最初にお断りしておくと、本稿は北京とも春とも関係がない。フランスの作家ボリス・ヴィアンが書いた「北京の秋」にあやかったタイトルだ。「北京の秋」は北京とも秋ともなんら無縁の小説に前衛作家ヴィアンがあえてそんなタイトルをつけたのである。
2011年以来、「アラブの春」という言葉が世界的に大流行している。正確に言えば2010年末からだ。「アラブの春」という言葉を最初に言い出したのは誰なんだろう。一応、チュニジアから始まったことになっている。そして周辺アラブ諸国を席巻して今やシリアまで及ぼうとしている。そればかりか、「イランの春」や「ブラジルの春」という言葉もすでにあるかもしれない。
それでもこれらの言葉はもともと東欧の「プラハの春」に起源を持っているように思われる。あるいはソ連時代に起きた「雪解け」であろう。これらはいずれも冬が長く寒さが厳しいロシアや東欧に起源を持つ表現ではないかと想像している。冬になると夜が圧倒的に長くなり、世界は雪と氷に覆われる。そんなロシアの人々が春に寄せる思いは温暖な国々の人には簡単に想像ができないほど強いものだ。だから、アラブの人々にとって「春」がそれほど待ち望まれた季節なのかどうかその語感からしかと伝わってこなくて、どこか過去の歴史にこじつけようとしている印象がある。何と言っても基本的にアフリカは暑いところだから。
ソ連がらみのジョークでこんなのがある。エジプトがイスラエルと中東戦争をしていた時のものだ。当時エジプトを軍事的に支援していたのがソ連だった。ソ連の軍事アドヴァイザーがエジプトにやってきて、「冬まで持ちこたえればイスラエルに勝てる」と言うのだ。ロシア人はナポレオン戦争でもヒトラーとの戦争でも多大な犠牲を払いながらも冬まで持久戦で戦闘を引き延ばして最終的に勝利した。だからエジプト人にも冬まで持ちこたえろと言うのだ。冬の寒さが厳しく、広大な国土を持つロシアならではの戦略であるからエジプトでは通用しない。
「プラハの春」は1968年にチェコで起こった「人間の顔」をした社会主義を求めた運動で、ソ連軍の介入で抑圧されてしまう。一方の「雪解け」は1953年の独裁者スターリンの死後に現れた統制の緩みである。いずれも短期間で終わったもので、一時的な季節に過ぎなかったのだ。だから、「アラブの春」という言葉にはどこか、その言葉のチョイスから短命を運命づけられている気がする。平和というと永久のニュアンスがあるが、和平というとどこか仮の一時的な印象があるのと同じで、その言葉のチョイスの裏には政治意識が隠されている気がするのだ。恒久的な変革の場合、歴史的には革命ないし、市民革命と呼んでいる。
■「アラブの春」(Kotobank)
http://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%AE%E6%98%A5 この解説によると、最初、チュニジアで起こった政変は「ジャスミン革命」と呼ばれており、「革命」という言葉が入っていた。しかし、その後、中東の周辺国や欧米の利権が絡んで複雑な様相を呈し始める。
■アラブの春の設計者たち〜NYT寄稿’When Arabs Tweet’(「アラブがツイッターを始めるとき」)
http://www.nytimes.com/2010/07/23/opinion/23iht-edkhouri.html?_r=0 ラミ・クーリ(Rami G.Khouri)氏による「アラブがツイッターを始めるとき」がニューヨークタイムズに寄稿されたのはアラブの春が始まる半年ほど前のことだ。この中でクーリ氏はヒラリー・クリントン率いる米国務省が中東・北アフリカの「民主化」を狙って、ツイッターやフェースブックなどのデジタル機器を使った変革を起こす計画を推進していたと書いている。そして、クーリ氏は本当に社会変革を進めるにはデジタル機器だけではダメで、欧米諸国がアラブ諸国の独裁政権に対する資金供与と武器供与をやめ、逆に大衆側にコミットする必要があると論じている。実際に「アラブの春」が起きてみると、その通りになった。
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