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2012年08月13日14時28分掲載
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文化
【核を詠う】(62)占領下の広島で原爆の惨禍を詠った詩歌集『黒い卵』(栗原貞子)の短歌を読む(2)「焼け跡の瓦礫の中ゆいく千のいまはの際の悲しかりけん」 山崎芳彦
8月6日の広島、9日の長崎それぞれで今年も平和記念・祈念式典が開かれ、原子爆弾の被爆者が受けた悲惨な犠牲の実態を訴えつつ、核兵器の廃絶を世界に訴えると共に日本政府が原爆被爆者に対するより正当な補償の対策を講ずることなどを求めた。同時に、福島の原発事故に関連して「核と人類は共存できない」(広島)、「放射能におびやかされることのない社会を再構築」(長崎)を、それぞれ宣言のなかで昨年に続いて表明していることは、「脱原発」の言葉が入っていないとの指摘もあるが、一昨年までには取り上げられることのなかった原発、「核の平和利用」に対する否定、少なくとも重大な懸念の意思を表明したものとして受け止めてよいと思う。
核の軍事的利用の廃絶とともに、人類と共存できない、放射能の放出を絶対に避けられない核の利用の廃止が、いまや人類の課題になっていることの表明であろう。確かに、脱原発の言葉が宣言に盛り込まれなかったことに対する評価はさまざまだが、筆者は「核兵器廃絶」から「核の廃絶」に向う運動と、社会変革の大課題に関して、広島、長崎の平和宣言に脱原発・反原発の言葉があるかないかを論議するより、その宣言の基調をなす「反核」の精神を積極的に捉え、全国的な運動の中で確かなものにしていくことが求められていると受け止めた。広島市がまとめている資料「平和宣言の歴史」を見ても原発に言及したのは昨年からのことである。
長崎市の「平和宣言解説書」でも「高レベル放射性廃棄物」を取り上げ、宣言のなかで言及している「原子力所が稼働するなかで貯めこんだ膨大な高レベル放射性廃棄物の処分も先送りできない課題」と対応させている。
ヒロシマ、ナガサキ、フクシマの被害が、原子力の軍事的利用・「平和利用」によって、その形態は違っても、核の利用によるものという本質において共通しており、これは、原発列島日本を存続させるかぎり、私たち自身の核被害の必然ともいえる可能性も避けられないことを、認めなければなるまい。これまでも繰り返し書いてきたが、原発も原爆も本質的に「人類と共存できない」核に由来する同根のものであることは、多くの先達たちが明確に明らかにしてきているところである。
これまでの核廃絶運動において、「平和利用」の名のもとに原発が拡大され(「核兵器を日本がいつでも持てる、作れる能力を持つ」意図も持って)稼働していることについての明確な位置づけ、その廃止を運動の前面に据えて来たとは言いがたいのも実情であろう。今、軍事はもとより民生用も含めた核廃絶の方向の構築を確かなものにすることが、運動の課題となっていると考えている。
この二つの大会に出席しあいさつを行った野田首相の欺瞞に満ちた言辞は聞くに堪えないものだ。米国の「核の傘」を認めることと核兵器の廃絶が両立するはずもないし、原発の存続、さらには外国への輸出、停止している原発の再稼働「決断」をしながらの、「核兵器のない世界」「脱原発依存の基本方針の中で中長期的に国民が安心できるエネルギー構成の確立」などの言葉のむなしさは、彼のしばしば語る「総理としての決断」「政治生命をかける」政治の内容の、その実態によるものだ。まことに許し難い「日本国首相」の虚言を糾弾したい。
詩人・歌人・運動家として、その長い生涯を反戦、反核、社会の変革のために捧げ続けた栗原貞子さんは、2005年3月に逝去するまで真摯に生きつづけ、闘い続けた。1913年に広島で生まれた彼女(旧姓土居)は、18歳にして、平民社の運動に参加し軍国主義政府・官憲に危険人物として監視されていた栗原唯一を知り、両親・家族の強硬な反対のなか、結婚し、以後、戦前戦後を通じてともに反戦の闘いをし、1945年8月にともに広島で原爆に被爆し苦しい境涯に置かれながらも、被爆直後から広島の文化運動に取り組み、12月に「中国文化連盟」の結成に大きな役割を果たした。そのなかで詩作や作歌に励み、1946年8月に早くも詩歌集『黒い卵』を自家版として出版したのだが、米軍の厳しいプレス・コードによる検閲を受けざるを得なかった。
1983年に至って、『黒い卵』の全容を復刻した「完全版」が人文書院から発行され、栗原さん自身の手になる詳細な解説が付され、占領下の検閲の実態などが詳しく明らかにされている。
この連載では栗原さんが編集者となった『日本の原爆記録17−原爆歌集・句集 広島編』により『黒い卵』の短歌作品を読んでいるが、完全版には原爆にかかわる作品以外にも多くの短歌が収録されている。しかし、それは原爆投下以前の作品なので、一部(▼降伏、▼新聞記事)以外は収録しないことにした。「完全版」も現在では絶版で、古書店にも在庫は少ない。機会があれば,同書の子短歌作品を取り上げたいと思う。
「黒い卵」(抄)の原爆短歌(2)
▼降伏 誇ることのみ忙しかりし国人ら今はしずかに思い見るべし
痛みには耐えて起つべし監視機の編隊の下に唇かみぬ
急降下する巨大なる機体まざまざ〜に米国のしるし正眼には見つ
超低空にとびゆく機体大空ゆどよもしてさと過ぎて行きたり * 「降伏」の四首は、事前検閲ではパスしたが、私家版では自己削除した。
▼焼け跡の街(一) 焼け跡の瓦礫の街を吹く風のそう〜として秋深むらし
焼け跡の瓦礫の中ゆそここゝにバラック建ちて煙のぼれり
バラックの焼けしトタンの屋根ぬらし時雨冷たく通りて去りぬ
消火ポンプ丹の色鮮やけきまゝにして焼けあとの道路にころがりたるも
おのも〜妻子うからとむつみいし家屋はなべて瓦礫となれり
焼け跡の瓦礫の中ゆいく千のいまはの際の悲しかりけん
いく千のいく万の人爆発のそのたまゆらのすべなかりけん
もろ〜の悲しみも秘めて焼け跡の瓦礫の街に秋の雨降る (20年10月12日 牛田に行く途中よめる)
▼焼け跡の街(二) 焼け跡の庭園(にわ)にひっそり白粉花咲きさかりおれ人影のなき
焼け跡の瓦礫のひまゆ朝顔のつゆけく咲けり冬近き日を
焼け跡の瓦礫のひまゆ青き菜の一株ゆたかに葉をしげらしむ
焼けあとの樹々の木肌はくすぶれりその枝々は芽を拭きにけり
焼けあとのバラック街ゆおの〜に畑作りて既に青きも (20,10,27)
▼焼けあとの街(三) 時雨止み又時雨して焼けあとのバラックにさむき冬の来たりぬ
バラックに榾火(ほたび)は燃えてあか〜と夕つどいて飯はめる見ゆ
さび色に焼けし金物ころがりて瓦礫の街を夕陽照らすも
焼け跡の瓦礫の街ゆ一人ゆけば後より誰か追いて来るがに
ありし日は松風吹きし松林幹のみ黒くやけてのこりぬ
▼新聞記事 餓死、浮浪、行路病者と陰惨な文字も出でぬ今日の新聞
餓死、浮浪、行路病者と相待ちて産米不良の声の高きも
餓死、浮浪、行路病者と次々に出でてきびしき冬近づけり
以上『黒い卵』の原爆にかかわる短歌作品を読んできたが、厳しい検閲制度の中で、原爆投下翌年に発表した作品だが、栗原さんの文学精神、人を愛し、社会の現実に正面から向かい合い、抒情性と叙事性を兼ね備えた作品の特徴が、おそらくはプレス・コードの制約によるぎりぎりの「自己規制」を余儀なくされた中での作品にも、うかがわれる。
栗原さんの作品は、長い間未発表だったものも多いが、広島女学院が「栗原貞子記念平和文庫」を同大学図書館内に開設している。栗原さんの長女真理子さんから寄贈された、肉筆原稿、ノート、詩集、書簡、蔵書、雑誌類、平和団体の機関誌、パンフレットなどを管理している。また同文庫開設を記念して小冊子『生ましめんかな』を作成し、同文庫の意義や未発表作品の掲載をしたが、既に在庫がなくなっている。しかし、同文庫は希望すれば閲覧可能といわれるので機会があればと考えている。
ところで、栗原貞子さんの数ある詩作品のなかでも「生ましめんかな」は、吉永小百合さんの朗読詩にも入っていて、広く知られているが、この詩について栗原さん自身が解説している文章が、栗原さんと親交のあった詩人の石川逸子さんの著書『ヒロシマ・死者たちの声』に収録されている。
「生ましめんかな」(1945年9月、『黒い卵』完全版所載から。行分けの/については筆者責)の詩と、その栗原さんの解説について記しておきたい。
「生ましめんかな」 こわれたビルデングの地下室の夜だった。/原子爆弾の負傷者達は/ローソク一本ない暗い地下室を/うづめて、いっぱいだった。 生ぐさい血の匂い、死臭。/汗くさい人いきれ、うめき声/その中から不思議な声がきこえて来た。 「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。/この地獄の底のような地下室で/今、若い女が産気づいているのだ。 マッチ一本ないくらがりで/どうしたらいいのだろう。/人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 と、「私が産婆です。私が生ませましょう」/と云ったのは/さっきまでうめいていた重傷者だ。 かくてくらがりの地獄の底で新しい命は生まれた。 かくてあかつきを待たず産婆は/血まみれのまま死んだ。 生ましめんかな/生ましめんかな 己が命捨つとも
この詩について栗原さんは 「まるで地域全体が死にとりかこまれた状態の中で私は『赤ん坊が生まれた』という話をきいて激しい感動に心をゆすぶられ、家に帰って一気に書いたのが『生ましめんかな』の詩です。 一体暗い地下室で生まれた赤ん坊とは何だったのでしょうか。暗い地下室とは、日本が仕掛けたアジア侵略の十五年戦争の暗い時代を意味しています。その十五年戦争の末期にアメリカが広島に原爆を投下し、原爆の廃墟の中から世界の平和を求めてやまないヒロシマが生まれたのです。赤ん坊とはヒロシマだったのです。 では暁を待たず血まみれのまま死んだ産婆さんとは、何を意味しているのでしょうか。それは八月十五日の平和の日が来るのも待たないで死んでいった二十万の被爆者を意味しています。二十万の被爆者が死ぬことによって、世界の平和を求めてやまないヒロシマが生まれたのです。そうであるならば、私たちはどんなに苦しくても二十万の死を無意味にしないため、ヒロシマを育て世界から核兵器をなくし、戦争のない世界をつくらねばなりません。『生ましめんかな』の詩は人類が核時代を乗り越えて生きのびるための生命と平和への礼讃と願望を書いた詩であります。」
と、「反核詩画集『青い光が閃くその前に』と定子さんは解説している」ことを、石川逸子さんは記している。
栗原さんの「生ましめんかな」は一九四六年三月の「中国文化連盟」の機関誌『中国文化』(原子爆弾特集号)創刊号で発表されたのだった。栗原さんは詩作し、作歌をし、文化運動、反核反戦、平和運動に生涯取り組み続けたが、核廃絶の本道が「核抑止力」の名目で遮られ、核時代の終焉が見えないまま、核の「平和利用」の欺瞞による原発が広がり、スリーマイルやチェルノブイリの原発事故などが起きたことに強い憂慮を持ち、その犠牲者への悼み、悲しみと怒りを持ち続けたという。
彼女が福島原発事故を知り、この国の政府や財界の原発維持の方針を知れば、どのように詠い、詩を作り、行動するだろうか。七年前に逝去した彼女が、原発列島化したこの国の現実を知らなかったはずはなく、深く危機感を持っていたと思われる。
『黒い卵』の栗原さんの手になる抄出歌を読んできた。次回も、原爆短歌を読みたい。
また、短歌界でも、原発短歌を積極的に詠もうとする気運も高まっている。原発短歌もさらに読み続けたい。 (つづく)
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