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2012年04月17日11時37分掲載
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文化
【核を詠う】(番外編)福島原発事故独立検証委員会の報告書を読む(1) その「安全神話」論と、「反原発運動」に対する逆立ちした批判・攻撃 山崎芳彦
福島原発事故の大変は、一年余を経てますます深刻化している。大震災の被害による現地住民の苦闘、地域崩壊の危機、政府の対策のどうしようもなく焦点の定まらない、しかも遅れの現状。そして福島原発事故の先の見えない被害の甚大さ・深刻さの中での原発再稼働への暴走。このような現状を考えながら、筆者は、以前にも少し触れた「福島原発事故独立検証委員会」(北澤宏一委員長、一般財団法人日本再建機構イニシアティブ―船橋洋一理事長、が同機構のプロジェクトとして検証委員会を設置した。)の調査・検証報告書を遅れ馳せながら読みつつ、同機構、検証委員会そのものに、強い違和感を感じた。同プロジェクト機構・検証委員会の構成については、あえて触れない。
政府、電力企業や関係企業・団体からの「独立」を謳い、福島原発事故の「検証」を行い、電力企業、政府、関係機関の事故対応の不手際・不的確・拙劣さと、危機管理能力の欠如などを、事実を上げながら「厳しく」指摘し、また事故の背景、原因などについての問題点を「原子力ムラ」の構造、「安全神話」の形成の土台と背景、それらが形成された歴史的構造的問題点など「広範・多様」な視点から「検証・分析」しつつ、「批判」を加えているのだが、しかしその行き着く先は、いかにして原発の維持存続を図ることができる態勢を構築し得るかということになるところに、この「独立検証委員会」の性格は明らかである。
福島原発事故の原因や、対応の過ち、管理能力の不備の事実をかなり具体的に綿密に積み上げて見せ、「分析・批判」しても、もっとも根底的に検証しなければならない原子力エネルギー・放射能の本質について、それこそ原爆をはじめとする日本の被爆者の経験とそれにかかわってきた科学者や医療関係者の蓄積した知見、さらにチェルノブイリ原発事故の実態と現状、またアメリカをはじめとする世界的な原発の稼働による放射能放出がもたらしている被害の科学的・医学的な研究の知見の検証、地震国日本が電力を原発に依存することの危険性、原発稼働を支える現場の労働の実態の調査・検証、日本の電力企業と関連建設・機械製造企業の度重なる事故隠蔽と利益優先によるさまざまな「手抜き」の実態の調査・検証などを積み重ねないで、福島原発事故の「検証」をすることで、原発そのものの可否を判断することが出来るはずはない。
それは、「このプロジェクトの検証対象ではない」と反論するかもしれないが、それにしては、多言はしていないが、「1975年に設立された原子力情報室の高木仁三郎が反原発のオピニオンリーダーとなって(これまでの安全規制のありかたに大きな疑問を投げかける)運動を盛り上げていた。」とする記述があるがその内容についての言及は全くないばかりか、別の場所では「原理原則に基づくイデオロギー的反対派の存在が『安全神話』を強化する土壌を提供したことを考えると、建設的な原子力安全規制を提起する『批判的専門家グループ』の存在は不可欠である。・・・国、規制官庁、独立行政法人、電気事業者が自らの安全規制への責任を再認識し、安全規制ガバナンスの見直しを進めるしか、原子力の安全を確保する方法はない。」と述べ、反原発を主張する運動へのねじ曲げた論理での敵意を示しているのである。
「反原発運動があるから原発の維持・推進側はより自らを守ろうとして結束を固めることになるし、安全問題に正面から向き合うことを避けることになる」から「反対運動は相手を強化する素地を提供するし、原発の絶対的な安全性を唱え、事故が起こることを想定することすら許さない環境を作る」役割を担ったとは、なんともいいようのない異常な論理の捻じ曲がりようではないか。
しかし、原発維持・容認の支配体制にくみする論理としては、珍しくもない、常套的なものなのだろう。
長きにわたって、「原子力ムラ」を構成する諸勢力からの卑劣な妨害に屈することなく、科学的・医学的な調査・研究を続けながら、国民に原子力と人間の共存は不可能であることを訴え、核兵器や原発などの廃止、原子力文明からの脱却をめざし、誠実に粘り強い運動をしてきた潮流への、このような見解を示す異様さは、原発維持を前提にする観点からしか生まれないであろう。
このような、報告書の論理構成は、「あったこと」「おこったこと」についての「事実」の積み上げ、展示に関しては、すでにさまざまにマスコミやネットなどで報じられてきたことを意図的に操作しているとはいえないにもかかわらず、個々の「事実」の指摘はあったとしても、そこから引き出されるべき教訓や、その根底にある事実の系統的な分析と検証に至ると、前述してきたような展開が目立つのである。
ところで、この報告書の中では、原子力の「安全神話」について多言され、原発事故を生み出す「歴史的・構造的要因の分析」(第3部)を進めるうえでの「重要なキーワード」としているのだが、その「概要」の記述の構成は、この「調査・検証報告書」の、へそ、といってもいいと筆者は読んだ。
まず、そのことを中心に考えたことを記しておきたい。
ここで、報告書は「第一部『事故・被害の経緯』、第二部『原発事故への対応』で明らかにされたように、今回の事故は『備え』がなかったことにより、防げたはずの事故が防げず、取れたはずの対策が取れなかったことが原因とされている。」として、「事故の直接の原因に限定することなく、歴史的・構造的な要因に着目し、なぜ『備え』が十分でなかったのかを明らかにすることで、より深く事故の原因を調査し、問題の解決に向けての道筋を明らかにすることができると考えている」と、大上段に振りかぶっているのだが、そのキーワードが「安全神話」だというのであるから、その掘り下げ、構造の解明に注目しないではいられない。
ところが、直ぐに出鼻をくじかれる。「日本の原子力技術導入時から構築されてきた、『原発は安全である』と言う漠然とした社会的了解」が、原子力技術の考え方、社会的な原子力技術の受容、安全規制における行政的な仕組みに影響を与え、「原発の安全性に対する楽観的な認識に基づいてガバナンス体制が構築され」規制当局、電気事業者、原発立地自治体の住民や国民全体が「安全神話」を受け入れることで、日本の原子力事業が成り立っていることが「備え」の不十分さの基礎になった、というのである。
「安全神話」とは、どこからともなく生まれたのか、天から降ってきたのか、文字通り作者不明の神話だといっているにひとしい。神話の作者責任は問いようもなく、いつの間にか受け入られてしまっていた「安全神話」を信じた国民全体が信じた責任を負わされることにもなる。 「備え」のなさの根源をたどっていくと、規制当局にも、電気事業者にも、そして全国民にもそれぞれ責任があるということになるのだろうか。もちろん、報告書では政治や電気事業者の責任を一切不問にするわけではないが、「安全神話」によって生まれた責任ということになると、報告書の論法では、それを「受容」した、立地自治体、国民もそれぞれに「備え」の不足を招いた応分の責任があることになり、あの「一億総懺悔」にも通じる。
しかし「安全神話」の作者がいなかったはずはない。神話を信じないでそのまやかしを明らかにしようと努め、研究を重ねた人々がいなかったはずもない。その「安全神話」を誰もが受け入れたのが、原発事故への備えを不十分なものにした、その結果が防げたはずの福島原発事故の生起だとは、余りにも実態を押し隠し、原発の歴史をゆがめる見解である。筆者のように原発、原子力についての知識を充分にはもちあわせないものから見ても、本来負わなければならない責任の所在を「神話の世界」に封じ込めるための意図的な論法であることは明白だ。
「原子力の平和利用」を、原子力エネルギーを戦争で使用し、核兵器の保持を背景に世界の支配者の地位を築こうとしたアメリカの大統領が国連で臆面もなく演説し、兵器であり自国の軍産複合大企業群の商品としての原発の施設・技術の売込みに奔走し、それに積極的に呼応した日本の政財界、あるいは学界、ジャーナリズムの原発導入・推進の支配層が形成された。
一方で原爆の被爆者の苦しみの実態やビキニ「死の灰」の被害の実相を、アメリカ政府や原子力産業界と共謀して隠蔽し、「夢のエネルギー」原発を、総力を挙げて、国策として、また電力企業はもとより、不動産大企業、建設大企業、機械製造大企業その他の関係産業界が、政治と結んで大プロジェクトの中核をなし、原子力工学、エネルギー科学者をはじめ日本を「代表」するような学者及びその集団を集めての原子力技術のアメリカからの指導と援助も受けながら、日本における原発技術の構築と実用化にまい進した歴史的経過は、さまざまに証明されている。
原子力の利用の危うさ、危険性を指摘する議論を封殺し排除した歴史的な事実、さらには「原発技術と核兵器開発の連動」の企みを隠して、当初には、あろうことか「原子力の平和利用」のシンボルとして、原発被爆地の広島に原発を建設する計画さえ検討されたという経過を考えれば、「安全神話」が「漠然とした社会的了解」として生まれたなどということが、歴史の偽造であることは明らかであろう。
「安全神話」は意図的に目的を持って制作され、正力松太郎に代表される大マスコミ、あるいは著名な科学者や文化人を政財界が動員して普及させたのであったことは間違いない。それに操られ、あるいは深い関心を持たず経済成長=生活向上の「神話」に魅せられた国民が多かったことは、否定はできないが、原発推進大勢力と同列に論じられるべき対象ではあるまい。
日米共同の日本への原発導入の、具体的かつ本質的な検証をせず、いろいろな言葉を纏わせながらの「安全神話」に関する報告書の記述は、「原発」問題を迷路に導こうとするものとして、筆者は読んだ。
さらにその上に、同報告書は、とてつもない倒錯した論理をもって物語を作る。 それは、スリーマイル等原発事故(1979年)、チェルノブイリ原発事故(1986年)、さらに茨城県東海村のJCO事故(1999年)を経ても日本の原発は安全であるという「安全神話」に依存した体制は揺るがなかったが、その背景には「原子力船『むつ』の放射能洩れ(1974年)に端を発する反原発運動の盛り上がりがあり、反対派が訴える安全性への疑念を否定するためにも、原発の絶対的な安全性を唱え、事故が起こることを想定することすら許されない環境が出来上がったといえる。」というのである。
「この『安全神話』は、国民の間だけでなく、電気事業者や規制当局にも共有され、原子力の安全性に対して過剰に楽観的な認識を持つに至っただけでなく、原子力の安全性の問題に正面から向き合うことを避けるような風潮を作っていった。」ともいう。
ここで注目しなければならないのは、「安全神話」がひとり歩きして、あちこちに問題点を作り上げてきた、という報告書の展開だから、ほとんど「主語」となるべき存在が姿を現さないことだ。したがって「述語」も「不十分となっていったのではないか。」「素地を作っていった。」「状況になった。」「出来上がったといえる。」「状況が見られる。」「と考えられる。」というものになり、「なに(だれ)」が「どうした」という脈絡は見えないことになる。
「安全神話」が「事故への備えを不十分にし」「福島原発事故が起こった」つまり、作者不詳の「安全神話」から離れて「シビア事故まで想定し、備えをすれば事故は防げた」といっているのであり、「原発事故に備えることができる」「備えさえあれば原発は安全に稼働できる」という「原発の維持存続」への道を開こうとしているのであり、「反原発、原発の危険性の主張、運動は『原発神話』の地盤作りになるし、電力事業者や規制官庁の隠蔽体質をより強めることになる」という、反原発運動への敵視を顕わにしているのである。
同報告書では、「原子力ムラ」に関する「歴史的・構造的」分析による検証なるものもかなりのスペースをとって記述している。このことについても筆者なりの検討をしてみたいと思っている。
(つづく)
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