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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年03月26日17時03分掲載
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文化
【核を詠う】(96)岩井謙一歌集『原子(アトム)の死』の原発短歌を読む<2> 山崎芳彦
福島第一原発の事故は、とうてい収束しているなどといえる状況でないことを明らかにする事態が、最近しばしば伝えられている。たとえば原発施設内の排水関係施設の異常により放射能汚染水が排出され海に流し込まれたこと、停電により使用済核燃料を冷やす水の循環が長時間停止したこと、それ以外にも原子力敷地内の放射線量が依然として異常に高いままであること、除染作業を巡っての受注建設業者の下請け構造が絡んでのさまざまな不正行為、その他おそらくは多種多様な不具合が原発施設の各所施設の機器等で起きていると想像することは難くない。事故以前の原発の歴史を考えると重大な事故が起きても東電をはじめ各電力企業、監督機関が長期にわたってその事実を隠蔽し続けた実態があるのだ。
3・11事故以後、福島第一原発の実情、さらに事故の原因は、4つの事故調査委員会の検証によっても、東電の意識的な非協力、国会事故調に対してさえ「危険性」の恫喝によって重要な現場の検査を拒むという、およそあの大事故を起こし、人々を危機に陥れた責任ある企業、国民の税金を厖大な金額使い、さらに電力料金の値上げを行なう企業にあるまじき対応を続け、なお最低限必要な危険防止対策をすら成し遂げられていない。
しかし、安倍政権の原発維持・再稼働方針を支えに、各電力企業は、陰に陽にさまざまな画策を活発化し、原子力規制委員会などなきがごときの策動を重ねている。 原子力規制委員会の「新・安全基準」策定を前に、たとえば茨城の東海第二原発(日本原子力発電)では津波対策の強化のための防潮堤建設を目的として、敷地内の保安林伐採のため森林法に基づく保安林指定の解除申請を目論んでいる。新しい安全基準が決められた時、それと適合するため、つまり再稼動の条件作りの防潮堤設置を進めようとしているのである。1919年から東海村が潮風や砂から農耕地や住宅を守るために営々として220万本のクロマツを植えつづけ「海岸砂防発祥の地」と呼ばれ、村内の136ヘクタールが砂防目的の保安林として指定されている、歴史的な保安林だが、その一部を伐採するというのである。(朝日新聞3月19日付朝刊、茨城版の記事より)
明らかに、地元住民だけでなく全県的な再稼働反対の県民の声を無視し、現政権の原発維持政策の下、これまで幾度も危うい事態を引き起こしてきた東海第二原発の再稼働を目指しているのである。
これは、日本の電力企業が、安倍自民党政権の原発維持のエネルギー政策に乗って、全国各地の原発再稼働、さらには新設に向かって、財界、関連大企業とスクラムを組み、「原発再生」の旗を掲げて進みつつあることのあかしの一つである。
このような政府、政策の下で、自然再生エネルギーのための研究や、脱原発を成し遂げて行くための道筋作り、核エネルギーからの脱却のために必要な社会・経済システムの構築を成し遂げて行くのには大きな困難が伴うが、しかし、この原子力文明社会に未来がない以上、自分がその道を、同意できる人々とともに、できるだけ力強く、早く、大きな力の中の1人として歩み続ける意志と、知恵とを持たなければならないと考える。
ところで、原発の維持を自らの信念として詠う岩井謙一氏の作品を前回に続いて読んでいくことにする。
◇冷温停止◇
これ以上原発増えるはずが無く白つめ草の静かに揺れる
粛粛と冷温停止続きいて春の落日やさしかりけり
停止せる鉄腕アトムの反応炉科学の子ゆえ殺されたらん
未完なる再生可能エネルギー原発作りし科学が作る
ベクレルのいくらあろうと供うべしガダルカナルで死にし兵士へ
人間の罪深さゆえ昇りこぬ太陽待てるソーラーパネル
愚かなる「わが子かわいさ」理性など欠片もあらぬ利己主義怖し
通学の子供死にゆく悲のためにデモをするべし反原発派
放射能への不安つよく抱けるは文系出身者という分析
原発が全停止する日のついに来てテクノロジーの命日となる
フクシマは原発のリスクいかほどか人間どもに教えてくれぬ
人間は核で殺人するちから広島・長崎で証明したり
原発にとどめささんと死者二万連れて行きたる神の計画
この一連の作品をどう読めばよいのか、1首目、「これ以上原発増えるはずが無く」というのだが、下の句とどういう応接があるのだろうか。作者の感慨のありどころが読みきれない。岩井氏は「本当に原発のリスクを無くしたいなら節電などではない、電気をまったく使わない覚悟が必要であろう。日本でも江戸時代までは電気のない生活を送ってきたのである。」(歌集に収録の文章「リスクのない世界」)と、ひどく極端で滅裂なことを述べているのだが―原発のない時代は江戸時代までさかのぼらないだろう―、原発を増やせる状況でなくなったことを淋しく想っているのだろうか。
2首目だが、「冷温停止」とはどういう意味で言っているのだろうか。福島原発の1〜3号機の原子炉が安定した「冷温停止」状態であるとは言えないというのが多くの原子力の専門家の見解で、放射性物質の漏洩がある状態は「冷温停止」の前提を欠いているし、その他の条件からも「粛粛と冷温停止」が続いている状況ではないことを認識する必要があろう。
「ベクレルのいくらあろうと」の歌は第二次世界大戦の中でも日本軍部、政府のあまりにも無慚な作戦によりガダルカナルの地で非業の死を遂げた兵士に捧げるべし、食べるものも無く戦い、飢餓のなかで命を失った兵士に、放射能のベクレルが高かろうと食物を捧げるべし、と言うことなのであろうか。筆者の読み違いでないとすれば、あまりにも異常な、死者を冒涜する一首である。
「人間の罪深さゆえ昇りこぬ」と、ソーラーパネルを詠った一首も筆者にはなんとしても許しがたいと思える。いま、原発に依存しない自然エネルギーのひとつとして太陽光発電を、自主的に、地域や生産者の人々がさまざまな方法で稼働させている実践がある。たとえば福島県の三春で農産加工場の電力を太陽光発電でまかない運営している。この農民発電は、多くの支援者、協力者の力もあってなったものだが、何より農村婦人が地域農業者、農協組織などと結んで実現した果実である。全国各地で、その地域に適した自然エネルギーを実用化する努力が始まっている。岩井氏は、「原発が全停止する日のついに来てテクノロジーの命日となる」とも詠っているが、電力=原発の妄念に囚われているだけでなく、それに同調しない人々の努力を呪うがごとき歌を作ることこそ「岩井氏の罪深さ」ではないのか。
そのほかのどの作品を読んでも、岩井氏の独善と脱原発をめざす人々と原発事故被災者に対する敵意と悪意を、31音の短歌のかたちで表現しているとしか思えなくなってきた。
愚かなる「わが子かわいさ」理性など欠片もあらぬ利己主義怖し
前回の「放射能」一連のなかに「わが子さえよければよきか狂いたる母性本能深く冷たし」があったが、岩井氏が低線量被曝についての独断的な「無害論」を盲信することを止めることはできないにしても、原発事故による放射能を逃れて避難する母親達に対するこの憎悪ともいえる感情は何なのか、母親がわが子の生命、健康、将来を考えて居住地を変えることをこのような表現で非難する岩井氏の心底に何があるのだろうか、理解し難いが、単に核放射能についての無知だけだとは思えない。反原発を煽る行動として責めているのか、あるいは、たとえば大口玲子さんや俵万智さんの名を上げて「リスクのない世界」で批判していることを考えると、この二人の女性歌人を、なにか故あって「狂いたる母性本能」「理性など欠片もあらぬ母性本能」をもつ母親達の代表として貶めようとしているのかなどと、要らぬ感想を抱かせる。これは、筆者の誤読であってほしいが、岩井氏も、個人名を挙げて見当外れの批判的な言辞を弄することは慎むべきだろう。ここには挙げないが、歌集の中の岩井氏の家族詠、親や子への心情を詠っている作品とはあまりにもかけ離れている。
前回作品のみを記し、感想を述べなかった歌に
時代など選ぶすべなしわが娘もっとも怖きは人間と知れ
限りなく素直であれよ美しく信じることで強さを持てよ
の2首があるが、時代とともに親をも選べないのが子である。筆者には、人間一般ではなく、詠っている作者が怖いと思えた。また「美しく信じる」と言うが、何を信じて強さを持てと言うのか。核放射能について「遺伝的影響のなき真実を被爆二世が教えてくれぬ」と詠うのを、信じては欲しくない。
放射能への不安強く抱けるは文系出身者という分析
には笑わされるが、氏は大学時代に「専攻を選ぶとき農芸化学科と原子工学科のどちらにするか迷った経験がある。今の私が原子力に対して無力であることが残念でならない」(「リスクの無い世界」)と記しているから、理系出身者であろうが、「原子力に対して無力」であることは、ある意味で幸いだったと、筆者は思う。しかし、理系出身の歌人・岩井謙一氏の作りだす短歌作品には、いささかどころか大いに悩まされる。 しかし、読み始めたのだから、やめるわけにはいかなくなってしまった。
「フクシマは原発のリスクいかほどか」、「人間は核で殺人するちから」、「原発にとどめささんと」それぞれ(作品は前掲)も、読むには辛すぎるし、最後の「原発にとどめささんと死者二万連れて行きたる神の計画」には呆然とした。「死者二万」と原発事故がどこで直結するのだろう。そして「神の計画」ともいう。原発事故を起すために地震・津波によって多くの死者を「神」が連れて行ったと言うのであろうか。「神」がいるのなら、岩井氏を許すであろうか。短歌を貶める歌を作ってはいけない。
岩井氏の短歌を作る感性は、少なくとも読んできた限りでは、筆者にとって共感を持つことは不可能である。
しかし、次回も岩井氏の短歌を読み続ける。
(つづく)
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