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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2011年12月29日11時21分掲載
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文化
【核を詠う】(22)正田篠枝『原爆歌人の手記 耳鳴り』短歌を読む(7) 「灸すえて 原爆症に 堪えいると 学生ら目にすれば 常なく無口」 山崎芳彦
原爆被爆歌人・正田篠枝さんの『耳鳴り』所載の短歌作品を読み続けているが、正田さんが原爆に被爆してから、この『耳鳴り』が出版された1962年(昭和37年)までの16年余の間に詠われた作品は、歌誌「晩鐘」(広島 山隅衛主宰)、「短歌至上」(東京 藤浪短歌会 主宰・杉浦翠子―月尾菅子)、「青史」(広島 短歌文学を研究する会)をはじめその他に発表された作品で『耳鳴り』には収録しなかった短歌を除くほぼすべてを読み続けている。
ところで、正田さんが詠い続けていた時代、原爆被爆者はどのような状況にあったのかについて、被爆者医療に、原爆投下直後から自らも、また家族も被爆した広島の医師をはじめとする医療関係者が中心になって組織した財団法人広島原爆障害対策協議会が1969年8月に発行した『被爆者とともに―続広島原爆医療史―』(編集者・松坂義正医学博士)によって、概観してみる。 そのまえに、広島の医療従事者について、大江健三郎氏が『ヒロシマノート』(岩波新書)において「人間の威厳について」「屈服しない人々」で、深い感動を込めて述べた一部をみておく。
「ヒロシマにおける原爆医療の歴史は、体制のがわの権威によってみちびかれたどころか、その逆に、つねに権威あるものに対する穏やかな抵抗をおこなう人びと、決して屈服しない根気づよい人びとの力によって、まったくのゼロ地点からの発展をとげてきたのである。ABCCとその背後の占領軍、あるいは日本の保守政府のことを考えあわせれば、原爆医療史は、むしろ反体制の志によってつらぬかれてきたといってもいい。」「『広島原爆医療史』によれば、被爆当時、広島市内に二九八名の医師がいた。・・・被爆後、彼らはただちに献身的な活動ぶりを示した。・・・原爆によって六十名の医師が即死した。健全な状態で救護活動をはじめることのできた医師は二十八名、歯科医師二十名、薬剤師二十八名、看護婦百三十名そして・・・重い負傷をおいながら、なお救護活動をおこなう医師たちががいたわけだが、それにしても、この救護者たちがたちむかわなければならなかった市内の負傷者の数は十数万人に達していたのである。」と大江氏は記している。更に精密に、深い敬意をこめて大江氏は多くのことを述べている。(『広島原爆医療史』は1961年8月に刊行されたが、8年後に800頁近い資料保存に重点を置いた同書を簡略化し新しい資料を追加・補足した『続広島原爆医療史』が刊行された。筆者注)
『続広島原爆医療史』は1・原子爆弾投下 2・被爆による負傷者の救急救護 3・災害の調査研究 4・占領行政と被爆障害者 5・原対協の結成とその活動 6・原爆被爆による後遺症とその医療機関 7・原爆裁判と被爆者援護の諸問題 8・厚生省の実態調査と被爆者特別措置法 9・核の問題 10・平和をめざして・・・の10章からなり、それぞれの章で詳細な記録と論考を行なっている。 ここでは、4・占領行政と被爆障害者 から一部を読みたい。
「忌避された『原爆』問題」の項では、GHQの言論統制、プレスコードについてとりあげ10項目にわたる「日本に与える新聞遵則(プレスコード)」について、「新聞やラジオなどの報道のみでなく、その他あらゆる刊行物に対しても適用され・・・判断は占領軍当局が下すのであったから、・・・自動小銃を持ち腰にピストルを下げて占領軍兵士に威圧的な態度に出られると、由来、権威に対してはきわめて従順な傾向を示すといわれる日本人は、必要以上に神経質にこの覚書の内容を受け取った。」
「この傾向は、広島の原爆被爆者に関する報道にも見られた。原子爆弾を世界各国にさきがけて最初に完成した米国としては、その秘密の防衛については非常に警戒していたので、被害の状況やその後の被爆者の症状などの報道にも眼を光らせていたのである。しかし、それが特に生命に関する医学上の学術的発表にまで制限が加えられたのは、何としても遺憾なことであった。」「二十年十一月三十日、原子爆弾災害調査委員会の第一回各科連合会議総会が東京で開かれたとき、出席していたGHQ経済科学局科学課のケリー、アレン両氏は『連合軍は、日本人が原爆研究の成果を発表することは許可しない方針である』と述べた。これに対して都築正男博士が発表禁止の中に医学研究も含まれるのかとたずねたところ、そうだとの答えであった。都築博士は、人命に関する医学上の問題について研究を禁止することは人道上許しがたいと突っ込んで、両氏と激しい議論の末、改めて相談するということで物別れとなった。・・・
一年以上たった二十一年十二月になって『発表内容については当人が責任をおうべきであり、GHQが印刷の許可を与えたというような表現はいっさい用いてはならない』という了解事項となった。そこで発表希望者は続々と論文の英訳をGHQに提出したが、発表許可の通知を受け取った者は一人もいなかった。」と記している。その具体的事例も挙げて「これらの実例が示すとおり、原爆障害に対する医学的研究やその発表も・・・まったく不可能に近かった。しかし、このような圧迫にもかかわらず、原爆症治療に対する研究は地を這うように辛抱強く続けられていた。」と記述している。
また、「占領行政化の被爆市民」の項では、<広島病の出現>について「占領行政中は原爆問題については厳しい箝口令がしかれていたので『原爆症』などの言葉はめったに使うことができず、被爆後いろいろな障害に苦しんでいる人々の措置は甚だ不充分で、障害者は社会の暗い片隅におしこまれ、・・・生き残った市民も時日の経過と共にその症状は徐々に慢性症の様相を呈しはじめた。昭和二十二,三年ごろになると、何となく身体の調子が悪いという被爆者が増え、疲れ易く根気がない、全身がだるい感じで立ちくらみがする、ちょっとしたことで直ぐに風邪をひいてなかなか治らない、、調子がおかしいので医者にみてもらっても別にこれといった病的所見もない、・・・仕事もせずに休んだりするが、生活に困るのでまた働く、それも長続きしないでまた休むといった状態を繰り返す・・・いつの間にか『ブラブラ病』とか『広島病』などと呼ばれるようになった。こうした症状が、被爆者特有のものであることは治療に当る医師にはわかっていたが、占領行政下にあっては原爆問題は表立って論議することもできず、ひそかに適宜な対症療法で一時しのぎをせざるを得なかった。その上戦災の打撃で経済的にも困窮していたので、医師も被爆者もただ天を仰いで嘆息するのみで、文字通り原爆被爆障害者暗黒の六年であった。」と述べている。
加えて「飢餓とインフレ」の項で、全市被爆と消失による全面的な経済機能の喪失により、市民生活は飢餓とインフレに追い詰められ、住むに家なく、着るに衣なく、焼け残りの資材でバラック小屋を造り、傾いた焼け残り家屋の軒下に僅かに身を寄せるドン底生活に喘いでいた。・・・昭和二十四年五月十一日「広島平和記念都市建設法」が成立して新しい都市計画にもとづく広島復興の建設事業が進められることになって、二十五年から三十三年までに約三十億円の国費が投ぜられ、復興を前進させることができた・・・ことを記述しているが、「その反面、原爆生存者はその医療も受けられず、心身ともに傷ついたままで取り残されていることがわかってはいても、公の施策としてその実態をあからさまにして対策を打ち出すことはプレスコードをはじめとする占領政策の面から押さえられていたので、都市の形態的復興のみが優先的に進められ、原子爆弾による障害者は為政者からも取り残されていたのであった。」「この期間は、ただ僅かに前述のABCCが米国の機関として独自の方針の下に調査研究を進めただけであり(昭和二十五年からABCCは、被爆生存者について、日本政府機関の協力を得て行なった研究調査結果の概要を報告したが、「調査はするが治療はしない」 筆者注)、これに対して調査対象になった被爆者から「我々は連れて行かれ、いろいろな検査や調査をうけるが、障害はあるにもかかわらず治療はしてくれない。われわれをモルモットにしている」というふんまんの声がわきおこり、市民怨嗟の的となった、ことも述べている。
そのうえで「占領行政時代は原爆障害の問題はほとんど占領軍とABCCの支配を受け、米原子力委員会が表明したように『広島・長崎の生存者は世界で原爆の洗礼を受けた唯一の集団であるから、原爆障害調査委員会の医学的調査は科学者にとっても、米国の軍部及び民間の防衛計画にとっても重要である。』という軍事的、政治的意図にもとづく基本方針により調査した幾多の資料は、将来の核戦争に備えて核爆弾による人類の傷害やその防衛に対する貴重な資料となっているものと思われる。しかしながら、病床に苦しむ多くの被爆市民にとって直接的な恩恵とはならなかった。」とその本質を厳しく指摘している。
長々と、しかし歴史的にも、同時に現在においても重要な、原爆・核放射能医療に携わった人びとの痛苦に満ちた経験の一部を読みながら、筆者は正田篠枝さんの短歌作品の中と背後に広がるものを見た、感じたと思っている。広島原爆医療史の一冊には、貴重な歴史の教えが詰まっていた。昭和44年の刊行だが、その後も原爆医療、放射能障害医療の積み重ねがあるはずである。今、そこから学ばなければならないと思う。
正田さんの短歌作品を前回に引き続き読んで生きたい。原爆病院からの退院後の生活が詠われているが、原爆被爆者・正田さんの生活詠の背後にあったものを読み取っていきたい。
下宿屋へ おばさんと なれなれしくも 呼ばれては わたしだったと 気付き ては はいっ
「汚すまい」と 貼紙誰か してくれぬ 心うきうき 便所の掃除
把藁(たわし)もちて 便器洗へば 直白なる 光をはなつ たまゆらうれし
掃きおえて 水まく門に 行き逢いし 出勤の青年の 香油匂いぬ
行ってきます みな出でゆきて 朝仕舞 おえてくつろぎ 坐すとき嬉し
渡されし 郵便物を 状さしに 配りや るとき われはも嬉し
下宿せる ませた青年 奥さんの 恋人は どんな人か 知りたいと言う
学生が わが短歌をば 歌誌に見て おばさんの歌 いつも寂しいね
灸すえて 原爆症に 堪えいると 学生ら目にすれば 常無く無口
線香と もぐさを持ちて たわむれに 灸すえている 学生こぞりて
屋根裏の 貧しく無口な 学生は 気にかかるなり 深夜鍵かかりをる
夜遅く 学生等ハイヤーで 帰り来る ムシカのマッチで 些か安堵
人問えば 旅館をやめて 下宿やを いとなみおると 言わねばならぬ
風呂焚きの 燃料運び 手伝いし 下宿の青年に 厚く礼言う
取次の 電話のたびに 大声を出して 呼ぶのが わが健康法か
部屋代の 遅れいる人 書留は まだ届かぬか 問いてかど出る
父のなき 青年なりき アルバイト 家庭教師の くちたのみ来ぬ
長崎を 本籍に持つ 下宿の 青年が腕 ケロイドのぞく
生き別れ せし児に似たる 下宿の子 目にするたびに 声かけたかりき
たべごと 夜の寝ざめ 朝のこんだて思いいる われのなりわい 下宿やのわれ
こころこめ つくりし料理 のこさずに 食べし食器を 洗うは楽し
午過ぎの テレビの料理 見ることは わがたのしみの ひとつなりけり
泣かされたひと 何年か まえにいたひとと 街に会い コーヒー奢り くれて詫びらる
なんとなく おとなしくなり 寂しげなり 話ききみれば父上 逝き去り給うと
あんなこと するひと屹度 成功は しないの思い みなおしたりき
梅雨晴れ 梅雨晴れの 朝を嬉しみ 学生等の靴 並べて乾せば 映(は)えて光りぬ
昔なら 怒りしものと 思いつつ 土間の乱れし 履物並べぬ
乱れたる 土間の庭下駄 一列に 並べてみれば 綺麗なりけり
家出娘 家出して 来しかアパートの 娘(こ)の父が 細くつぶやく なさぬ仲の母ごと
まなこうるむ 口数少なき 娘(こ)が父の 匂う酒さえ 心に沁みぬ
頼みます 変わったことが あったときはと 名刺を置きし 父に泣きたり
お盆 釣りし沙魚(はぜ) 油で揚げて はずむ声 食堂より聞こゆ 盆の休みに
たまわりし ぶどうの房の 黒きつぶ 数えてわかつ 下宿の子等へ
きちきちと 支払いを受け ありがたし あえぎ生くる身の 心に沁みぬ
アパート業をしがないと なりわいを しがないものと しみじみと 思いしときに ため息出でぬ
ぴったりと よりそうふたり 通り過ぐ 門を閉ざしに 出でし闇夜 に
陽のささぬ 部屋に住まいて あるわれが 隣のあかりに 暁かと思う
部屋代を 倒して帰らぬ 青年の 壁に貼りたる プロマイドあまた
室貸して しがないたずき たつるわれが ひとり誓いぬ 愚痴は言わじと
集金人 利息とりに 銀行員が 来るたびに 静かですけん 学生さんには ええですのうと言う
集金人 割烹前掛の われを見て このごろ元気そうだと おせじを言いぬ
割烹の旅館のときのお客様 訪ねては来る いまのなりわい 説明したと婢が告ぐ
巣立ち かなしみを 抱きてあがく われなれば 学了え巣立つを みるは嬉しき
大学を 卒業して 背広なる 学生にこやか われはも嬉し
出世したら また来ますよと 言いたりき 出世せんでも来て頂戴よ
長い間 お世話になって ありがとう 繰返し言う学生を 駅に見送る
結婚を 前提にして いるのかと 問いし娘さんと ホームに残る
さよならと 巣立ち見送る ホームでは 涙ぐむひと 美しく見ゆ
下宿屋でも 曇りては晴るる 大学院で 勉強したる 青年が 原子力研究所へ 一番でパスせしと
就職し 原子力研究所の 寮より 便り届き来ぬ 宇宙のことわり書かる
来てくれと 誘い勧めの みことばを 下宿の子等の 父母がのらしぬ
先生に 会社員になり 背広着て 訪ね来たりぬ 青年いとし
靴下を 卒業祝いに 贈るとき 歌書きやれば 歌が嬉しいと言う
ネクタイを 就職祝いに 贈らむと 下宿の編物師に たのむが楽し
清二ちゃんと 母ごの呼ばる 同じ名を 電話呼び出し 大きく叫ぶ
母上の 呼び給う名を われも呼び ほのかに嬉しむ 下宿やのわれ
アルバイトに 家庭教師を せし学生 やまとがな文字 問いに来たりぬ
池の水 張りし氷を 珍しみ 沖縄留学生 はしやぎ割りぬ
ゆき合いし 廊下でわれに 下宿の子 眼が赤いよと 告ぐま夜中に
大阪の 街に育ちし 学生が 蟹とたわむる 池のほとりで
買物 つるぱらの 垣根のほとり 歩みつつ 白きはなびら 見つつ市場へ
籠持ちて 市場へゆけば 顔見知る ひとらほほゑむ われもうれしき
デパートには 何年も行った ことなしと この貧しさを 知るひとはなし
下宿やの われ肉屋のまえで 怯えいる ぶあつい肉を 食べさせたいのに
鯛を見て 鮎を見て過ぎ 求む鯵 魚屋の前で 侘びしきしぐさ
垣間みる あたたかき日は 小縁に出 ひなたぼっこする 老婆がおりぬ
墓参り ようせぬままに 盆過ぎぬ 秋風吹けば こころいたみぬ
正田さんの下宿屋にどれだけの、どのような人が暮らしていたのだろうか。この日々にも、正田さんの健康は侵されていたのだった。言葉にはしていない苦痛もあったかと思うと切な。 (つづく)
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