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2013年04月06日16時04分掲載
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文化
【核を詠う】(98)波汐國芳歌集『姥貝の歌』の原発詠を読む(1)『原発を詠み次ぎ警鐘鳴らししに叶えられざりき無力なるゆえ』 山崎芳彦
今回から、福島の歌人・波汐国芳さんの歌集『姥貝の歌』(<うばがいのうた>、平成24年8月 いりの舎刊)を読ませていただく。波汐さんの第12歌集だが、その原発詠を多く含む、「平成二十三年三月十一日以降の作品に新作未発表の作品を加えたものを主として、大震災以後の今日的視座で編集構成し、この時代に生きている者の生の証にしようと考え」(あとがき)刊行されたこの歌集は、短歌界だけでなく各方面からの注目を集めている。
筆者は不勉強なことに、この歌集以前の波汐さんの歌集、発表作品を意識的には読んでこなかった。そして、この『姥貝の歌』を読みながら、改めて全国各地に、それぞれの生活、環境の中から、詠う人たちの貴重な作品がとどまることなく紡がれ、しかし、必ずしも、そのなかの注目されなければならない作品が、多くの人の目に触れないでかくれているのであろうことを痛感した。そういえば、筆者がこの連載のなかで読むことができた原爆、原発にかかわる作品群も、3・11の原発事故を契機にして筆者なりに意識的に読もうとし、作品を探索し、少しずつでも個人歌集、合同歌集、各種のアンソロジー、資料的な詩歌集などに接することが出来たから読み、記録することが出来たのであった。少なからぬ人の助けをいただいた。
『姥貝の歌』を読むにあたって、面識も、交流も無かった波汐さんに直接電話を差し上げ、幸いにしてお話をすることが出来た。長い時間ではなかったが、先日逝去された佐藤祐禎さんや、東海正史さんのことなどに触れて話すことができたのは嬉しいことであった。皆さん福島県の歌人界、団体にとって重要な役割を果たしてこられた人々である。
そして、この三人の歌人はそれぞれ3・11以前、ずっと前から原発の危険な実態と、何ごとか重大な危険が迫っていることを、自らのさまざまな体験と物事の本質に目を届かせる歌人としての力量を持って、警報を発していたのであった。このほかにも、古くから原発の危険性を短歌作品として発表し、歌集を編んできた歌人がいた。若狭の歌人・奥本守さんもその一人だった。それぞれ、原発を支える各種権力から圧力を陰に陽に受けながら、しかし詠い続けてきた。この原発列島には、もっと多くの、同様な歌人がいるに違いない。今、短歌界が、光を当てたいものだ。
原爆短歌にしても同じである。時が過ぎただけ、また米国による占領支配の時代があり、それに追従した政治、経済、学会、ジャーナリズムがあったことが、実態・事実、人々の苦難を隠蔽し、それだけでなく圧迫したことが、短歌文学面にも大きな影を落としている。遺すための努力がこれまでもあったが、改めて意識的に短歌界が取り組むことが必要だと思う。
今、原発短歌はもっともっと多く、もっと深められ、現実を映し、再び原子力エネルギー依存の社会に向かおうとしていることについて異議申し立てをする作品が生まれることが望まれているのではないだろうか。短歌文学は、人が生きる現実を確かにとらえ、自らの心情で受け止め、表現するものであるとすれば、そこに原発問題をさまざまな面から詠う、私たちの生活、生きている現実が、そのことを求めていると、筆者は考える。何も、それが歌人の義務だなどと言うつもりはないし、さまざまな歌が詠われるのは当然であるが、私たちが生きている現実が、将来が、原発、核の問題を突きつけられていることから、無関心ではありえないだろう。しかし、自然に作品化されるかといえばそうでは無いだろうから、いまを生きる歌人の役割について考える必要があろう。「原発万葉集」が編まれるべきだと提言した歌人がいたのを記憶している。
その意味では、「歩道」同人アンソロジー歌集『平成大震災』(秋葉四郎編 いりの舎刊 文庫版)が刊行されたことは大きなことだと思う。
いろいろなことをとりとめもなく書いてきてしまったが、歌集『姥貝の歌』の作品を、原発にかかわる歌を抄出しながら読んでいきたい。なお、歌集名の「姥貝」(うばがい)は、「ほっき貝」ともいい、いわき市生れの作者にとってなじみが深く「古里の海に対して何か言うときの媒体として格好のものと思って」いると、作者は言う。(あとがき)
◇プレートの歯◇
大地震 大津波率(い)て原発のある町襲い暮らしをさらう
大津波 原発の浜さらいしを残れる炉心の鬼面を見ずや
◇姥貝の歌(一)◇
プルサーマル阻止の集いに遠尾根の溶岩流をみちびきゆくも プルサーマルはウランのリサイクルによる発電計画をいう。
古里に森こそ戻れ 楢・椚さやさや雪の中から起(た)てよ
姥貝の口をひらいて海に問え白亜紀ざぶりと戻って来るか
原発の汚染ひたひた寄る波に笠女郎の恋も侵すか 同じ海沿いに昔「真野」と呼んだ海がある。その地は笠女郎が大伴家持に送った恋歌(卷三・三九六)で知られる。
古里の荒磯(ありそ)はドラム 原発へひた打ちざまに鳴りやまぬなり
強震に原発挟間(はざま)の海が揺る 光こぼれんまでに揺るるも
原発が在(あ)る浜に住む君想い強震のたび波立つこころ
原発の温排水を入れゆくに逆波立てて海遠退(とおの)けり
◇警鐘は届かざりき◇
原発の炉心溶融うつつとぞ毒へびの舌見え隠れせる
放射能漏れに騒立(さわだ)つわがめぐり鷗の声も極まりそうな
原発を詠み次ぎ警鐘鳴らししに叶えられざりき無力なるゆえ
冬がもう来ていん庭の夕まぐれ放射能が樋(とい)の辺(へ)に立っており
被曝地の福島逃るる人の脛(すね)ひらひら稲妻に閃きて見ゆ
下北なる会津藩士に重ねんか原発難民に甥ら連なるを
大津波・放射能が削ぎし福島を奥のへつりに視ているわれか 阿賀川を遡る会津の奥に「塔のへつり」がある。
◇被曝牛◇
飯館村は在職中の一時期における受け持ち区域なり、ゆえに被曝連帯の思い深ければ、 原発の大熊・双葉の飛び地とや飯舘村に炎立(ほむらた)ちおり
原発の事故の重たさ酪農の飯館村にゆがむ牛の目
夕陽いま牛舎に及ぶを被曝せる牛の行方はひらかずにあれ
もういいかい もういいかいと被曝牛角(つの)もて牛舎にノックするなり
放射能その運び屋は風なるに福島牛の背(せな)問わるるか
原発の福島を逃るる牛の背のずんずん沈む 放射能負い
放射能運びくるなと退(の)けられて牛あり牛の背(せな)翳りたり
原発に追われ追われてゆく牛のふと振り向きしその目忘れず
原発に追われ振り向く牛の目に遠退(の)き暮るる小さき村あり
原発に追わるる牛の角輝(つのて)りて引き返すかと思う夕暮れ
被曝地の牛ら何処(いずこ)へ行きしやら乳牛になれず肉牛にもなれず
セシウムに追われゆくなり乳牛のひとみの中の黄泉平坂(よもつひらさか)
人住まぬ飯館村ぞ原発の爆風が運びきたる被曝地
酪農の飯館興(おこ)しに村びとら廃牛の角(つの)を抱えて起(た)てよ
原発の事故ゆえ無人の村をゆく 闇の底より這いのぼりゆく
原発に村を追わるる牛の目の煌(きら)と起ちゆく恨みつらみや
◇海は檻◇
原発を否と言えねば海鳴りの底ごもりしか古里びとら
タクト振り 古里の海にひた振りて反原発の歌呼び上げし
プルサーマルの受け皿なるを磐城岩代岩(いわきいわしろいわ)もて囲えば安心ですか 磐城・岩代は旧国名。前者の一部は福島県の東部、一部は宮城県の南部。後者は福島県の中央部および西部。
◇姥貝の歌(二)◇
大津波・原発被害のこの浜に姥貝が哭(な)く 漁師らが哭く
原発を容(い)れしばかりにふくしまの陸(くが)が揺れいる 海が泣いてる
原発はもう信じない西窓に夕ぞらを置く あかんべを置く
「避難せよ」天の声とは思えども古里捨ててゆけぬわれらぞ
「放射能を運んでくるな」避難地に福島の児(こ)が疎まれている
福島の馬鈴薯に連ね福島の人も喰えぬと言うか他所(よそ)びと
文明をひたに求めて文明に滅ぼされゆくわれらならずや
電車・飛行機いまのままでいい 文明の加速は滅びへの径(みち)縮むるを
六号線は原発事故で通れない 文明もそこにストップでいい
チェルノブイリ繰り返ししを古里の海に向かいて静心(しずごころ)なし
福島よ頑張れのこえしたたかに死者らも起(た)ち来(く) 鬱の海より
姥貝の口もて古里呼び戻せ光溢れんその器(うつわ)こそ
次回も歌集『姥貝の歌』の作品を読ませていただく。
(つづく)
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