本紙に旅先のアフリカから寄稿しているスロベニア人の作家、アンドレイ・モロビッチさんには伴侶がいる。妻のスペラ・カルチク(Spela Kalcic)さんだ。スペラさんがモーリタニアからマリに車で移動中に足を怪我した話は前回書かれていた。モロビッチさんとスペラさんの夫婦は中古の軍用トラックを所有して、砂漠を移動してきたのだ。先々でイスラム原理主義勢力からフランス人が誘拐されてきただけに、今思えば危険な旅でもある。そんなところを旅する感覚に驚かされる。
スペラさんもスロベニアの首都リュブリャナで生まれている。文化社会学とロシア語・ロシア文学を大学で専攻したそうだ。さらに社会人類学で博士号を取得している。才媛なのだろう。しかし、専門の研究以外に、以下の職歴を持つ。
’Translator, journalist, tourist guide, author of radio essays, organizer of cultural events, photographer, editor, animator, menthor, teacher, coordinator of the Intercultural centre in the House of the Worlds, babysitter, singer (a big talent), actress (not very talented).’
歌手としても才能あり、と自己紹介で書いている。ユーゴスラビアでは冷戦後の90年代にすさまじい内戦が起き、ユーゴスラビア連邦は解体された。こうした時代に青春を送った人だからこそ、アフリカの砂漠や海岸に惹かれるのだろうか。あるいはあれに比べるとアフリカの政情もまだましなのだろうか。よくわからない。モロビッチさんと今回のアフリカの旅が一段落したらクロアチアにある実家でしばらく夫婦で過ごすつもりだという。忘れていたが、夫婦はモーリタニアの首都ヌアクショット生まれの犬、パコを飼って旅を共にしている。
■現代の遊牧民〜「モダン・ノマドの日記」〜アンドレイ・モロビッチ
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201201150322290 ■千田善著「ユーゴ紛争」(講談社現代新書)
千田氏は私の同業者の兄で、ベオグラード大学で学んだ経験があるジャーナリストである。最近、この本を改めて買って読んだのはすでによく知られているボスニアの戦いではなく、スロベニアがユーゴ内戦の際にどのような状況にあったのかを知りたかったからだ。それはモロビッチさん夫婦の経験をより理解したいという動機からだ。
「建国から73年たらず。20世紀の初めに誕生したユーゴは 、21世紀を待たずに地球上から消滅した。」と書かれてある。
「わたしのノートの上では、ユーゴ崩壊の日は1991年6月27日である。この日、ユーゴ人民軍(連邦軍=セルビア側主導)は北西部のスロベニア共和国の独立を阻止するために、戦車や戦闘機を出動させ、手痛い反撃にあった。仮にベオグラードの連邦政府側が武力でなく、平和的な交渉でのぞんでいたら、元のままの「連邦共和国」ではないにしろ、「ユーゴ主権国家連合」あるいは「ユーゴ独立共和国共同体」などの形で、統一は保たれていたかもしれない。ユーゴ崩壊の最大の原因は、統一維持を主張していた、ほかならぬ連邦軍の愚挙にあったと、わたしは思う。」
ユーゴ解体の最初の一歩を踏み出したのがスロベニアの独立だったのだ。1991年6月26日、スロベニアで独立式典が開催され、首都「リュブリャナの共和国議会前広場に、歴史上一度も「独立」したことのなかったスロベニア国家が流れ、新しい国旗が掲揚柱の頂上で止まった。」
連邦軍が攻め込んできたのは翌日である。しかし、連邦軍のスロベニア人将校が寝返るなど、多くの連邦軍の兵士が離脱し、またスロベニア人らはゲリラ戦で応じた。結果として、連邦軍が敗退し、スロベニアは独立することになった。この後、クロアチア戦争(1991年末〜)がはじまり、さらに最大の被害者を生んだボスニア・ヘルツェゴビナ分割戦争(1992年4月〜)へとエスカレートしていく。
「わたしは当時から「ユーゴ崩壊必至」と見ていたが、この先これほど多くの血が流されるとは想像もできなかった。長い長い、殺戮と破壊の悲劇のはじまりである。」
村上良太
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