ベトナム戦争、カンボジア紛争、中越戦争などインドシナの戦争を撮影してきた日本電波ニュース社の石垣巳佐夫さんには長年、申し訳ないと思ってきたことがあった。26歳で結婚して以来45年ともに暮らしてきた妻のれいこさんを一度もインドシナに連れていったことがなかったことだ。戦場カメラマンの妻は生きて帰ってくるかどうかも定かでないカメラマンを待ち続けた。夫が旅立ったのは米軍が爆弾を雨あられと注いでいたベトナムやラオスである。だが、戦場カメラマン志望の男と結婚したのだからしょうがない。
「僕が長く行っていたものだから、妻はインドシナなんか行きたくないと言っていました。夫をインドシナに取られたと思ったのかもしれません」
石垣さんは今年11月、れいこさんを連れて成田から飛び立った。カメラマンとして過ごしたベトナムとカンボジアを訪ねる12日間の旅である。今までの埋め合わせをしたいと思ったのだ。
11月20日日曜、夫婦は成田を朝10時半に飛びたった。ハノイに着いたのは午後1時55分。5時間弱のフライトだが、日本とは2時間の時差がある。ハノイには未だ夏の香が残っていた。タクシーで空港からホテルに向かう。都心はバイクの洪水である。1969年に初めてハノイを訪ねた時とは隔世の感があった。さらに目立ったのが韓国車だ。タクシーはほとんど全部、ヒュンダイ自動車製だった。
「韓国メーカーは輸出する相手国に合わせて車を作っています。ベトナムはフランスの植民地でしたから、ルノーみたいな小型車が好みです。そこで韓国車はルノーのサイズに合わせた小型車をベトナム向けに作っているんです。日本車の優秀さをベトナム人もわかっているのですが、日本車は高いし、世界中どこでも日本基準で通そうとする。そこで韓国車に売り負けているんです」
ベトナムは近年、ミニバブルで年率7〜8%の経済成長を遂げてきた。外資も入り、昔あったホテルも構造こそ残っているが、外装も内装もピカピカになっている。石垣さんは最近、会社で経済ニュースの配信事業を立ち上げたからか、経済ジャーナリストのような口ぶりだ。しかし、その新興国ベトナムもリーマンショック以来、建設バブルがはじけて増設した新築の団地でもガラガラになっているところがいくつもあるようである。
夫婦はハノイのオーシャンホテルに着くと町を歩くことにした。「ここがあなたが苦労したとこね」とれいこさんは言った。しかし、あの頃、人々が逃げ込んだ爆風除けのタコツボも、池の周りにもたくさん掘られていた防空壕も今はない。朝、ハノイの人々は体操に精を出していた。戦時と平時の違いはあっても、ベトナム人たちは常に何かに熱心に取り組んでいる。
翌日、石垣さんはれいこさんをトンニャット(統一)ホテルに連れて行った。ベトナム戦争中、このホテルに日本電波ニュース社のハノイ支局があった。ホテルは今も残っていたが、名前は「ソフィテル・メトロポールホテル ハノイ」に変わり、五つ星のホテルになっていた。驚くほどきれいになっており、欧米からの客が多かった。1969年、ホテルの中庭はホテル従業員の民兵が射撃訓練をする広場だった。今はそこにプールができていた。40年も歳月がたってしまうと従業員で顔を知っている人は絶無だ。石垣さんはホテルの地下にあった防空壕を妻に見せたいと思った。 当時、ハノイ支局は212号室、213号室、214号室にあった。米機が来襲して空襲警報が鳴らされると防空壕に退避していた。防空壕は地下の倉庫で、ウイスキーやワインが貯蔵されていた。ところが、なぜかどうしても見つけることができない。
「本当に悔しかったのが、防空壕の場所がわからなかったことです。バンケットルーム(宴会場)の下あたりのはずだったんだけどね・・」
ホテルのテラスに腰かけて、石垣さんはビールを、れいこさんはトロピカルジュースを注文した。従業員はベトナム人だったが、ソフィテルホテルはフランス資本で世界中にチェーンを持っている最高級のホテルだ。フランスもアメリカもかつてベトナムが戦った国だが、今、これらの国の投資家はふたたびベトナムでビジネスを行っている。1972年冬、ここがまだトンニャット・ホテルだった時代、フォーク歌手のジョーン・バエズがこのホテルにやってきて泊まったことがあった。休戦を目指すアメリカはあの冬、最後の猛烈な北爆を行った。翌1973年1月29日、ニクソン大統領はベトナム戦争の終結を宣言した。
石垣さんはハロン湾観光を旅程に組み込んでおいた。ベトナム北部の海浜リゾート地である。湾内を就航するクルーズ船に乗り、ゆったりと夕日を眺めた。喧騒のハノイとは違う。「やはりハロン湾を訪ねたのはよかった」と石垣さんは思った。夕食は町のベトナムレストランを訪ね、海鮮料理を注文した。店は炭鉱労働者たちでにぎわっていた。ハロン湾の周りには有名な「無煙炭」が出る。北爆中も日本の商社は絶えることなくこの無煙炭を輸入していた。70年代の初め、アメリカによる「機雷封鎖」の一時期を除いて活発な生産を行っていた。国道は黒く、トラックの行き来が活発だ。破壊されていた当時の港湾設備も復活されていた。
11月24日、夫婦は空路、ハノイからカンボジアのシェムリアプに入った。目的地はアンコールワットだ。1980年10月23日、日本テレビ「木曜スペシャル」で「アンコールワットの謎をさぐる〜密林に眠る東洋の神秘〜」とタイトルを打った番組が放送された。石垣さんの取材班が、ポルポト政権崩壊直後にアンコールワットを取材したものだ。当時小学生だった長男は遺跡の尖塔を見て、「あぁ、つくしんぼみたいだ」と言ったそうだが、この言葉をれいこさんはずっと覚えていた。れいこさんは以来、アンコールワットに行きたがっていたそうだ。
31年前に見た遺跡は静寂の中に輝いていたが、今は喧騒の中にあり、世界中から無数の観光客の中でもまれている。特に日本、韓国、中国、ベトナム、オーストラリア、タイからの観光客が多い。取材当時は内戦の最中で、銃声がこだましており、撮影もヘン・サムリン軍に護衛されていた。石澤良昭・鹿児島大学教授(当時)とともに訪ねたアンコールワットは内戦のため、遺跡の管理は放棄され、各所で倒壊が起きていた。ところが、その後、石澤教授らの呼びかけが実り、フランス、インド、日本など各国が遺跡修復に乗り出し、参道の石壁などもきれいに元通りになっていた。
「嬉しかったですよ。その参道は石澤先生のグループが修復したんです。一部、修復前の状態を残して、比較できるようにしていました。」
1980年の撮影時に宿泊した「グランドホテル」に今回も泊まることになった。当時は自家発電の電球で薄暗く、丸々と太ったねずみが走り回り、二階はポルポト時代に虐殺が起きた場所だとの噂があって不気味だったが、今ではすっかりきれいに改装されていた。名前も「Hotel Raffles D'Anqkor」になっていた。
カンボジアの政権は31年前と同じ、ヘン・サムリンの人民党が握っており、フン・セン首相が実質的なリーダーである。昔の知人に会って話を聞くと人々の不満はたまっているようである。賄賂が横行し、「シアヌーク時代の方がましだ」という声もあるそうだ。今、中堅世代の40代は知識人を皆殺しにしていたポルポト時代に少年だった人たちだから、全体にきわめて教育水準が低い。それがカンボジアの発展にとって大きな障壁になっているという。
夫婦はカンボジアを後にして、再びベトナムに戻り、ホーチミンシティ(旧サイゴン)に滞在して帰国した。石垣さんが初めてベトナムに足を踏み入れたのは1969年8月である。あれから42年がたつ。会社には石垣さんが撮影した夥しいフィルムとビデオが残っている。ここにもプルーストの小説「失われた時を求めて」と同じように、生きた本物の時間が残されている。
■ベトナム戦争中のハノイから 戦場カメラマン石垣巳佐夫氏
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011102243453
■分断を見る’北緯17度線への旅’ 〜戦場カメラマン・石垣巳佐夫〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110152227346
■ポルポト政権崩壊直後の光景 〜カメラマン石垣巳佐夫氏のカンボジア体験〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201103052127366
■「中国軍が攻めてきた!1979年2月 〜戦場カメラマン石垣巳佐夫氏に聞く〜社会主義国同士の亀裂」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110112114372
■戦場カメラマン・石垣巳佐夫氏 〜内戦下のアンコール・ワットを撮る 1980年 〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201110142029135
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