人間は文化の中で生まれ、文化の中で育ち、自分の所属する文化が“ごく自然”で当り前のことだと思うのです。異文化に出会いのその存在に気付いた時に初めて、自己の文化がその異文化と違うことについて考えがいたるようになり、自己文化の特徴や特殊性に気付くようになるのです。
ところで、異文化理解というのは、「“何”が訳されているか」、「“何”が研究されているか」、「如何なる本が出版されているか」にかかっています。別の言い方をすれば、日本人とロシア人の異文化理解というのは、日本人のロシア文学者とロシア人の日本学者の興味(関心)に少なからずかかっているのです。
では、どんな作品を翻訳するかは一体誰が決めるのでしょうか?又は翻訳しないことは誰が決めるのでしょうか?多くの場合は翻訳者自身でしょう。 一例を挙げると、ある日本人のロシア文学者は、「ウラジーミル・ヴィソツキー(ВладимирВысоцкий)の作品は日本人の関心を引かないと思う」という意見を述べました。その理由は、“日本人はヴィソツキーの名前を知らない。ヴィソツキーの作品は日本では翻訳されていないし又今後翻訳の予定もない”ためであろうと私は感じました。
ヴィソツキーという人は、詩人であり作家であり芸能人・俳優でありギターを引きながら自作の詩を歌うロシアの20世紀を代表する人の一人でありロシア人からとても愛されている人なのです。20世紀のロシア文化には「ヴィソツキー時代」があり、とても意味深いヴィソツキーの作品を通じて日本人はロシアのこと・ロシア人の心についてきっとより理解を深めることができるようになるであろうと思われるのです。
ロシアにおける東洋学・日本学について考えると、類似の不完全翻訳例もあるでしょうけれども、ロシア人の日本学者のお陰で、日本文化に興味があるロシアの人たちは最重要の日本文化作品に触れることができていて幸運なことだと言えます。例えば、世界文学史を変えた源氏物語の訳は露訳もあります。露訳は英訳(初訳は1882;源氏物語が世界に知られるようになったのは、1925年にイギリスのアーサー・ウェイリー(Arthur Waley)の英訳The Tale of Genjiによる)より遅い1992年になったのです。(露訳:タチアナ・ソコロヴァ・デリーュシナТ.Л. Соколова-Делюсина)。
万葉集の訳(翻訳者:グルースキナА.Е.Глускина)は“短歌・俳句ムード”で溢れているロシア語の“白詩”(リズムがない詩、vers libre)となりました。勿論、俳句独自の日本文化的“意味の深層”を訳するのは不可能なことなのですが、その“不可能さ”のために“白詩”というジャンルの中で新しいジャンルが生じました。そのジャンルの特徴は、細部に注目して、著者(詩人)の感情を描写することなのです。(ロシアの俳人たちには幾つかの雑誌やインタネットのホームページページ“haiku-do.com”があり俳句のコンテストが行われています。)
古事記、日本書紀、古今集、新古今集、和歌などの作品はロシア人の東洋学者の研究・翻訳のお陰で知られるようになりました。
日本ではほとんど知られていないのですが多くのロシア人の東洋学者が「東洋文化に興味が持ったがため」に命を失いました。それを私は学生時代にモスクワにある現ロシア国立図書館(当時のソ連時代の名称は国立レーニン図書館)に「易経」を読むために行った際に初めて知りました。「易経」を読むためには事前登録が必要でした。又、その時は本ではなくフィルムを閲覧することになりました。何故ならば、「易経」の本は“珍品”だったからなのです。
ロシアでは「易経」は1960年に出版されましたが(1600発行部数)すぐに“珍品”となってしまいました。「易経」の翻訳は20年以上前のことでした。露訳したのは1928年に来日して研究に従事したユリアン・シュツキイ(Юлиан Константинович Щуцкий)でした。シュツキイは4カ月間ある大阪の寺院に滞在して、日本独自の漢学の中の「易経」の解釈を勉強しました。日本滞在中には、シュツキイの一つの原稿はある雑誌に掲載されました(残念ながら、それは何という雑誌であったのか私はまだ特定できていません)。
1937年8月にシュツキイは逮捕され、「暴力主義のメンバー」であると判断されて1938年2月に銃殺されました。判断の“根拠”は「日本滞在中における日本の学者との関係及び日本の雑誌に掲載された原稿」の為でした。
アレクセイエフの友人である有名なロシアの日本学者ニコライ・コンラッドは1938年に逮捕された。 最もアレクセイエフから嘱望されていたボリス・ワシリエフとユリアン・シュツキイは1938年に銃殺されました。 http://old.novayagazeta.ru/data/2008/gulag06/09.html
スターリン時代には“日本のスパイ”キャンペーンがありました。東洋言語を知る人々は“スパイ”だと宣言されました。旭日章を授与されていたニコライ・コンラッドは1938年に“日本のスパイ”として逮捕された。彼は拷問を受けました。冬期に極寒のシベリアで森林伐採の強制労働をさせられました。そしてソ連時代の強制労働収容所内の秘密研究所(шарашка)で強制労働をさせられましたが生き残りました。ところで、コンラッドは1924年に源氏物語の部分翻訳をしました。又、シュツキイ訳の「易経」(1960年出版)はコンラッド監修でした。
素晴しい心の持主で著名な学者であったニコライ・ネフスキイ(Николай Александрович Невский; 東北・沖縄の民族、アイヌ語、宮古島方言、西夏語などの研究)は妻の萬谷磯子と共に1937年11月24日に銃殺された。その日にネフスキイの友人である(上の写真に左から二番目)ワシリエフも銃殺されました。
現在のロシアでは、日本との政治上の大きな問題があるにもかかわらず、日本に対しての興味は増している。現在は、ロシアと比較すると、日本でのロシアに対しての興味は比較的低いけれども、興味は“ある”と思われます。それは、アコーディオニストの後藤ミホコや石橋幸(遠くて近い歌、ロシア・シャンソン)やうたごえ喫茶 “ともしび” (新宿)で感じることができます。
ロシアにおける日本語教育は18世紀から続いていますが、現在は更に強化されています。国際交流基金によると、2009年にはロシア全土で4,841名の日本語の先生が働いていました(ロシアでは日本語は大学のみならず、一般の学校でも教えられている)。各先生は何人の生徒を教えているのでしょうか?ロシアで日本語を勉強する人の数が毎年増え続ける傾向からどのような未来が予想されるのでしょうか?
私の考えでは、日本とロシアの将来における友好関係の深化ではないかと期待しています。政治家がある意味で”良くないこと “をしたとしても、”将来というもの“は人の心が決めるはずだと考えるからです。
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