日米開戦(1941年12月8日)から70年を迎えた。日米開戦までに中国大陸では日本軍の侵攻が進んでおり、日米開戦で戦線は太平洋にまで広がった。その結末は数え切れないほどの犠牲を積み重ねて、敗戦に終わった。 あの戦争を扇動した新聞メディアは今、どういう姿勢なのかに関心を向けないわけにはいかない。残念なことに自省の念に駆られるメディアとそのことに無関心なメディアとに分かれている。さらに日米関係は今では「犯すべからざる国体」のような存在になっているという説も有力であり、その呪縛からどう脱却を図っていくか、取り組むべき課題は尽きない。
▽ 「仕方がない」と「責任の底が抜けた国策」
あの日米開戦から70年を迎えて新聞は何を訴えているか。まず読売新聞(2011年12月8日付)のコラム「編集手帳」(大要)を紹介する。
石垣りんさんに『雪崩(なだれ)のとき』という詩がある。「平和」を山に積もった雪にたとえている。「戦争」の雪崩を引き起こしたのは、谺(こだま)のように響いたある言葉だという◆〈“すべてがそうなってきたのだから/仕方がない”というひとつの言葉が/遠い嶺(みね)のあたりでころげ出すと/もう他(ほか)の雪をさそって/しかたがない、しかたがない/しかたがない…〉◆いったん転がりだしたら止まらない戦争のありようを詩人の比喩は伝えている。日米開戦からきょうで70年になる。当時の国力差をみれば、航空機の生産力は日本の6倍、鉄は20倍、石油は740倍――言葉の谺とは怖いものである。
もう一つ、毎日新聞(12月8日付)の「70年前の鏡」と題するコラム「余録」(大要)は以下のようである。
「周囲は真珠湾の勝利にざわめいていたが、彼は浮かぬ顔をしていた……『えらいことになった。僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有り様はせいぜい2、3カ月だろう』と沈鬱な声で言った」▲彼とは近衛文麿、70年前のきょう真珠湾攻撃の日の細川護貞による記録である。近衛は日中戦争では「国民政府を対手とせず」と声明してその泥沼化をもたらし、日米交渉に努力したものの南部仏印進駐で米国の石油禁輸を招く。日本の運命を決定づけた人だった▲「財布に1000円しかないのに1万円の買い物をしようという日本と、100万円をもって1万円の買い物をするアメリカとの競争でしょう。たちまちだめです」。こちらは昭和の動乱の原点、満州事変を仕掛けた軍人・石原莞爾の日米開戦間もないころの断言だ▲国民の多くが緒戦の勝報に熱狂していた中、その戦争への道を踏み固めた張本人たちの破滅の予言だ▲責任の底が抜けた国策が国民の運命を狂わせるのは当時だけでない。こう聞けば今度の原発災害を思い浮かべる方もいよう。日本人が危機にのぞんで自らを映してみなければならぬ70年前の鏡だ。
<安原の感想>「仕方がない」も「責任の底が抜けた国策」も返上の時 コラムが指摘していることは「仕方がない」という多くの日本人の発想であり、一方「国策」を遂行する国家権力の無責任振りである。これは過去の物語ではなく、今なお続いている。特に戦争を積極的に扇動した新聞メディアの責任は大きい。当時は戦争を遂行した大本営(天皇に直属して陸海軍を統帥した最高機関で、1945年の敗戦まで存続した)に逆らうことはできなかったという事情があったといはいえ、戦争を煽った責任は免れない。米軍の空爆によって日本列島の主要都市は廃墟となり、しかも日本人だけで300万人を超える戦争犠牲者を出したのだ。中国を含めアジア諸国民に強(し)いた惨劇と苦痛は計り知れないほど甚大である。今なお自省の心が必要であるだろう。
東京新聞社説(12月8日付)は次のように書いた。 「真珠湾での戦果に国民挙げて喝采した。圧倒的な国力の差がありながら、戦争に導いた責任は当然、政治や軍にあろう。国民の戦意をあおり立てた言論機関も、あらためて自責の念を深くせねばならない」 朝日新聞社説(12月7日付)は以下のように指摘している。 「真珠湾はさまざまに総括されてきた。日本では、圧倒的に強い米国に無謀な戦争を挑んだ理由が問われた。軍部の暴走か、政治の混迷に原因があるのか。メディアが火に油を注いだ国民の熱狂のためか」と。
東京新聞社説が「言論機関も、あらためて自責の念を深くしなければならない」と書いているのに比べると、朝日社説は「国民の熱狂」に重点を置いていて、自己反省は弱い。毎日新聞社説(12月7日付)は「日米開戦70年 ― 歴史から学ぶ政治を」と題して論じながら、メディアとしての反省に言及するところは皆無である。 もちろん毎日新聞コラムが指摘しているように「無責任な国策」には原発推進とその果ての原発災害も含まれる。だから「仕方がない」も「責任の底が抜けた国策」も敗戦以来70年も続いてきたのであり、今こそ返上するときである。容易な選択とは言えないとしても、返上によってやっと「70年の戦後」が終わるのであり、新たな「再生日本」の始まりと考えたい。
▽ アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す
東京新聞社説は「平和は人類の最大テーマである。われわれに課せられるのは戦争体験を風化させず、平和を守る責務であろう。平和をどう保つかが今後、試される。(中略)新たな戦いに国民が快哉(かいさい)を叫ぶことがあってはならない」と。 また東京新聞の投書欄「発言」(12月8日付)で田中喜美子さん(編集者 81歳)は次のように指摘している。 「日本の戦後はどこが正しくどこがおかしかったのか。アメリカの呪縛から離れて私たちは客観的に<戦後>を見直すべき時期にきているのではないか」と。 これは重要な問題提起と受けとめたい。アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す、とは、具体的に何を指しているのか。そのヒントを発見するために、東京新聞(12月8日付)の国際政治学者坂本義和さんとのインタビュー記事「3.11と日米開戦70年 ― 日本の針路」の要点を以下、紹介する。
・(責任を問わぬ集団について)日本人は上の人間が下の人間の責任を問うことはあっても、下の人間が上の人間の責任を問う文化がない。とにかくこうなっちゃった、ということであきらめてしまう。例えば福島第一原発事故でも「原子力ムラ」という言葉が使われている。ムラは集団だから事故が誰の責任なのか分からなくなる、また分からなくする。決定権をもつ者の責任を問わない民主主義はあり得ない。 ・(戦後の日米関係について)日米関係といっても、米国は世界を見ていて、その一部として日本を扱っている。他方、日本は米国が世界であるように見る傾向がある。米国に依存せず、もっと自立するには自主外交が必要だ。(中略)占領時代からの惰性が続いている。日米関係が「犯すべからざる国体」がごときものになっている。 ・(3.11後の日本の課題について)すべての原発を早急に稼働停止して、自然エネルギーの実用化に国を挙げて全力を投入し、原発の輸出は止めること。ヒロシマ・フクシマの国としての決意を世界に示し、先進的非核社会というモデルを創り出すべきだ。経済成長で格差をなくすという考え方は、必ず限界にぶつかる。生き方を変えなければいけない。物質的な生活水準は下がるかもしれないが、「みんなで連帯して生きる」という発想に切り替えなければいけない。
<安原の感想> 日米関係という「犯すべからざる国体」から脱却を 戦後の日米関係が「犯すべからざる国体」同然の存在になっているという指摘は説得力がある。なぜそういう現実に多くの日本人は甘んじているのか。それは責任を問わぬ日本的集団のあり方と深く関わっている。たしかに「下の人間が上の人間の責任を問う文化がない」からだろう。これは上述の「仕方がない」というあきらめの発想と重なり合っている。 しかし「3.11」の福島原発大惨事をきっかけに変化が生じてきたとは言えないか。毎日のように見られるデモの波がその具体例である。下から上に物申すという姿勢が列島上に広がりつつある。そのめざすものは、原発の稼働停止であり、自然エネルギーの実用化であり、原発輸出の中止である。それは「先進的非核社会」構想につながっていく性質のものだろう。経済成長主義への疑問も生じてきている。かつての「豊かさ」よりも「幸せ」を求める生き方への変化である。 これらはいずれも大きな変化で、方向は正しいが、果たして「アメリカの呪縛から離れて<戦後>を見直す」ことにつながるのかどうか。私(安原)の理解では日米安保体制(アメリカの対外戦略に日本が従う軍事・経済同盟)からの離脱を展望することが、すなわち「アメリカの呪縛」から離れることを意味するはずだが、どうだろうか。いかえれば「犯すべからざる国体」という呪縛から脱却し、自由になることである。
1935年(昭和10年)生まれの私などが戦争中の小学生の頃、「チャンコロ(中国人の蔑称)をやっつけろ」と叫んでいたことを今いささかの恥じらいとともに想起する。分別もないままの無邪気な子どもの心理状況と、対外侵略戦争(ベトナム戦争のほか、最近のアフガン、イラクへの米軍侵攻)推進の土台ともいうべき「日米安保体制」を昨今の一部の学者やメディアが「国際公共財」などとうそぶいて、免罪符を与える心理状況とは大差ないだろう。前者は無知に基づく幼さであったが、後者は確信犯らしいからむしろ罪深いと言わざるを得ない。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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