・読者登録
・団体購読のご案内
・「編集委員会会員」を募集
橋本勝21世紀風刺絵日記
記事スタイル
・コラム
・みる・よむ・きく
・インタビュー
・解説
・こぼれ話
特集
・国際
・農と食
・教育
・文化
・アジア
・入管
・中国
・市民活動
・米国
・欧州
・みる・よむ・きく
・核・原子力
・検証・メディア
・反戦・平和
・外国人労働者
・司法
・国際
・イスラエル/パレスチナ
・市民活動告知板
・人権/反差別/司法
・沖縄/日米安保
・難民
・医療/健康
・環境
・中東
提携・契約メディア
・AIニュース
・司法
・マニラ新聞
・TUP速報
・じゃかるた新聞
・Agence Global
・Japan Focus
・Foreign Policy In Focus
・星日報
Time Line
・2024年11月22日
・2024年11月21日
・2024年11月20日
・2024年11月18日
・2024年11月17日
・2024年11月16日
・2024年11月15日
・2024年11月14日
・2024年11月13日
・2024年11月12日
|
|
2012年06月30日15時00分掲載
無料記事
印刷用
ロシアン・カクテル
(37)エリセーエフスキイ食料品店とジャパノロジーの縁 タチヤーナ・スニトコ
国々は人の運命で結ばれています。 ロシアの二つの都であるモスクワとサンクトペテルブルグの中央通りには華やかで荘厳なエリセーエフスキイ食料品店という商店があります。ここは金色の飾り、浮彫装飾、240個の葡萄の房の形のシャンデリア等々の装飾に飾られています。この商店は19世紀末にロシアの大富豪であり貴族の称号を許された商人であるグリゴーリ・エリセーエフが創業した有名なエリセーエフスキイ食料品店です。
グリゴーリ・エリセーエフ の5人の息子の一人は世界における東洋学の創始と発展にユニークな役割を果たしました。
父と息子エリセーエフはそれぞれ異なる理由でロシアを離れました。父のエリセーエフは新しい恋に落ちて、最初の奥さんと離婚して、莫大な財産と会社を家族に残して、新しい妻とパリに移りました。
息子がロシアを離れた理由はロマンチックなものではありませんでした。ボリシェヴィキ時代の1919年〜1920年にチェカ(秘密警察組織; 露: ЧКチェカー)により「父の代わりに」逮捕されて、10日間刑務所に拘留された後、解放されたけれども、その後チェカは又再逮捕すると威しをかけました。それでセルゲーイ・エリセーエフは1920年に密輸業者のフィンランド人のボートで海を渡り、ペトログラード(現サンクトペテルブルグ)からフィンランドに脱出して、パリに移りました。
その後,アメリカに渡り(1932年)、セルゲーイ・エリセーエフは23年間ハーバード大学で教授として東洋学研究をしながら、本格的なジャパノロジーの始祖となりました。
エリセーエフは東洋文化をドイツのベルリン大学と日本の東京帝国大学国文科で学びました。セルゲーイ・エリセーエフは東京帝国大学での初めての外国人学生(1908-1914)となりました。(エリセーエフは日本語で「英利世夫」と自称していました。)
セルゲーイ・エリセーエフはアメリカの東洋学研究の“ファザー(父)”と言われ、西洋での最初の日本文化研究家と見なされています。彼の門下からは多くの優秀な東洋学者が巣立ちました。後に駐日大使として日米関係に重要な役割を果たしたエドウィン・ライシャワー氏は、その中でも最もエリセーエフから嘱望されていました。
モスクワかサンクトペテルブルグに行った際は、是非エリセーエフスキイ食料品店を訪れることを推奨します。
不思議なことに、この店では国々と人々の縁を語ります・・・ 更に付け加えますと、エリセーエフスキイ食料品店で販売されているケーキはとびっきり美味しいのですよ!
|
転載について
日刊ベリタに掲載された記事を転載される場合は、有料・無料を問わず、編集部にご連絡ください。ただし、見出しとリード文につきましてはその限りでありません。
印刷媒体向けの記事配信も行っておりますので、記事を利用したい場合は事務局までご連絡下さい。
|
|
エリセーエフスキイ食料品店
1906年のエリセーエフスキイ食料品店
セルゲーイ・エリセーエフ
|