90年代の初頭、オーディ・ボックというアメリカ人の日本映画研究者が日本の学校で日本映画を講じていた。黒澤明の自伝「蝦蟇の油」の英訳者であり、成瀬巳喜男や黒澤明、市川昆、大島渚など日本の映画監督を論じた「Japanese film directors」という著作もある。日本語も堪能で、若い頃はNHKの英語講座で講師をしていたこともあるようである。
ボック先生は映画のシナリオを書くためのシナリオ講座に関して、日米で教え方に基本的な違いがあると言っていた。彼女によれば日本では学生に自由に書いて来いと言う。基本的に自由に書かせるのだ。一方、アメリカの大学のシナリオ講座の場合は、西部劇や恋愛もの、ホラー、サスペンス、ミステリ、戦争映画など、映画のジャンルごとに典型的な書き方を型として叩き込むそうである。一見、型を教えるのは日本、自由にものを作るのがアメリカという先入観があったので、驚いたのだったが、実際にはボック先生が指摘していたように日本のシナリオ教育では基本的に学生に自由に書かせる。
これは「個性」と「技術」についての考え方の違いなのではないか。日本のシナリオ教育では学生の天才に期待している。しばしば若いライターが感性で書いて賞を取る。「しなやかな感性」などと評価される。しかし、その後はというと技術が伴わないために一発屋で消えていく人も少なくない。 一方、アメリカの場合は個性というものはそもそも教室で教えるものではないのだろう。教えるのは技術なのである。だから、シナリオ講座を卒業すればどんな型のシナリオでも一通り書けるようにそれぞれの構成法を教えると言うのである。
シナリオを学ぼうと言う人は、もちろん中高年も存在するが、一般的には若い人が多い。しかし、若いということは経験が絶対的に不足している。だから、自由に書くとなると自分の乏しい経験のストックをもとに書こう、ということになりがちである。育った家庭で特殊な経験をしていた学生の方が面白い話を書く素材を持っているということにもなる。しかし、10代までの家庭生活を素材に、面白いシナリオが書けたとしても一回性で終わるリスクが高い。
自分が体験していない事柄でも、リサーチをかけたり、想像力を使ったり、人に話を聞いたりといった作業をすることで書くことができるし、実際にプロのシナリオライターは皆そうしているわけである。その作業で書き手の視野が格段に広がるし、多くの観客の人生につながるための回路も開ける。しかし、そうしたベーシックな作業の基礎を教える代わりに「自由に書いてきなさい」というのである。
この「自由に書きなさい」という一見、自由な教育法が皮肉にも学生を狭い「自己」に押しこめ、学生の想像力を狭める結果につながっている、ボック先生の指摘はそんなことを示唆しているように思われる。戦争ものを書いてきなさいと課題を出されても軍隊経験のないライターは調査をしたり、経験者に体験を聞いたりするほかない。西部劇も、ホラー映画もしかりである。そうしたジャンルの器の中に、自分の感性を込めればよいのだろう。
■オーディ・ボック(Audie Bock)
ウィキペディアによると、’Audie Elizabeth Bock (born October 15, 1946) is an American film scholar and politician who served in the California State Assembly from 1999 to 2000.’ 父親がパラマウント映画の仕事をしていた関係で来日し、日本語を学んだようである。黒澤明は自伝、「蝦蟇の油」の中で、彼女は自分の映画については自分よりも詳しいといった内容のことを書いている。日本映画学校(現在の日本映画大学)講師のほか、ハーバード大学でも映画を講じた。帰国後は政治活動もはじめ、緑の党から立候補し、カリフォルニア州の議員となったほか、カリフォルニア州知事選にも立候補した(この時、選出されたのがシュワルツェネッガーである)。
■オーディ・ボック著「ジャパニーズフィルムディレクターズ」
http://www.amazon.co.jp/Japanese-Film-Directors-Audie-Bock/dp/0870117149
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