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2012年03月01日23時05分掲載
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核・原子力
足尾銅山と原発とそれを作り出した「国策」 池住義憲
1890年と2011年。121年の開きがある。1890年(明治23年)は、渡良瀬川大洪水により沿岸の鉱毒被害が大問題となった年。「足尾銅山鉱毒」事件が明るみに出された年だ。2011年は、311東日本大震災の直後に起こった「福島第一原発事故」事件の年。世紀を越えて起こった二つの事件には、時代状況の違いこそあれ、多くの共通点がある。今回通信では、古河鉱業会社の「足尾銅山」と東京電力株式会社(TEPCO)の「福島原子力発電所」の“発展”、ならびにその両者の背景・背後にある「国策」について考えてみたい。
●足尾銅山
足尾銅山は1550年頃発見され、江戸時代に入って本格的に採掘が開始した。幕府の直轄銅山として栄え、貨幣鋳造に使われるなどした。しかし当時の採鉱方法では地中深くの鉱脈を掘り出せなかったので採掘量が減少し、やがて閉山状態となった。
足尾銅山が息を吹き返したのは、1877年(明治10年)。当時新潟で銅山経営していた古河市兵衛に経営権が移った時以降だ。足尾銅山は明治維新後に明治政府の所有となる。その後10年の時を経て銅山は民間に払い下げられ、古河市兵衛の手に渡った。
古河は、大鉱脈発見もあり、当時世界の最新技術や機械を導入して近代化をはかる。日本の銅生産量の30〜40%を占め、東洋一と称されるまでに発展する。ちょうど「電気の時代」を迎えた時でもあり、足尾銅山は電気関連機器に不可欠の素材である銅を産出する基幹産業となっていった。
●銅山の発展と「国策」
足尾銅山が“大発展”を遂げた背景に、明治政府の国策があった。この国策が足尾銅山を東洋一へと押し上げた。欧米諸国に対抗できる近代的な国づくりを目指した明治政府は、地租改正や殖産興業で経済力をつけ(富国)、徴兵制や軍政改革によって軍備増強(強兵)することで国家の自立と維持を図った。富国強兵政策である。
国策として「殖産興業」政策を推進し、官営模範工場を作った。国の経済力を高めるには、国内の生産力を高めて輸入品を減らし、外国への輸出産業に力を入れる必要があると判断した。この政策は、民営化・輸出拡大・外資獲得・貿易自由化・自由市場経済化という、百年経った今現在突き進んでいる新自由主義政策に共通する。
明治政府は政府自ら官営会社をつくり、それを直接運営する(殖産興業政策)。足尾銅山や富岡製糸工場(1872〜1987年、群馬県富岡市)などがそれだ。やがて事業が安定した官営工場は、三井、三菱、住友、安田など大会社へと払い下げられる。足尾銅山は、古河市兵衛の手に渡っていく。買い取った民間の資本家たちは事業を拡大させ、その後の日本経済の中心となる財閥へと成長していった。
銅は1890年には輸出総額の9.5%を占め、重要輸出品としての地位を確立した。米国、チリ、ドイツにつぐ世界有数の産銅国となる。日本の銅は世界市場に直結し、近代化のための鉱工業生産設備・兵器・機械類など重工業製品輸入のための外貨獲得産業として、日本資本主義の成立と発展に不可欠な役割を担った。
1905年、古河市兵衛は個人経営から会社組織へと変更し、社名を「古河鉱業会社」とする。日清戦争(1894〜95年)、日露戦争(1904〜05年)、第一次世界大戦(1914〜18年)により銅の需要は拡大・急騰し、足尾銅山は発展の一途を辿り、古河コンツェルンが形成されていく。
大正から昭和にかけて古河鉱業は、輸入削岩機の大量使用など機械化を進める。戦後、不況と混乱で一時期低迷するが、朝鮮戦争の特需景気で蘇生。その後も銅精錬過程で生じる副産物としてのヒ素を半導体材料として有効使用するなど、事業を拡大・成長させていく。
そして1973年2月、閉山。採鉱部門は閉山によって操業停止さるが、輸入鉱による精錬はその後も続く。1989年に「古河機械金属株式会社」へと社名変更し、これを機に精錬部門は第二会社に移され、この時点で足尾での精錬が事実上停止した。その後2005年、分社化して「古河機械金属グループ」としてグループ経営体制へと移行し、今日に至っている。
●米国戦略の一環としての原子力導入
被爆国であり地震国である日本に、なぜ54基もの原子力発電所(原発)が造られたのか。日本への原子力導入は、米国の働きかけによるものであった。戦後の東西冷戦下で、米国の冷戦戦略の一環として日本に原発が導入された。
1953年12月、アイゼンハワー米大統領は国連総会で、軍事目的の核の削減と廃絶を呼びかけるとともに、核(原子力)を「平和の技術に適合させるための方法を知る人々の手に渡されなければならない」と演説した。
有名な「原子力の平和利用」(Atoms for Peace)スピーチだ。そして国連の下に国際的な原子力機関を設立することを提案し、電力の乏しい地域に電力を供給することが原子力機関の目的の一つである、と述べる。
米国は、東西冷戦のなかで核開発競争が急速に進むことで核戦争が起こる危険性が現実化している、との危機感を抱いていた。米国はソ連との冷戦で優位に立つため、関連技術を他国に供与して自陣営に取り組む戦略をとった。
米国にとって、世界唯一の被爆国である日本が原子力を受け入れることの戦略的意味は大きいと判断した。米国は、読売新聞社社主で日本テレビ社長だった政財界の有力者正力松太郎の協力を得て、日本で原子力平和キャンペーンを進めていく。
●「国策民営」となった原発
1954年3月、当時改進党所属代議士であった中曽根康弘は、原子力開発予算案を提出し、法案は修正可決される。翌1955年11月、当時の自由党と日本民主党が保守合同し、現在の自民党が成立。その年初めに、米国から濃縮ウランの供与を含む対日原子力援助に関する申し出される。
米国の申し出を受けた自民党政権(鳩山内閣)は、同年12月の臨時国会で「原子力基本法」「原子力委員会設置法」などいわゆる“原子力三法”を議員立法として成立させる。この時から、政府が計画を立て民間の電力会社が運営する「国策民営」方式が確立し、今日に至る。
その後、原子力利用に関わる体制を整備し、1956年9月に第一次原子力長期計画をまとめる。岸内閣は、米国から導入した技術と貸与されたウランによって、1957年に茨城県東海村に日本で初の原子力研究所を設置。原子炉として高速増殖炉の開発や核燃料再処理の全てにわたって国産化を目指す日本原子力産業の拠点とした。
原発政策は、1970年代の二つのオイルショックをきっかけに加速する。石油の限界性が意識され、田中角栄政権末期(1974年)には、原発の立地支援のための交付金などを定めた電源三法(電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)を成立させた。
以後、政府の手厚い保護のもとで、原発一辺倒に突き進む。その結果、現在、13道県で計54基の原発(ほとんどが米国型軽水炉)が地震列島日本に建てられるに至った。
●二つの共通点
「富国強兵」「殖産興業」という明治政府の国策により保護され発展した足尾銅山、米国戦略へ組入れられ「国策民営」体制で保護されて突き進んだ原発。社会状況・内容が違っても、両者には二つのことが共通している。
第一は、「国益」という名の自国領土拡大、自国経済力強化、自国軍事・防衛力強化を目指していたということ。第二は、その結果、農民・住民・地域社会への過酷被害と、取り返すことのできないほどの自然破壊をもたらしたことだ。
(つづく)
*次回は、「足尾銅山鉱毒」と「福島第一原発事故」の二つの事件と加害企業(古河鉱業会社&東京電力株式会社)について書き送ります。二つ目の共通点としてあげた過酷被害、自然・環境破壊の実態とその責任について考えてみます。そして次々回は、足尾銅山鉱毒事件にいのちを懸けて闘った田中正造の生き方・思想とその今日的意味を、いま、あらためて考えたい。
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