最近、歩道を歩いていて、携帯電話で話しながら暴走する自転車に危険を感じることが少なくない。それを批判する声も高まっている。ただ携帯電話、自転車そのものに非があるわけではない。利用する人間の姿勢に責任があるわけで、打開策はどうあるべきだろうか。 <「自転車楽国」ニッポン>のすすめを提案したい。日本国全体の交通のあり方として自転車乗りを楽しむという含意である。そのためには自転車の専用道を拡充し、歩道は歩行者の専用道として位置づける。道路での移動手段はもはや乗用車中心の時代ではない。自転車と歩くことを重視するときである。
▽自動車文明の反省に立って
私(安原)は10年ほど前(2001年)に「自動車文明を反省するとき」と題して次のような趣旨の一文を書いた。
阪神・淡路大震災(1995年1月17日未明発生)は、地震国における自動車文明が意外に脆いことをはからずも印象づけた。安全なはずの高速道路が崩落したこと、かつてないほどの交通混雑によって消火・救援活動に大きな支障が生じたこと、歩くことこそ交通の基本であること ― などを否応なく学習するにはあまりにも大きな犠牲を払った。この際自動車文明を根本から反省してみるときではないか。その具体策は何か。
まず一人ひとりのライフスタイルを変えてみようではないか。 とにかくできるだけ歩いてみることである。歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。 どちらも健康によい。年老いてぼけないためにも二本足で歩くよう心掛けることが肝要である。車に乗り慣れて足を弱くし、急速に老いていく人たちがいかに多いことか。 歩くことは視野を広げてくれる。走る車の車窓からの視野は限られ、素通りしていくが、歩いていると、路傍の小さな動植物にも目が届く。歩いていれば、頭脳が活発になり、眠ることもできない。会議をだらだらと無為に続けないためには、座らないで立って行うのも一法といわれるのはここからきている。その昔のまた昔、二本足で歩くことによって猿から人間へと進化した。歩く努力をしないことは人間であることを止めることにつながる。
フランスの名言に「才子は馬車に乗り、天才は歩く」(木村尚三郎ほか著『続・名言の内側』日本経済新聞社)というのがある。十八世紀のパリでの話で、新交通機関として登場した馬車に乗ることがステイタス・シンボルとなり、田舎出の才子たちは、争って馬車に乗り、カッコよく振る舞った。しかし天才(見識のある人)は悠然と歩くことを好んだというのである。 それに便利であることは本当に豊かなのかを考え直してみることも必要である。車は文明の利器である。しかしその便利さを追求するあまり、身の回りを眺めてみると、怠惰、不健康、環境破壊を自ら招いていることが案外多いことにも気づく。「走る文明」から「歩く文化」への転換をすすめたい。(安原和雄「知足の経済学・再論」(上)=足利工業大学刊『東洋文化』第20号、平成13年)
上述の文中に「歩くことは省エネ・無公害型の基本的交通手段であり、これは自転車も同じである。どちらも健康によい」とある。つまりクルマ依存の文明病を克服して、歩くことと並んで自転車利用のすすめを説いたのである。
▽ 新聞投書にみる自転車への期待
以上のような自転車利用のすすめを説いてから10年後の今、自転車への期待はどうなっているか。以下のように「3.11原発惨事と大震災」以降の新聞投書から見る限り、期待する声が広がっている。なお投書者の氏名はいずれも省略。
*大切な自転車、東北で頑張れ(小学生 浜松市 10歳)=朝日新聞(2011年3月29日付) 東北で大きな地震があった。何ができるかなとテレビを見ながら考えていたら、お母さんが「浜松市が自転車を回収して被災地に贈るそうよ」と教えてくれた。 私の黄色い自転車は、もう私には小さくて少しぼろぼろ。でも数え切れないくらいの思い出がつまっている。買ってもらった時のうれしさ、車にぶつかって傷ができたこと、近くの公園で乗り回したこと、全部私の宝物だ。 私は、自転車を東北の子どもに使ってもらうことを決意した。東北の友達も喜ぶだろうし、その方が自転車もうれしいと思う。 だから自転車にこう伝えたんだ。今まで楽しかったよ。ありがとう。そしてさようなら。東北の子にたくさん使ってもらって、思い出いっぱい作ってね。自転車も、「うん、がんばるよ」って言っているみたいだった。がんばれ東北。がんばれ私の黄色い自転車。
*「自転車社会」に転換しよう(農業 出雲市 88歳)=毎日新聞(同年9月15日付) 日本の高度経済成長は「消費は美徳なり」の風潮を生んだ。人々はその中に埋没してしまった。 ぜいたくで便利な生活を一度味わってしまうと、なかなか抜け出せず、そのうちこのような生活がずっと続くような感覚になってしまう。しかしそれは大きな誤りだ。今こそ、私たち一人ひとりが子や孫たちのために生活の在り方を真剣に考えてみなければならない。自らの生活を見つめ直してみよう。 例えば、業務以外の自家用車は必要だろうか。多量のエネルギーを消費し、公共交通機関の赤字や廃止を招いていないだろうか。本来、人に備わった脚力を衰えさせてはいないだろうか。環境だけでなく、健康にも影響を及ぼすと思えば、車社会から自転車重視の社会に転換すべきだろう。
*自転車も安全な街づくりを(主婦 東京都北区 42歳)=毎日新聞(同年11月20日付) 自転車は、活用度の高さから震災後は多くの人に見直されたのではないかと思われる便利な乗り物だ。歩道からも車道からも邪魔者扱いするのではなく、車と共存し、安心して自転車を走らせることができる街づくりの構想を本格化させてほしい。ほかを削ってでも多額の費用をかけて取り組むべきではないか。 経済優先の車社会を突っ走ってきた日本だが、そろそろ、「人を中心とした」「人に優しい」国づくりで世界にアピールできる国になってほしい。人間をまず第一に考える安心な街づくりという形で子供たちにこの国の力を見せてあげたい。そして、走るときのマナーは当然と受け止めることができる心が育ってくれたらと思う。
▽ 歩行中に「自転車の危険」を感じる人が9割も
さて朝日新聞(2012年1月28日付)は「歩行中に自転車の危険感じる?」というテーマで特集を組んでいる。これは今や自転車も自動車同様に危険な乗り物に転じたことを意味するのだろうか。
朝日特集は次のような「危険な自転車」に関するデータを紹介している。 *歩行中に自転車の危険感じる?=「よくある」31%、「ときどきある」58%、「あまりない」10%、「ない」1% *どんな行為がとくに危険?=「速度の出しすぎ」1952人、「無灯火」1368人、「携帯電話で話しながら」1275人、「携帯電話をいじりながら」1163人、「歩道走行」1129人(上位5番まで) *この1年で歩行中に自転車にひかれそうになった(ひかれた)ことは?=「ある」29%、「ない」71% *自転車に乗る人で、この1年で自動車、バイク、人などにぶつかりそうになった(ぶつかった)ことは?=「ある」40%、「ない」60%
このデータの中で特に注目したいのは、一つは歩行中に自転車の危険を感じる人が9割もいること。もう一つは自転車の危険な行為として携帯電話をいじったり、話したりしながら走行することを挙げている人が圧倒的多数を占めていること、である。
▽ 「自転車楽国」ニッポンをつくるための条件は
地上での人の移動手段としては鉄道、バス、乗用車、路面電車、自転車、徒歩などがある。これまでは乗用車が主役であったが、その時代は終わりつつある。その代わりに脚光を浴びつつあるのが自転車である。 ところがその自転車が最近、上述の朝日新聞特集からも分かるように特に都市では危険視されるようになった。私(安原)自身も東京郊外の自宅近辺を歩行中にすれ違う自転車の危険を感じる一人である。たしかに携帯電話で話しながらの走行が目立つ。私は歩行中に携帯電話を身につけてはいるが、使うことはない。自転車に乗って携帯電話を使う姿を見ると、違和感を感じる。「ここにもケータイの奴隷がいるな」と想うのだ。奴隷は、自覚に欠けており、想像力も自己反省も不足している。
さてどうするか。自転車の活用を軸に据えた新たな構想は考えられないだろうか。ここで<「自転車楽国(らくこく)」ニッポン>をつくっていくことを提案したい。わざわざ「楽国」と呼ぶには理由がある。「自転車大国」も一案だが、経済大国、軍事大国への連想からイメージに新鮮さがないし、時代感覚からみてずれてはいないか。 ここは歴史に学んで「楽市楽座」(注)の「楽」を借用してみる。この「楽」は現代に翻訳すれば、新時代の新政策という意味と同時に自転車に乗ることを楽しむという含意もある。 (注)楽市楽座=戦国時代から近世初期に戦国大名が城下町を繁栄させるために実行した商業政策。それまでの座商人(特権を有した商工業者)の特権廃止などで、新興商人の自由営業を許した。
「自転車楽国」ニッポンをつくるための必要条件として四つ挙げたい。 第一は自転車の利点を多くの人が理解すること。自転車は排ガスを出さないため自然環境保全貢献型であること、脚力を使うため乗る人の健康にもプラスであること、など利点は少なくない。 第二は国道も含めて自動車道に自転車道を併設すること。もはや自動車依存時代は終わりつつある。国道だからといって、自動車だけが我が物顔に占拠する時代ではない。自動車依存症の人には少し肩身の狭い思いをしていただく。 第三は自転車道の拡充と同時に歩道は「歩く人の専用道」として取り戻すこと。今後は高齢者が一段と増えることを考えれば、杖をつきながらでも、「安心して歩ける」歩道の確保は急務といえる。 第四は朝日新聞特集の「ゆとりやお互いを思いやる気持ちなど、目に見えない部分が文化として根づくことが大事」という視点を重視し、実践すること。これは交通問題に限らない。ゆとり、思いやり、優しさ、慈悲の心は、「3.11の原発惨事と大震災」以降の日本再生のためにも不可欠である。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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