アフリカ北西部のマリでは3月にクーデターが起き、不穏な状態が続いている。「3月21日(水曜日),一部の国軍兵士らが騒乱を起こし,国営TVラジオ局を占拠,大統領宮殿を襲撃した。翌22日(木曜日)朝,「民主主義再建・国家復興のための国会委員会(CNRDRE)」を名乗る国軍兵士は,国営テレビを通じ国家の指揮権の掌握と憲法停止を発表した。」(外務省)
http://topics.nytimes.com/top/news/international/countriesandterritories/mali/index.html ニューヨークタイムズ(NYT)のマリに関する記事のリストによると、選挙で選ばれたトーレ大統領は4月に憲法に基づいて選挙を行う予定だった。ところがクーデターを起こされたのである。だから、NYTは一連の民主化を求めた「アラブの春」の出来事の中で、マリのケースは異例だと位置づけている。カダフィ軍の兵器と兵士が多数サハラ砂漠を渡ってマリにやってきたとされる。マリはカダフィ時代に多額の支援を受けており、カダフィの死後はカダフィの肖像を国のビルに飾っていた。
クーデターを起こしたのはマリ軍のランクの低い士官と兵隊たちで、CNRDREと名乗っている。彼らはマリ政府がトゥアレグ族の反政府運動を制圧できていないことに反感を抱いていた、と占拠したばかりの国営放送局を通じて語ったとされる。
しかしながら、外務省のウェブサイトによると、クーデターに乗じて、トゥアレグ族の武装集団MNLA(アザワド解放国民運動)が北部地域の独立を宣言した。世界遺産の都市トンブクトゥを制圧したのがMNLAである。一方、クーデターを起こした軍人たち(CNRDRE)は周辺国による制裁を免れるため、調停に応じたようである。
朝日新聞によると、CNRDREのリーダー、サノゴ大尉は「軍はまともな武器も訓練も受けていない。リビア帰りで重装備の反政府勢力と戦うのは自殺行為だ」と語った。クーデターを起こした軍人たちはそれに乗じて北部一帯に広がったトゥアレグ族の反政府勢力を制することができなくなったようである。こうした状況が、クーデターを起こしたCNRDREが周辺諸国との調停に応じることになった背景にあるのだろうか。以下は外務省の情報である。
「騒乱発生直後より,西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)は首脳級,閣僚級での調整努力を継続したが,CNRDRE側は具体的な措置を実施しなかったため,4月2日(月曜日)のECOWAS臨時首脳会合で,対マリ制裁発動を決定。
ECOWASはブルキナファソ外相を団長とする代表団をマリ・バマコに派遣し,CNRDRE側との交渉を継続,4月6日(金曜日),憲法秩序回復に向けた枠組み合意が署名に至った。
首都バマコでの騒乱発生に乗じて,マリ北部でトゥアレグ族の武装集団「アザワド地方解放国民運動(MNLA)」が複数の都市を制圧,4月6日(金曜日)にマリ北部地域の独立を宣言した。
CNRDRE側とECOWASとの間での合意文書署名を受け,4月7日(土曜日)には,トラオレ国民議会議長が滞在先のブルキナファソより帰国,トゥーレ大統領が辞任した。今後,トラオレ議長が憲法の規定に従って暫定大統領に就任し,暫定政府が発足する見込み。」(外務省)
■トゥアレグ
「トゥアレグ (Tuareg) またはトゥアレグ族は、ベルベル人系の遊牧民。アフリカ大陸サハラ砂漠西部が活動の範囲である。(中略)1992年頃から、ニジェール北部を中心に反政府武装闘争の活動が活発化、外国人観光客を襲撃するなどの武装闘争を展開した。ただし、大規模な拡大には至らず政府と和平協定を締結。2002年には武装解除されたと伝えらたが、再び武装闘争を再開。現在の活動範囲はニジェールだけでは無く、マリ、チャド、モーリタニアにまで及んでいる。2011年リビア内戦に参加し軍事力を蓄え、2012年1月に開始した独立紛争はマリ軍事クーデターを引き起こした。4月6日にマリにおける支配地域の独立を宣言。」(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%B0 ■カプシチンスキ「黒檀」より
「トゥアレグの人口は、およそ50万とも、100万ともいわれる。無頼放浪の民、世間との接触を持たず、秘密に満ちた暮らし。そのせいで、これまで人口調査の行われたためしがない。彼らは、人の近づけぬサハラで、物理的ばかりでなく、精神的にも、閉ざされた世界に孤立して生きる。外部の世界には無関心である。ヴァイキングのように外洋に乗り出そうとも思わねば、ヨーロッパやアメリカへの観光旅行も論外だ。トゥアレグに誘拐されたあるヨーロッパ人旅行者が、「わたしはニジェールに行きたいんだ」と言った。すると、相手は納得せず、「なぜニジェール川へ?お前の国には川がないのか」と訊き返された。半世紀以上に及ぶフランス人によるサハラ支配にもかかわらず、トゥアレグはフランス語習得の気をまったく持たなかった。デカルト、ルソー、バルザック、プルースト、そんなものには見向きもしない」
■「砲火にさらされる文化」 イリナ・ボコバ氏(ユネスコ事務局長)のNYTへの寄稿
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201204100113052 ■NYTビデオ映像より マリのモスク(世界遺産)
http://video.nytimes.com/video/2011/01/09/world/africa/1248069543637/the-great-mosque-of-djenn.html?ref=mali
■トゥアレグのバンド、ティナリウェン
旅人を迎える時、お茶をわかす。北アフリカのマグレブ地方でも同じである。しかし、日本と違うのは大地にもっと近いことだろう。お茶を入れてくれる手さばきは見事である。
この茶飲み歌はベルベル人の一種であるトゥアレグ族のバンド「ティナリウェン」(Tinariwen)による。もしここが平原だったら・・・もし私が鳥のように空を飛べたら・・・。「私」は一目見た「彼女」への恋の苦しみを訴えながらお茶を飲む。その一杯は「私」の心を焦がしたと歌う。「彼女」は「私」に話しかけたが「私」は答えられなかった。でも、今度会ったら、きっと答えるだろう・・・人間の豊かなリズムを思い出させてくれる歌である。ベルベル人の文化を伝えるAgrawというウェブサイトから。
http://www.agraw.com/2012/01/tinariwen-iswegh-attay/
■ティナリウェンの公式サイト
http://www.tinariwen.com/ マリ北部のサハラ砂漠出身。このバンドが結成されたのは1979年ごろ、リビアにあった難民キャンプの中だったとウィキペディアに記されている。ティナリウェンは5枚目のアルバム「Tassili」で昨年、グラミー賞(54回目)を受賞した。
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