「反原発」の運動や著作は最近増えてきた。このことは歓迎したいが、どこか物足りない印象も拭えない。なぜなのか。それは「原爆と原発」を一体として捉え、論じなければならないという視点が弱いからだろう。その点、最近の著作『原爆と原発』が「原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」として「共に全廃すべきだ」と力説しているところを大いに買いたい。 原発推進派の原発への執着ぶりも目に余るが、その執拗さを打破するためにも「共に全廃」という視点が不可欠とは言えないか。
落合栄一郎(注)著『原爆と原発』(2012年5月、鹿砦社・ろくさいしゃ刊)を読んだ。副題に「放射能は生命と相容れない ― 原爆・原発は人類の過ち、全廃に向けて猶予は許されない!」とある。本書の特色は「原爆と原発」を一体として論じているところにある。 (注)落合氏は1936年生まれ、東京大学助教の後、海外へ。カナダ、アメリカの大学などを経て、カナダ・バンクーバー9条の会(日本国憲法9条の理念を生かす会)などに関与。数年来、「持続可能性」、「平和」、「原発」、「文明」の基本問題についてインターネット紙「日刊ベリタ」に寄稿(約200稿)している。
『原爆と原発』の大要を以下、6項目に分けて紹介し、それぞれに<安原の短評>をつける。
(1)化石燃料や原子力は今後1世紀はもたない 化石燃料にしろ、ウランにしろ、その地球上での存在量は有限である。すなわち使えばなくなるし、再生することはできない。それがいつ枯渇するかは、人類の使用速度と存在量に依存するが、遠くない将来になくなることは目に見えている。 現在の経済体制、企業体制としては、なるべく儲かる化石燃料や原子力を使っていたい。しかし長く見積もっても今後1世紀はもたないだろう。このことは、現経済体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えないようであるが、自明のことである。
<安原の短評> 意図的盲目症 「化石燃料や原子力は今後1世紀はもたないことは、現体制の枠組みに取り込まれている人たちには見えない」という指摘は的確である。真実を認識すれば、そこに責任を伴うことになる。だから日本のリーダーの多くは、事実(真実)を観ようとはしないのだ。意図的盲目症に陥っている。
(2)核兵器生産を継続する経済効果 冷戦時代の核兵器は抑止効果が主目的であったが、冷戦は一応解消し、ロシアも中国も、経済的には欧米と対立する体制ではない。すなわち政治的には核兵器の必要性は薄らいだ。しかし大国の核兵器の実質的削減は、始まっていない。大きな要因は、核兵器産業への経済効果である。特に大規模兵器は、国家機関が国民の税によって買い取るものであり、国家が安泰であるかぎり、取りはぐれはない。 こうした権益を軍需産業が手放すのを渋るのは当然であろう。現在の新自由主義に毒された市場経済では、金融などを支配する大企業家が政治世界を動かす立場にある場合が多く、例えばアメリカでは大企業、特に金融企業が政治の中枢に食い込んでいる。
<安原の短評>軍需産業の権益 なぜ核兵器の実質的削減が進まないのか。軍需産業がその権益を手放そうとしないからである。その元凶は例の「軍産複合体」の存在である。国民の税金によって軍需産業の権益が保障される限り、戦争勢力としての「軍産複合体」の肥大化はつづく。「軍産複合体」に解体の大鉈(なた)を打ち込むのはいつのことか。
(3)「原子力=悪」のイメージ払拭と原発設置に加速 戦後の日本人には、原爆の恐ろしさの体験から、「原子」の言葉に拒否反応する「原子(または核)アレルギー」なる症候が蔓延していた。そこでアイゼンハワー米大統領は、1953年12月8日(太平洋戦争開戦記念日)に国連で、演説「平和のための原子」を行って、「原子力=悪」のイメージ改善に努めた。 ところがその直後、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に日本漁船が遭遇し、死の灰をかぶり、船員一人が死亡、日本人の「反原子」感情はかき立てられた。このためアメリカ政府は、「原子力の安全神話」を吹聴した。しかも1973年に始まる「オイルショック」(中東産油国での原油産出制限と石油価格急騰)で危機に瀕した日本では、原子力発電設置が加速された。
<安原の短評>「経済成長」が錦の御旗 原子力は危険だからこそ、その安全神話をことさら吹聴する必要があった。しかも1973年に始まる「オイルショック」が原発推進派にはまたとない追い風となった。「経済成長」が錦の御旗として高く掲げられた。つまりは経済成長のための原発であり、だからこそ原発批判の声はかき消されるように小さくなっていった。
(4)原発はどうしても必要と言えるのか 原発のべネフィット(利益)は、コストよりも大きいだろうか。ベネフィットの価値を決めるのは、代替エネルギーがないこと、原発がなければ日本は生きられないこと ― なのかどうかにかかっている。2011年夏の電力需要ピーク時に、不足の事態が起きる可能性があると、電力会社は主張した。 しかし企業や消費者の努力もあって、全原発のうちわずかに25%ぐらいしか稼働していなかったにもかかわらず余力を残して乗り切った。2012年5月には稼働原発はついにゼロ基になったが、日本中で停電などは起きていない。これでも原発はどうしても必要といえるのか。
<安原の短評>稼働原発はゼロに 原発再稼働に執念を抱く原発推進派は、電力不足を声高に叫び、電気料金値上げまで持ち出している。自制心という正常な神経とは無縁らしい。しかし稼働原発は5月以来目下、ゼロになっているが、停電は起きていない。国民の間にも節電の心構えは広がっている。節電に困るのは国民ではなく、むしろ電力会社ではないのか。
(5)原発廃棄で大多数の国民の生活は 原発廃棄は、電力会社と、その権益に与(あずか)る政治家や「原子力村」に群がる官僚や学者たち、交付金に潤う地元の自治体、それによって雇用を得ている人々にとってのみ不利なだけであろう。 大多数の国民には大した不利益をもたらさないどころか、より安心な生活ができるようになろう。したがって地元の経済・雇用の機会の増大などの施策を充分に施すこと、例えば自然エネルギー開発へカネを注ぐことによって経済活性化、雇用増大を実現することによって、原発廃棄の不利を克服すべきである。
<安原の短評>より安心な生活へ 「原発廃棄は、大多数の国民にはより安心な生活ができるようになる」という指摘は重要である。もちろん原発廃棄のままでよいわけではない。新エネルギー源として再生可能な自然エネルギー(太陽光・熱、風力、地熱、小型水力など)の開発活性化が不可欠である。そのためにこそ知恵と技術力と資金を有効活用したい。
(6)原爆と原発は地球上の生命と相容れない 原発を維持する隠れた理由の一つに、それがいざという場合に核兵器製造に転用できる可能性があることだ。原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない上に、人類全体にとって経済的にも、環境の面からも望ましくないし、必要もない。 なるべく早く原爆も原発も地球上から抹殺すべきである。特に日本の場合には、地震その他の天災、施設の老朽化などの理由により、現存原子炉はすべて安全な状態に速やかにもっていく必要がある。
<安原の短評>原爆も原発も全廃へ 「原発は核兵器製造に転用できる可能性がある」という示唆に着目したい。この点は専門家には知られていることだが、日本では「原爆は悪」、しかし「原発は善」という誤解が広がっていた。この誤解を吹き飛ばしたのが「3.11」の原発大惨事である。「原発は原爆同様、地球上の生命と相容れない。だから共に全廃へ」という認識を広く共有したい。
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載。
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