「1993年、18歳の黒人青年スティーブン・ローレンスが、人種差別主義者と思われる白人男性ら数人に暴行を受けて、亡くなった。青年の死は、人々の人種差別に対する認識、警察の捜査のあり方、メディアの論調、司法体制、政治など、「すべてを変えた」と人種差別撤廃のための公的組織「平等と人権委員会」代表、トレバー・フィリップスは述べる。事件と英国のメディアの役割についてまとめてみた。(ロンドン=小林恭子)
以下は、朝日新聞の月刊メディア雑誌「Journalism(ジャーナリズム)」3月号掲載分の転載である。http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=13583
今年1月上旬、事件発生から19年を経て、2人の白人男性が殺人罪で有罪となった。ローレンス事件で容疑者に有罪判決が下ったのはこれが初めてだ。何度となく裁判まで持ち込んだが、いずれも「証拠不十分」とされていた。事件解決のためには、ローレンスの両親や支持者たちが大規模なキャンペーン運動を展開し、大衆紙「デイリー・メール」の大胆な報道も一役買った。
本稿では、社会にさまざまな変化を引き起こしたローレンス事件でメディアが担った役割を、事件の経緯をたどりながら紹介する。
その前に英国の移民をめぐる対立について少々説明したい。
英国に大量の有色人種の移民がやってくるのは第2次世界大戦後まもなくである。
労働力不足を補うため、政府は旧植民地諸国から多くの若者を移民として呼び寄せた。1962年までは特別なビザを取得しなくても、英連邦の市民として移住することが可能だった。当初、移民規模は年に数千人だったが、1961年には10万人を超えた。その後は移住前に仕事を見つけることなど、さまざまな条件が課せられたが、移民は増え続けた。
白人が大部分の国に、多くの有色人種が押し寄せ、地元白人住民の一部や警察との対立が暴動に発展することも何度かあった(1958年、ロンドン・ノッティングヒルでの白人住民と西インド諸島出身の黒人住民との対立、2001年にはイングランド北西部オールダムや同北部ブラッドフォードでも衝突事件が発生した)。
―事件はロンドン南東部、白人が90%の町で起きた
1993年4月22日午後10時半過ぎ。ロンドン南東部エルタムのバス停で、ローレンスは同じく黒人で友人のデュエイン・ブルックスとともに、バスが来るのを待っていた。
ローレンスの両親はともに西インド諸島・ジャマイカの出身。3人兄弟の長男ローレンスは将来、建築家になることを夢見る青年であった。
人口約8万人のエルタムは90%近くの住民が白人である。この比率はほかの地域と比較して特に高くはない。90年代前半、「白人至上主義」という落書きが目に付き、有色人種の住民たちは「地元警察が黒人の若者たちの身の安全に注意を払っていない」と感じていたという(BBCニュース、今年1月3日付)。
ローレンスとブルックスは、なかなかバスがやってこないので、バス停があるウェルホール・ロードから見て左手にあるロチェスター・ウェーに向かって歩きだした。まもなくして、数人の白人青少年のグループに囲まれ、侮辱語である「黒ん坊(nigger)」という言葉を浴びせられた。
身の危険を感じた2人はあわてて引き返したが、ローレンスはグループにつかまり、数回にわたり殴る蹴るの暴行を受けた後、鋭利な刃物で左肩と右の鎖骨を刺された。15秒ほどのできごとだった。
グループが逃げた後、ローレンスはしばらくウェルホール・ロードを走ったが、約120メートル進んだところで歩けなくなって倒れこんだ。その後病院に運ばれ、深夜に息を引き取った。
事件発生から48時間以内に、地元警察は事件にかかわる26の通報を受けた。被疑者の名前を書いた手紙が電話ボックスの中に置かれていたり、警察のパトカーの窓のワイパーに別の手紙が挟まれていたこともあった。ローレンス青年の母親も被疑者と思しき人物の名前を警察に伝えた。
―白人5人が逮捕されたが「証拠不十分」で無罪に
通報で浮かび上がってきた名前の中に、後に有罪判決を受けるデービッド・ノリス、ギャリー・ドブソンのほかに、ルーク・ナイト、自称「クレイ兄弟」(1950-60年代に悪名を高めたギャング)と名乗る兄ニールと弟ジェイミー・アコートの5人が入っていた。
警察は被疑者らをすぐには逮捕せず、アコート兄弟の家の外に監視カメラを置くなど、情報を集める行為に集中した。カメラは兄弟の家から何者かがごみ袋として使われる黒いビニールバッグを持ち出している様子や、ジェイミー自身が黒いごみ袋を持って出る様子を撮影したが、警察は袋の中身の確認やジェイミーの追跡を行わなかった。
5月7日以降、警察は5人を次々と逮捕した。事件の目撃者や通報者の多くは、この事件が白人住民による黒人への攻撃と見て、人種偏見が根にあると考えていたが、警察内ではそうではなく、「あくまで地元のギャングによる暴行」(当時の捜査官の1人)と見ていたという。
ブルックスの母親やローレンスの母親は、事件にかんするそれぞれの著書の中で、まるで自分たちが犯人であるか、あるいは黒人コミュニティーの中に犯人がいるかのような疑念を警察に向けられたと書いている。
物的証拠が乏しく、目撃証言はバス停にいた数人と友人ブルックスのみという状態が続いた。
1996年、ドブソン、ナイト、アコート兄弟の兄ニールを被告(ノリスとジェイミーは不起訴)とする、ローレンス殺害事件の裁判が開始されたが、裁判官は「証拠不十分」とし、3人は無罪となった。
翌97年、青年の死因審問が始まった。英国では、死亡が暴力行為によるときや不自然と思われる場合は、死因を審査するための審問手続きが取られる。審問は公開が原則で、陪審団を使うこともある。当初の審問は事件の発生年に開始されたが、ローレンス側が新たな証拠が出る可能性を指摘し、中断されていた。
審問では、アコート兄弟、ナイト、ドブソン、ノリスの5人は黙秘権を使い、自分の名前を聞かれても黙秘を通した。2月、審問の結論は、ローレンスは「5人の白人の若者たちによる、まったくいわれのない人種差別攻撃で」殺害されたというものであった。5人はテレビ番組に出演し、無罪を主張した。
―「殺人者たち」と書いた「デイリー・メール」の決断
保守系大衆紙「デイリー・メール」は、移民、特に有色人種の英国への流入には否定的な見方を表に出すのが常である。人種、性、宗教の面からの少数派を排斥に向かわせるような、扇情的な記事も多い。
しかし、「メール」のポール・デーカー編集長の決断が、ローレンス事件解決への道程作りに貢献した。
ローレンスの父親はデーカー編集長の自宅で左官として働いたことがあったが、デーカー自身は事件発生当初、その記憶がなかった。しかし、ローレンス殺しの犯人がなかなか捕まらないことへの読者の苛立ちや、同紙の犯罪事件記者の「あの5人が犯人だと確信している」という声を耳にし、いつしか5人に対する「怒りが生まれていた」(デイリー・メール紙、1月4日付、以下同)という。
ローレンスの死因審査の過程で、5人がまともに質問に答えない様子を報道で知ったデーカー編集長は、男性たちの「傲慢さ」に不快感を持った。テレビで死因審査の結果を報道するニュースを見ていたとき、医師が死因を決定するために30分ほどしかかからなかったことや、「いわれのない人種差別攻撃による」非合法の殺人と断定したことを知って、デーカーは一つの決断をした。
ニュース番組が終わった時、午後8時を回っていた。デーカーはレイアウト用紙手に持ち、鉛筆で「殺人者たち」と書いた(コンピューター画面を使っての紙面製作が今ほどには発達していなかった頃である)。その下に「メール紙はこの男性たちを殺人者と呼ぶ。間違っていたら、訴えればいい」と続けた。
この見出しは、今後始まるかもしれない裁判で、容疑者を犯人視した報道だとして、法廷侮辱罪に問われる可能性があった。また、5人がメール紙を名誉毀損で訴える可能性もあった。
編集幹部や社内の法務弁護士と相談の上、デーカーはこの見出しを使うことに決めた。「殺人者」と書かれた大きな見出しの下に、5人の顔写真が並ぶ、後に有名となる1面ができあがった。
訴えられることの恐れから不眠になることを想定したデーカーは、睡眠薬を服用して床についた。それでも、午前4時ごろ、汗をいっぱいかいて目覚めた。やりすぎたのではないかという不安感があった。
翌日、メール紙の1面が大きなニュースとなった。高級紙テレグラフはデーカーが法廷侮辱罪で禁固刑を受けるべきと書いた。法曹界からは当初批判も出たが、「よくやった」という声も同時にあがった。
報道から3日後、メージャー首相がメール紙支持を表明し、当時の法務長官(報道が法廷侮辱にあたるかどうかを決定する)が報道は侮辱罪にはあたらないとする旨をメール紙に伝えた。「殺人者たち」と評された男性たちからの提訴もなかった。
「推定無罪」という英国司法の原則からすると、デーカー編集長の決断は、容疑者を犯人視したという点で、偏った報道であった。
「殺人者」とレッテルを貼られた方からすると、まるでリンチのような報道は法廷侮辱とされても仕方のない越権行為だったが、時の政権も法曹界もその意義を認めたことになる。
メール紙は「殺人者たち」報道の翌日の紙面で、1994年に、警察がドブソンのアパート内の様子を隠し撮りしていた、と報道した。この中で、ドブソンは「パキ(パキスタン住民の蔑称)」、「ニガー」という言葉を何度も使い、黒人の同僚を「ナイフで刺したい」と発言していた。またノリスは黒人の住民に火をつけ、「腕や足を吹き飛ばす」と宣言していた。
ー原因究明のために、内相が調査委員会を発足させる
当時、野党労働党の「影の内閣」で内相となっていたジャック・ストローは、「殺人者たち」という見出しがついたメール紙の記事に目を留めた1人であった。
ロンドン警視庁トップから事件の概要についての報告を受けていたものの、ストローは「『これがすべてではないだろう』、と心の底では思っていた」という(BBCラジオ4の番組「ロング・ビュー」、1月17日放送)。
97年5月、保守党が総選挙で破れ、労働党政権が発足すると、ストローは内相に就任した。同年7月、ストローはBBCなどのテレビのインタビューの中で、有力容疑者を特定しながら立件できないことに対し、「黒人社会ばかりか国民全体に怒りが広がっている」と指摘した。そして、「人種偏見に基づいたこのひどい犯罪」の犯人がなぜ見つけられないのか、その原因を突き止めるために公的な調査会(調査を率いたマクファーソン判事の名をとって、通称「マクファーソン調査会」)を立ち上げた。
調査会に召喚された5人は、会場の外に集まった写真家につばを吐きかけたり、市民たちに挑発行為として投げキッスを送った。一部の市民が侮蔑を示す行為である、卵を5人に投げつけると、取っ組み合いの喧嘩になった。
1999年に発表した報告書で、マクファーソン判事は証言をした5人が「傲慢で軽蔑の態度を示したこと」、その証言がまったく用をなさなかったと述べるとともに、警察の捜査を批判した。報告書は、ロンドン警視庁には「組織的な人種差別主義」がある、と結論づけた。
マクファーソン報告書の提言を生かし、2つの大きな司法上の動きが起きた。
まず、人種関係修正法(2000年制定、01年施行)によって、警察、地方自治体、中央政府などの公的機関で人種間の平等を促進するための手段を講じることが義務化された。
また、刑事裁判法(03年制定、05年施行)により、800年の歴史を持つ一事不再理の原則(同一の罪について二度裁かれることを禁止する)が廃止され、新たな証拠が出た場合に、事件の再審理が可能になった。
これで、1996年に「証拠不十分」などの理由から起訴にいたらなかったドブソンを、再度、裁判にかける可能性が出てきた。
初期捜査の失敗や人種差別主義を報告書で指摘された警視庁は、新たな捜査チームを結成し、真犯人探しに取り組んだ。
2000年、10歳の少年が何者かに殺害された事件が迷宮入りとなっていたが、06年、警視庁は最新のDNA鑑定技術を利用することで、犯人2人を突き止めた。
同様の技術をローレンス事件にも使い、5人組の1人、ドブソンの上着についていた血痕の一部のDNAを調べてみたところ、ローレンスのDNAと合致することを発見した。さらに、同じく5人組の1人、ノリスが事件当時に来ていた衣服から、ローレンスの衣服の繊維が見つかった。
-2010年9月、犯人を再逮捕
その結果、2010年9月にドブソンとノリスがローレンスの殺害容疑者として再逮捕された。ドブソンは1996年に同容疑で逮捕され、裁判では無罪となっていたが、2011年、控訴院がその無罪を破棄し、再審理を命令していた。
公判が同年秋に開始され、ドブソンとノリスが殺人罪で有罪となったのは今年1月3日。翌日、死刑がない英国では最も重い量刑となる終身刑が下った。英国で言う「終身刑」とは仮釈放の可能性を含む刑で、通常は裁判官が「最低服役期間」を決定する。今回、ドブソンには15年2ヶ月、ノリスには14年3ヶ月の最低服役期間が科された。犯行当時の1993年、両者は未成年であったため、最低服役期間は成人であった場合と比べて軽いものになっている。
1993年の殺害事件発生当時、事件は新聞の中面で短く報道されるのが主で、大きな注目は集めなかった。社会の少数派の問題を丹念に追う左派系高級紙インディペンデントも人種差別による事件の1つとして報じただけだった。黒人青少年の傷害・殺害事件は珍しくなかったのである。
しかし、5月、ローレンスの両親が記者会見を開き、捜査について不満を表明すると、大衆紙「デイリー・エクスプレス」がロンドンでの人種差別をテーマにした連載記事を始めた。また、ロンドンを訪問していた、人種差別撤廃運動の象徴ともいえるネルソン・マンデラ(当時、南アフリカ共和国の政党アフリカ民族会議の議長。後、同国の大統領)が両親と会い、その模様が報道されたことで、大きく人目を引いた。
ローレンスが亡くなったことを聞き、すぐに両親に連絡を取った団体があった。反人種差別の団体ARAである。
ARAの一員マーク・ワズワースは、人種差別による暴力で犠牲者となる黒人住民に対し、大衆紙が無関心である状況を変えたいと思ったという。「『 ローレンスはあなたと同じ人間なんですよ』、というメッセージを白人社会に伝えたかった」。(BBCニュース、1999年2月19日)。
ロンドンで命を落とす若い黒人少年・少女はローレンス1人ではないが、英国民にとってローレンス事件が特別な存在になった理由を、『スティーブン・ローレンス事件』の著者、ブライアン・カスカートはこう説明した。
ローレンスは「どうみてもギャングではなかった」。法律を遵守するまっとうな家庭の出身で、「どんな犯罪行為にも手を染ない、将来の夢を抱く青年だった」。「英国の人口の大部分を占める白人の支配者層は、青年が警察の正当な捜査に値する人物として受け止めた」のだという。
ー18年間で変わったこと、変わらなかったこと
ローレンスが白人住民からすれば「自分とは関係のない人物」から、「自分、あるいは自分の家族の一員でもあったかもしれない人物」として認識されるようになると、メディアの論調は大きく変わった。
「デイリー・メール」が「殺人者たち」報道から、犯人を突き止めるためのキャンペーンを続ける一報で、民放チャンネル4は、1998年のクリスマスに、ローレンスの両親に息子の犯人に正義を下すためのメッセージを伝える時間を設けた。翌年、同じく民放のITVがローレンス事件をドラマ化した番組を放映。同年、BBCは法廷でのこれまでの証言を書き取ったものを基にした番組を放映した。
一方、1990年代末、殺害を否定し続けた白人青年5人は、メディア報道によって犯人視される日々を送った。5人の母親たちはBBCラジオの朝のニュース番組「トゥデー」に出演して無実を訴えるとともに、5人自身もITVのジャーナリストによるインタビューに応じた。後に、5人はITVの番組が自分たちに不利なように編集された、と不満を述べた。
事件以降、有色人種に対する差別や偏見が消えたわけではない。人種対立から起きる犯罪はまだ多く、2010年には4万件が記録されている。
警察官による路上の職務質問(自分の身元情報について聞かれる上に、持ち物や衣類を検査される)を受ける人の中で、有色人種の比率が高い(司法省が昨年10月発表した報告書によれば、2010年時点、黒人住民は白人よりも7倍多く、こうした取調べを受けている)ことも問題視されている。
有色人種に対する職務質問の多さは非白人人口の間に、警察に対する不信感を広める一因になっている。昨年8月にロンドンからイングランド地方各地に暴動が広がったが、そのとっかりとなった事件とは、ロンドン・トッテナム地域で、捜査の対象となった黒人青年を警察官が誤射したことによる。警察に対する不信感を抱く地元民らが、青年の死を追悼するとともに、射殺までの経緯の説明を求めて警察署に多数集ったことがきっかけとなった。
高級紙の編集者も、有色人種であるというだけで取調べを受けた経験を持つ人が少なくない。
「タイムズ」紙の編集設計者の1人は、褐色の肌を持つ30歳の自分が「16歳のアジア系少年の犯罪捜査」のために警察官に職務質問を受けたときの体験を書いた(1月5日付、以下同)。警察への強い反感を覚えたという。
同紙の特集面を担当する黒人女性も「黒人が犯した犯罪」の捜査で、自分が黒人女性であるというばかりに拘束され、路上で検査を受けている。理由も説明されずに身体を検査されるのは不当だと警察官に述べたところ、「逮捕するぞ」といわれたという。高価なブランド品の衣料を売っている店舗では、有色人種であるだけで「潜在的犯罪者」とみなされることに不快感を覚える、と書く。
同日付「タイムズ」は、ローレンスが攻撃を受けたエルタムでソーシャル・ワーカーとして働くサマンサ・オリバーの話を紹介している。
ロンドンでナイフ犯罪によって命を落とす青少年の実態は変わっていないが、今は人種差別というよりも「地域のギャング同士の戦い」になっているという。青少年が命を落とすたびに葬式に出かけるオリバーは「あまりにも葬式の数が多すぎて、数えるのをやめた」という。ローレンス事件の前後では、「事件を起こせば、必ず罰を受ける」ことを攻撃する側も知っているのが大きな違いだと語っている。(つづく。次回は英メディアでの有色人種の雇用)(ブログ「英国メディア・ウオッチ」より)
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