2000年に入って間もなくだったと思うが、京都西陣の町家をいくつか訪ね歩いた。西陣の伝統建築を解体から守るために、入居を希望する若い人々と大家を結びつける、町家倶楽部という地元の団体があったのだ。
町家にはうなぎの寝床のように入り口は狭いのだが奥行きがある家がたくさんある。入口から入ってかつての西陣織を作っていた職人たちの工房があり、奥には家族が暮らす部屋がある。家々の瓦には鍾馗様という守り神の像が立っている。こうした伝統的な木造建築が繊維産業の衰退などとともに、空き家と化し、いずれ解体される危機にあった。町家倶楽部は危機感を抱いた地元の人々が〜和尚も参加して〜集まって、若者を外部から呼び込み、建築物を守るだけでなく、町に新たな文化と生活の息吹を吹き込もうとした試みである。西陣の町家の多くに工房があることから集まって来た若者たちの中には陶芸作家や絵描き、写真家といったアートに携わる人が少なくなかった。
いくつも訪ね歩いた中に、忘れられない1軒がある。手打ち蕎麦のかね井という店だ。店主の兼井さんは広告代理店から脱サラして、家族を連れて西陣に移住したのである。兼井さんはその頃、三十代の半ばだっただろう。手打ち蕎麦の店を始める前に全国各地の蕎麦屋を修行を兼ねて食べ歩いたというこだわりの人である。
町家は一軒一軒、建築された時代や家のタイプが異なるがゆえに改修の必要性も違ってくる。改修費は家賃が安い代わりに入居者の負担となっていたが、兼井さんの場合、400万円くらいかかったと言っていた。家は築80年という物件。その改修が面白い。
兼井さんが改修しようと思って調べてみると、天井や壁に二重、三重に壁紙やベニヤ板が張られていた。古い壁が傷むとその上にまたベニヤ板を張り、さらにその上に張り・・・という具合に時代を経るとともにごてごてと張りぼて状態になっていたのである。聞くと、板金屋が長年使っていたという。その張りぼてを兼井さんはすべてはがして、元の状態に戻し、最初にあった木の骨格を見せることにした。大工たちは「あかん、あかん、はがしたらあかん」と反対したという。しかし、兼井さんは家の原点をもう一度見せる決意をした。その基本構造にこそ、伝統建築の美しさがあるからだ。それは手打ち蕎麦屋の最上のインテリアになると兼井さん夫婦は思った。
「僕はずっと団地という箱もの住宅で暮らして来たので、木造の一軒家に憧れがあったんです。今、こんな家を建てようと思っても建てられませんよ。ごっついお金がかかるんです。」
だから改修工事の400万円は退職金をはたいても出す値打ちがあったのだ。日本各地に同じような建造物があるのではないだろうか。
取材の後、兼井さんが作った手打ちそばを昼飯に食べたのだが、その味は今でもはっきりと覚えている。歯ごたえのある四角ばった麺に、濃い醤油の際立ったつゆ。それは兼井さんの町家の改修にも通じる気がした。きっちりと見せるものを見せる。とてもシンプルな哲学だ。
町家はどこでもそうだろうが、冬は寒い。そして夏は暑い。かね井でも夏はクーラーを入れていない。しかし、兼井さんはこう言った。
「夏は暑くて当たり前。冬は寒いもんや。それでええやんか」
昔から日本人はこうして春夏秋冬、季節のある暮らしをしてきた。燃料や電気などのエネルギーはさほど使わない。だから、町家の再生は建築物や建材を守ることにとどまらない。それは文化を守ることであり、生活を守ることでもある。町家の人々の取材からそんなことを感じさせられた。だから兼井さんの店のことを今思い出す。
■兼井さんの店はその後発展したらしく、こんな食のブログを見つけた。ひとり飯の'おっさん'が、「かね井」に食べに行って感銘を受けた記録である。
http://stakano.blogspot.com/2010/06/blog-post_6486.html ■町家倶楽部ネットワーク ひところよりは落ち着いたようだが、今も町家と居住希望者のマッチングは続けられている。
http://www.machiya.or.jp/
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