貫くあの感覚を思い出して−そうなったら感じてるふりをする、ふりをするしかないのよ、あなたに、何を考えてるか、悟られまいと思うと。」
この劇は彼女が自分を真に回復するための劇となっている。そのためには処刑するのがいいのか、あるいは、・・・・。作者のドーフマンはアルゼンチン生まれだが、チリが好きになりチリに住んでいた。そのためクーデターが起きた時、アジェンデ派だった彼は17年にわたる亡命生活を余儀なくされた。だから、彼自身にとっても、この劇を書くことは自分の心を見つめる作業だったに違いない。そして、最初に書き始めた時、「何かが足りない」と彼は気づいた。それは最初に浮かんだストーリーが復讐劇だったからではないだろうか。それが本当の解決なのか。復讐を遂げれば、それはまた新たな復讐劇の始まりになる。ドーフマンはそのことをこの劇で語っている。この劇は単なるチリ一国の話ではないと彼は訴えている。
「現代と生きる想像力が産む多くのメッセージ、殊に、娯楽的なマス・メディアから発せられるものは、我々に対して、繰り返し、簡便で、お手軽、安心できる答えが、殆どの問題に対して用意されていると保証する。そういう感覚的なだけの戦略は、人間的な経験を歪め、辱めるばかりでなく、チリや他のどんな国にせよ、巨大な戦いと苦痛の時代から、漸く脱しつつある国においては、社会にとって反生産的な、その成熟と成長を凍結するものとなる」
■アリエル・ドーフマン作「死と乙女」(劇書房 青井陽治訳) 先述の前書きの日付は1991年9月11日になっている。これはクーデターの日付である。チリでは、あるいは南米では9・11と言えば同時多発テロではなく、1973年のチリクーデターを思い浮かべる人が多いと聞く。
■Varech報告書(ウィキペディアによる)
レティグ報告書の後、さらに虐待の実情を把握するための調査が始まった。これは「政治犯と拷問に関する国家(検証)委員会」によるもので、結果はVarech報告書と呼ばれる書類にまとめられた。 2004年11月29日に最初のVarech報告書が発表された(その修正版は2005年に発表される)。さらに今年8月にピニエラ大統領に手渡されたVarech報告書(第二部)は2004年・2005年の報告書では漏れてしまった32000件を新たに調査したものだとされる。この調査はミシェル・バチェレ前大統領のもと、2010年2月に再開された。バチェレ前大統領の父は空軍のアルベルト・バチェレ准将であり、クーデター時にアジェンデ大統領の側に立ったため、拷問され殺された。バチェレ元大統領自身も劇の主人公の女性と同様、クーデターの時、サンチアゴ大学医学部に在籍し、逮捕され拷問を受けている。 2004年・2005年と今年のVarech報告書を総合すれば38254人が政治犯として収容され、その大半が拷問を受けたことをつきとめた。そして、レティグ報告書の処刑・行方不明者2279人に加えてさらに30人の処刑・行方不明者が存在したことが確認された。しかし、こんな但し書きがある。
’Testimony has been classified, and will be kept secret for the next 50 years. Therefore, they cannot be used in trials concerning human rights violations, in contrast to the "Archives of Terror" concerning Paraguay and Operation Condor. Associations of ex-political prisoners have been denied access to the testimony.’
調査で行われた証言は今後50年間、非公開とされ、この証言は人権侵害の裁判に使用することはできないとされるという。
■アリエル・ドーフマン(Ariel Dorfman、1942-)
デューク大学教授。デューク大学のサイトの中で、ドーフマンは2つの9月11日について語っている。「同じ9月11日、同じ火曜日、同じ朝・・・」 ドーフマンは1942年にアルゼンチンで生まれたが2歳の時、ニューヨークに渡り少年時代を米国で過ごした。アルゼンチン人の父親は経済学の教授だった。その後、12歳の年にチリに移り、のちに大学教授となった。1970年にアジェンデのチリ革命が起きると市民として参加した(ウィキペディアによればアジェンデ政権の文化担当アドバイザーだったようである)。そのため、1973年にピノチェット将軍によるクーデターで国を追われることになった。アルゼンチン、パリ、アムステルダム、そして最後はアメリカにたどり着いた。クーデターの後、チリに導入されたのはミルトン・フリードマンらが提唱した新自由主義である。ドーフマンは今もアジェンデ時代の夢を忘れていないと言う。
http://www.adorfman.duke.edu/ ■アジェンデ大統領の遺体を掘り起こす
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201107200339253 ■チリ・クーデターの調査が進む バチェレ准将を拷問したのは誰か?
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110050345163 ■チリのバチェレ大統領、軍事法廷の権限縮小を提案
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200910291410034
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