あの「3.11」から丸一年となる。どういう想いで迎えたらいいのか。僧侶・瀬戸内寂聴と作家・さだまさしの対談を読んで感じるのは、日本再生のためにはやはり「原発ゼロ」を求めて行動するほかないということだ。 二人の対談は、日本人はなぜ辛いときに笑うのか、身代わりに命を捧げてくれた犠牲者たちに感謝すること、命や心など目に見えないものこそ大切であること、反対なら声を上げて行動するとき―など望ましい日本人論のすすめともなっている。実はこれは「3.11」を境に本来の日本人の心を今こそ取り戻すとき、という呼びかけでもある。
作家・僧侶の瀬戸内寂聴とシンガーソングライター・作家のさだまさしの対談集『その後とその前』(2012年2月幻冬舎刊)の大意を以下、紹介する。タイトルの「その後とその前」とは、2011年のあの「3.11」(東日本大震災と原発大惨事)後とその前という意。
(1)日本人はなぜ辛いときに笑うのか さだ:今回被災地を歩いて感じることは、家族をものすごく今改めて意識していますね、皆さん。何も問題がないときは、そんなに家族が大事だなんて思わなかった。だけど、あの後は、やはり家族というものがどれだけ大切かを感じるんでしょうね。 寂聴:そうですね、そうですね。 さだ:もうほとんどの人たちが家族を失ってるんですけども、失ってみて、「ああ、大事にしときゃよかった」と思うんですかね。いるときには腹も立つんでしょうけど、いなくなるとせつないんでしょうねえ。 寂聴:うん さだ:それで、これは日本人の美徳と思いたいんですけど、辛いときに笑うんですよね。 寂聴:そうそう。 さだ:その笑い顔だけ見たら、彼らは元気って思ってしまうんだけど、それは要するに日本人独特の美徳であって、本当は泣きたいんですよね。 寂聴:そうそうそう。 さだ:僕と同世代の男性が、ふっと(周囲にいた)みんながいなくなったときに、僕の手を握ってポロポロと泣くんですよ。「おふくろを(津波に)持ってかれて、かみさん持ってかれて、孫、持ってかれて」って泣かれると、こっちもね、もう俺だったら耐えられないなと思います。そういう思いの人に、どんな言葉をかけたらいいんでしょう。 寂聴:そうねえ。人間ってやっぱり、自分が味わわないとね、つらいこととか貧乏とか、やっぱりわからないんです。だから想像力がとても大事。だけど想像力だけではわからないものがある。自分がガンにならないと、本当にガンになった人の怖さ、痛さはわからない。 さだ:それはそうですね。おっしゃるとおりですね。 寂聴:自分が火事で全部失わないと、火事でなくなった人の本当の不自由さってわからない。原爆で死んだ人の怖さ、そのあとのつらさなんて、それを味わってないわれわれ、頭では想像できるけど、やっぱりわからない。飢えてる人の気持ちも、自分が飢えなければわからないですよ。
<安原の感想> 目立つ想像力の不足 「想像力がとても大事。だけど想像力だけではわからないものがある」とは至言である。とはいえ現下の日本ではまず想像力の不足が目立ちすぎる。だから他人様の痛みにあまりにも鈍感になってはいないか。私事で恐縮だが、最近脚のしびれを日夜感じ、杖の助けを借りている。そのお陰(?)で、杖に頼って歩いている人がいかに多いかに気づいた。いささか遅すぎる気づきだが、私自身、「杖を友に」を心掛けたい。
(2)身代わりになる「代受苦」 寂聴:(大震災で)たくさんの人が死にました。なんであの人たちが死ななきゃならないか。亡くなった人はいい人ばっかりなのよね。 さだ:そうそう、本当ですよ。 寂聴:真面目なのね、つつましく生きて、いい人ばっかりで、われわれは悪いこといっぱいしてるのに残ってるじゃないですか。 さだ:おっしゃるとおりです。 寂聴:亡くなった人に対し、どうしたらいいですかっていっぱいお手紙が来るんですよ。「することがわからない」っていうけど、もう、そう思ってあげるだけで、それが供養になってるから。そして、その人たちはあなたの代わりに死んだことを考えて下さいって言うようにしている。 さだ:身代わりになった。 寂聴:そう。「代受苦」(だいじゅく=代わって受ける苦しみ)という言葉があって、人の苦しみを代わってあげようっていうこと。 さだ:身代わりに命を捧げてくれたんだと思えば、感謝が生まれますね。 寂聴:そう。だから知らない人でも、その人が私の命の代わりに死んでくれたと思えば、おろそかにできないからね。
<安原の感想> 「感謝の心」から日本再生へ 「代受苦」を強調した仏教思想家の一人に日蓮がいる。さてこの対談で見逃せないのは「身代わりに命を捧げてくれたんだと思えば、感謝が生まれます」という指摘である。最近の日本社会ではとかく「感謝の心」が薄らいではいないか。大惨事を境に「感謝の心」が広がっていけば、人間同士の絆も深まるだろうし、それが何よりの日本再生へのバネになるのではないだろうか。
(3)目に見えないものを大切にする さだ:こういう大災害にあうと、人生は失ってしまうものに満ちていることにいやでも気がつく。すると、一番大切なものがはっきりしてくる。例えば人間同士とか友達とか。 寂聴:敗戦で焼かれて何もかもなくした。それで戦後まず亡くしたものを手に入れようとした。家、着る物、道具、みんなお金がないと手に入らない。拝金主義になって、目に見えるものだけが必要で大切になった。目に見えないものを信じない。だから目にみえないものに想像力がなくなった。神や仏、命も心も見えない。だけど目に見えないものこそ、この世の大切なものなの。 さだ:だから、想像する力を何かと引き替えに失っている、きっと。 司会:多分それが便利さとか、物欲だとか。 寂聴:目に見えるものは壊れる。いつかなくなる。目に見えないものはなくならない。お金で買えないものって、目に見えないもの。家、着物、宝石が欲しいってのは目に見えているものでしょう。本当に世の中を動かしていくものは目に見えないものなんですよね。 さだ:心の基準が物質だった。だけど被災者の人も、誰一人宝石類を惜しまない。津波に流されて自分の車がなくなったことを惜しいとは言わない。やっぱり惜しいのは命です。命ってことは人の心。
<安原の感想> 非経済的・非市場的価値こそ大切 重要な指摘は「目に見えるものは壊れる。いつかなくなる。目に見えないものはなくならないし、この世の大切なもの」である。私の唱える仏教経済学では「目に見えるもの」を経済的・市場的価値、「目に見えないもの」を非経済的・非市場的価値と名づけている。後者の具体例を対談から拾えば、家族、美徳、人間同士、友達、神、仏、命、人の心、想像力などで、いずれもお金を積んでも入手できるわけではない。しかしこれらの価値こそが生きていく上で大切なのである。
(4)「生きるとは行動すること」 司会:みんなが不愉快に思ってるのに黙って我慢していることと、原発でも自分は反対だと言わないという空気は似ている。 さだ:うん、よく似てる。 寂聴:黙っていることは、賛成ってことなんですよ。だから反対だったら、やっぱり言わなきゃいけない。それから行動しなきゃいけないの。行動しないことは賛成ってことなのよ。平塚らいてう(注)は「生きるとは行動すること」と言ってる。「和をもって尊しとなす」は、聖徳太子の十七条憲法の言葉だけれど、それはただ仲良しならいいということではない。その和をもって尊しとする和を作るために、やっぱりちゃんと声を上げなきゃいけないときもあるのよ。 (注)平塚らいてう(1886〜1971年)は、評論家、婦人運動家。明治44年(1911)、女性文芸誌「青鞜」を発刊。のち市川房枝、奥むめおらと、女性の地位向上をめざす新婦人協会を結成して婦人参政権運動を行った。自伝「元始、女性は太陽であった」。
さだ:そうですね。何かを正しく恐れることとか、正しく怒ることってすごく難しいことだと思う。つまり原発に対して怒ることも、何をどう怒っていいか分からないからという気がする。「もしかしてあの地震が起きなければ大丈夫だったんじゃないの」という人が半分はいるわけでしょう? (中略)自分で手を挙げるとしたら、どこで手を挙げていいか人の顔色を見るんですよ、日本人って。自分の意見に自信がない程度しか学んでいないから、分からないんでしょうね。
<安原の感想> 「雄弁と行動こそ金」の時代へ 「沈黙は金、雄弁は銀」(西洋のことわざ)というが、このご時世ではこのことわざは時代遅れの感がある。筋の通った雄弁と行動こそ金というべきではないか。今こそ、婦人運動家の先がけ、平塚らいてうの「生きるとは行動すること」の含蓄を噛みしめ、行動したい。たしかに「行動しないことは賛成」にほかならないし、「正しく怒ることって難しい」が、あの「3.11」を境に変化しつつある。「原発ゼロ」を求めるデモなどの行動が日本列島上で日常化しているのだ。日本再生の新しいエネルギーとして大きく育っていくことを期待したい。
*本稿は「安原和雄の仏教経済塾」からの転載です。
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