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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年01月25日14時23分掲載
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核・原子力
【2013年の初めに日本の原発事情を考える〜その3】福島と福井 齋藤ゆかり
◆「原発抜きの道」を勝ち取った小浜市の孤独な戦い
そういう石地さん自身は、長年、地元で原発に反対していない人たちとの対話活動を続けている。こちらの言い分を言うのが主ではなく、聞くのを主にした活動だという。 「若狭の地元で今でもはっきり反対しているのは、ほんの数人です。でも、ちゃんと残っている。負け続け周囲から変わり者だと思われれば、だんだん嫌になり気持ちも落ち込んできても当然でしょう? それが、そうならなかったのは、僕の場合は、対話をしていたからです」。
もし、住民が本当に原発賛成だったなら、話など聞かずに玄関払いされてもおかしくないが、そのようなケースはほとんど経験していないという。 「僕が続けていられるのは、相手から嫌われることもなく、お互いの気持に通じる思いがたくさんあることがわかったからです。でも、その気持ちが、福島の事故の前後で変わったかというと、それはないですね。」
今年(2012年)も、大飯原発再稼働をめぐり、チラシを各戸に配るだけでなく、その家の人と話をする活動をずっとしてきた。 「地元の人は、話はしたいんです。不満を抱えているから。親兄弟や近所とは、表向きの話はできても、本音の話はできない。それが、直接利害関係のない全然知らない人とはできるんですね。深くものを考えている人も、たくさんいます。福井県は、県民が80万人いますが、原発増設反対のための草の根署名で20万筆が集まった実績もあるんですよ」。
考えなきゃいけないと思っている人はかなりいる。自分たちで考えを変えていかなければいけないが、原発をやめて一番困るのは町民、県民ではなくて、交付金を失う自治体だろう、という心配が多くの人たちにとってブレーキになっている現実がある。
実際、福井県知事の場合ですら、依存を生み出しているのは、原発そのものよりも金であろう。2010年度に福井に支払われた電源三法交付金215億円余りのうち、県は4割以上(累計では6割以上で、立地嶺南の自治体は半分以下)を受け取っているのだから、切実だ。まるで、道路や福祉や雇用は、原発と引き換えでなければ得られないと言わんばかり。
もっとも、同じ若狭湾に面しながら、原発になびかなかった自治体もある。美浜町とおおい町の間に位置する小浜市だ。人口約3万人。奈良時代から古都と朝鮮 半島とを結ぶ港町として重要な役割を果たし、名刹も多い杉田玄白誕生の地だ。近年では、柄物の塗箸の産地と食のスポットとして知られている。
周辺の自治体が次々に原発立地になる中で、なぜ、小浜市だけは、あの手この手を使った電力会社の度重なる懐柔作戦にも屈せず、誘致を断念させることができたのか?
石地さん曰く、40年ほど前、高浜や大飯の誘致と同じ時期に誘致の話がもちあがった。最初は、県議会も町議会も市長も誘致派だったが、賛成派と慎重(反 対)派の二つに分かれていた漁協の慎重派のリーダーが、福井県選出の国会議員のところに行き、「もし、あなたのところに原発を誘致することになったら、ど うしますか?」と聞いて、「やっぱり嫌だ」という答えが引き出せた。そこで、「そうなら、わたしらも嫌なんで、ちゃんとした道さえ作ってくれれば、原発な くても大丈夫、わたしらやっていけます」と言って、小さな道を県道に昇格させた。 「もちろん、それだけではなくて、議会の傍聴などにもしっかり 行って、最終的には署名を集め、半数以上の反対を集めることができたんです。でも、それでも、議会は誘致派のほうが多くて賛成しましたが、結局は、最終的 判断は市長が、市民がこれだけ反対していることをするわけにはいかないと言って断念しました」。
さらに、10年後、再び話が浮上した時にも、市長が反対。また、つい最近には、使用済み核燃料の中間貯蔵地の誘致話が持ち上がり、賛否両方の署名を集めた。反対は1万3,4千、賛成は3,4千だった。 「市長はもとは誘致派だったんけれど、中間貯蔵はしないという公約で選挙に勝った。結局、三度にわたって市民の判断が議会を動かして、反対が決まったんです」。
美浜から小浜に向かう道中、石地さんがこれらの説明をしてくれているさなかに、カー・ラジオから地元のニュースが流れる。 「・・・ 大飯原発では明後日からまた国の原子力帰省員会による追加調査に入るなど、福井ではここ1年の締めくくりも大飯原発のニュースとなりそうです。まず、今年 最初の大きな動きは、再稼働についてでした。関西電力が持つ11基の原発のうち、最大の発電量をもち、全国で最も早くストレステストの審査が進んでいたの が大飯原発です。稼働しなければ、夏の関西圏の電力が大幅に…」
そういえば、この再稼働の動きに対し、小浜市議会は昨年6月、「原子力 発電からの脱却を求める意見書」を全会一致で可決したというニュースがあったのを思い出す。それもそのはず、この原発は、おおい町よりも小浜の市街地のほ うにずっと近くて、こちらのほうが実質的な地元なのだ。その近さは、間もなく私自身が現場で実感することになる。
◆福井県民の原発に対する複雑な思い
建設当時にはかなり強い反対運動も起こり、その後も原発に対する不信感がなくなったわけではなく、今でもなぜここにばかり原発が集中しているのか、不満に思う人は少なくないという福井。 ただ、原発は、一旦建ってしまうと、他の状況が想像できなくなり、思考停止、考える力の喪失に陥ってしまうらしい。現実に事故が起きるとか、世の中に新し い風潮が生まれるなど、置かれている状況そのものが変わらない限り、変化に向けては動きが取れない。ドイツの再生エネルギーへのシフトの成功例を挙げるな ど等、理念で変えることは不可能だというのが、石地さんのもつ印象だ。 「同じ原発立地の知事でも新潟の知事は対応が全然ちがいます。根本は何かというと、僕は中越地震だと思うんです。あれを経験したので、新潟は慎重になったけれど、福井の知事には具体的に感じる部分がない。同じ原発がたくさんあっ て、それで行政をまかなってきたのにもかかわらず、二つの県ではちがうんです。福井の知事は、地震は心配だけれども、明日明後日来るわけじゃないと」
では、どうすれば、「第二のフクシマ」を実際に体験することなく、福井の状況を変えることができるのか。他山の石とするのは、はたして不可能なのだろうか。
「考えるきっかけになるのは、やはり防災計画かな、と思います。あれは、賛成派も反対派も必要ないっていう人はいないから」。
石地さんの意見に、豊田さんもすぐ賛成する。 「30 キロ圏の避難計画にのっとって、実際に全員参加の訓練もやるべきですよ。30万人でやってみれば、本当に訓練でさえできないと思う。訓練ができなければ、 本番では死ぬんだっていうことです。そもそも30万人が動いたら、今、走っているこの道路(この地域唯一の幹線である国道27号線)は全部止まっちゃう。 その間に子供は全部浴びますよ。うちのおばあちゃんは、どうする? タクシーを呼ぼうか。えっ、タクシーが来ると思ってるの? ああ、そうか、やっぱりだめだ、ということになる。一方、ラジオで、今、何ミリシーベルト、何ミリシーベルトって伝えれば、実感はわくでしょ。ヨウ素安定 剤も全員配って、飲まなくていいけれど、飲み方を訓練する。そして、「さあ、ヨウ素剤をすぐ飲んで下さい」って放送すると、どうせ、「オレ、持ってねえよ、どうしよう!?」って言うのが出てくるよ。まだみんな他人事で実感がないのだとすれば、こうやって訓練の体験の中で、一つひとつ全部点検していくしか ないでしょう。釜石では津波の実戦訓練をしていたおかげで、子供たちが助かったんです。だから、やることに意味はある。そして、訓練の後、避難は一時じゃ なくて、30年はこの家に帰って来られないんだよって、気づくと思う」。
小浜市内で昼食をとった後、今日の最後の目的地、大飯原発が見える場所へ向かう。 このあたりは道の両脇にのけられた雪の量が敦賀よりずっと多い。小さい船がたくさん停泊するリアス式海岸沿いと田んぼの中を走って岸壁の前で舗装道が行き止まりになった地点で車をおりる。
つい先ほど、「韓国船救護記念碑〜海の民の出会いは国境を越えた」と書かれたモニュメントの前を通りかかった時には日がさしていたのに、ここでは打って変って霧が出そうな気配、辺りは薄暗い。まるで見る対象を反映したような空模様だ。
「あっ」 こんもりした山の岬が左右から突き出す外海の見えない山中の湖のような湾の、対岸の岬の陰から丸屋根の白い筒状の建物が一つ半のぞいているのに気づく。「そう、あれです」と石地さん。 それにしても、なんという距離の近さだろう。湾の奥に建てられた敦賀半島の原発が、敦賀市よりも遠望できる嶺北(福井県の北半分)の住民にとって脅威に感 じられるのと同様、この原発も、立地こそおおい町だが、実際に共存を強いられているのは、一貫して原発に反対してきた小浜市であること、そして、住民の不 安が身にしみてわかる。なるほど、百聞は一見にしかずとはこのことだ。 この日訪れた4か所の原発のうち、私にとっては、やはりここが最も背筋の寒くなる場所だった。
◆記憶の力:いかにして、過去と現在と未来を繋げるか
福島と福井。 非常に似通った点がありながらも、まだ大きな隔たりをもつ二つの現実。複雑で一刻を争う課題を山ほど抱えた前者と、二の轍を踏まぬためには早急に過去から学ぶ必要があるのに、まだまどろみの中にいるように見える後者。
この二つのケースを前に、水俣病患者と原発災害の被災者に対して国や行政がとった態度について、アイリーン・美緒子・スミスさんが挙げた共通点が改めて思い浮かぶ。
過去の公害問題と原発問題の酷似性の指摘は、福島第一の事故後、度々耳にした。 「原発訴訟は、公害訴訟の延長だ」と主張する近藤忠孝弁護士もその一人。水俣病とともに日本四大公害病に挙げられる富山のイタイイタイ病(富山県、神通川上流 の鉱山からたれ流されたカドミウムが原因)の弁護団を率いて、1972年、公害病訴訟史上初めての勝訴を勝ち取ったことで知られる。 80歳を超えた現在は、原発訴訟に余生を捧げる決意をし、いわき市に通う傍ら、地元の京都でも大飯原発差し止め訴訟をめぐり、原告一万人を目指して闘う。ちなみに、 京都はスリーマイル島の被害(避難地域)を基準にいうと80キロ圏内に入り、北風が吹けば、滋賀県ともども放射能の直撃を受けかねない実質的な被害「地 元」なのだ。
若狭湾の原発に脅威を感じる京都の市民デモ(2011年6月)
「日本では、明治維新以来、公害訴訟の敗北の歴史が、百年続いていたんです。足尾銅山で田中正造がずいぶん頑張ったけれども、いつも結局は、資本と権力の 力に抑えられてきた。でも、イタイイタイ病の勝訴を機に、新潟水俣病、四日市でも勝利を収め、流れが変わりました。水俣病は、地域が広くて、被害者が孤 立、対立していたから、一番難しかったけどね」 一方、原発訴訟は、近藤弁護士も言うとおり、「まだ、負け続けている」。しかし、まさか、勝利ま で何十年も待てるはずがない。歴史から、他山の石から学ぶことで、何とかその時間を短くはできないものか。イタイイタイ病訴訟が公害訴訟の歴史の流れを変 え得た勝因は、何だったのか。
弁護の依頼を受けた時、近藤弁護士は、このままじゃ、負けると思ったという。そこで、家族を連れて富山に移住。一つには、地元では、会社(三井金属鉱業)はお上なので、だれも引き受けようとする弁護士が現れなかったからだ。遠慮の要らない「よそ者」であることが、一つの強みだった。被害者の人々の間で生活し、とことん話を聞いた。
もう一つの強みは、マスコミとの関係だったという。 「会社が控訴した時、マスコミは、本当に怒りを込めた批判記事を書きましたよ。ぼくたちの行く飲み屋と新聞記者たちの行く場所が同じだったんでね、彼らとはよく話をしたんです。会社側の弁護士は東京にいて、地元の人は一人だけ。飲み屋で会ったことないところを見ると、きっと他所に行っていたんだね」と笑うが、 実際、負けた会社側の社長は、「近藤のマスコミ作戦に負けた」と認めたらしい。
イタイイタイ病訴訟の歴史には、企業の命と人権の軽視といい、御用学者の破廉恥な言動といい、福島を取り巻く現状と重なりあうところが決して少なくないようだ。 そして、勝訴の後には、長い後始末が待っていた。ようやく県の事業で行なわれた田んぼの除染が完了したのは、法的な決着がついてから40年を迎えた昨年のことに過ぎない。 「イタイイタイ病の学者が集まって除染を始めた時も、最初に考えたのは捨て場でした。でも、空き地の多い富山ですら、誰も引き受け手はいませんでした。重金属のカドミウムでさえ引き受け手がなかったのに、 その何十倍も恐ろしい放射能なんかの引き受け手が出てくるはずがありませんよね。だから、すごく時間がかかるでしょう」。
そう言う近藤弁護士だが、必ずしも将来を悲観しているわけではなさそうだ。 「それでも、イタイイタイ病のカドミウム汚染は、40年間かかって、本当に田んぼがきれいになったんです。その間、三井金属から会社も変わり、社長も何代も入れ替わっています。そして、最初は険悪だった会社との関係も徐々に協力的になり、挨拶代りに叱ってばかりだった私も、段々企業の努力をほめるようになりま した。私はよく言うんだけど、被害者の目、科学者の知恵、企業の努力、この三つが揃ってはじめて公害がなくなるのは、歴史的な教訓だと思います」。
福島原発災害の被害者たちが引き裂かれ対立されつつある現状に胸を痛めるスミスさんも、切に願っている。福島の人たちには、水俣の時のように50年も苦しみ続けるような目にだけは絶対に遭ってほしくない、と。 私たちも、そのためには何ができるのか、ともに考えなければならないだろう。
(完)
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