”あなたは狭山事件をご存知ですか?” これは、ビデオ映画『造花の判決〜〜狭山事件』の冒頭で、永六輔さんが新宿西口で通行人にインタビューした時に問いかけた言葉です。
私は先日(11月17日)、私が教員として関わっている立教大学大学院(キリスト教学研究科)の「フィールドスタディ」科目履修院生とともに、狭山事件の現場見分に行ってきました。現場見分後、2時間近くにわたっ石川一雄さん早智子さんご夫妻と会ってお話しを伺ってきました。
狭山事件とは、1963年5月1日、埼玉県狭山市で女子高校生が学校帰りに行方不明となり、殺された事件です。警察は40人もの警官を張り込ませながら、身代金を取りに現れた犯人を取り逃がすという大失態を演じてしまいました。当時、東京で起きた吉展ちゃん事件でも犯人を取り逃がした警察は、世論の大きな非難をあびました。
捜査にいきづまった警察は、付近の被差別部落に見込み捜査を行ない、石川一雄さん(当時24歳)を別件逮捕し、1ヵ月にわたって警察の留置場で取り調べ、犯行を認めるウソの自白をさせて石川さんを犯人にでっちあげました。被差別部落住民を犯人視する差別意識と予断・偏見にもとづいた捜査でした。
一審の浦和地裁(内田裁判長)は証人や証拠調べをすることなく、6ヵ月のスピード審理で、1964年3月、死刑判決。二審の東京高裁は、1974年10月に無期懲役。石川さんは上告するも、1977年8月、最高裁は上告を棄却し、無期懲役刑が確定してしまいました。
1977年8月に第一次、1986年12月に第二次再審請求を東京高裁にしましたが、第一次は1980年2月、第二次は1999年7月にいずれも棄却されました。狭山事件再審弁護団は、2006年5月に、筆跡鑑定や足跡鑑定・法医学鑑定など、有罪判決に合理的疑いのある多数の新証拠を揃えて東京高裁(第4刑事部)に第三次再審請求を申し立てました。
その後、2009年12月に東京高裁(門野裁判長)は三者協議(弁護団、東京高裁、東京地検の三者)で検察側に8点の証拠開示を勧告しました。それを受けて東京高検は、2010年5月に36点の証拠を開示するなど、若干の進展はありました。しかし、いまだに多くの証拠が検察庁に眠っています。犯行現場を特定するための捜査書類や指紋検査報告書などが未だ開示されていません。
事件発生から48年。狭山事件は市民常識からみてもあまりにも疑問の多い事件です。犯人とされた石川さんの指紋は一切検出されいないなど決定的な物証は何ひとつなく、字を書く習慣のなかった当時の石川さんが脅迫状を書くことは考えられず、万年筆の発見経過や現場の足跡問題など、疑問だらけです。
確定判決に重大な誤りがある場合に開かれるのが、「再審」です。1983年の免田事件、1984年の財田川事件と松山事件、1989年の島田事件の再審では、いずれも死刑から無罪判決となっています。1986年の梅田事件でも無期懲役から無罪判決となっています。最近では、2010年の足利事件と2011年の布川事件でいずれも無期懲役から再審無罪、また袴田事件の第二次再審請求審の三者会議では、取調べの様子を録音したテープや供述調書など未開示証拠176点が開示されました。
狭山事件は、第三次再審請求をしてからすでに5年半が経っています。年内になんらかの動きがあるのではないかと予測しています。年内に三者会議が開催され、証拠開示と再審開始へ向けたなんらかの進展があるのではないかと期待しています。
石川一雄さんは1994年12月に仮出獄しました。31年7ヵ月ぶりに、です。しかし、ご両親のお墓参りは、まだしていない。その理由を聞くと石川さんは、「まだ『見えない手錠』がかかっている。このままで墓参りしたら、両親が悲しむにちがいない。冤罪をはらして無罪を勝ち取り、『見えない手錠』から解き放たれたら、墓参りしたい・・・」と語りました。思わず熱いものが私の胸にこみあげてきました。
私たちが訪問した際、石川さんは一枚の色紙を「立教大学大学院生」宛に書いて手渡してくださった。色紙には、「学問や 社会的無知に 自白せし 正義の司法に 真相糺す」と書かれてありました。
公正な裁判は、争点に関わる証拠すべてを開示することなしには成り立たない。検察側は自分たちにとって都合の悪い証拠を伏せ続けるのなく、検察庁が隠している証拠を開示することです。狭山事件の再審の扉が開かれるかどうかは、この一点にかかっています。みなさん、是非注目してください。関心の輪を、広げてください。
注:事件の詳細は以下のホームページを参照ください。 ・冤罪狭山事件ホームページ
http://www.sayama-jiken.com ・狭山事件の再審を求める市民集会実行委員会
http://www.sayama-case.com/
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