アメリカの経済学者のジョセフ・E・スティグリッツ教授と言えば「情報の非対称性」理論でノーベル賞を受賞したブリリアントな学者というだけでなく、格差問題やグローバリズムの弊害に良心的に取り組んでいる、というイメージが強い。実際、そのような本も多数書いている。
たとえば以下のニューズウィーク誌の報道では「グローバルな経済システムは貧しい国に不公平だと主張し、世界銀行やIMF(国際通貨基金)を批判するスティグリッツ」と紹介されている。http://www.newsweekjapan.jp/stories/business/2009/08/post-446.php ところが東洋経済新報社から翻訳で出ている、スティグリッツ著「ミクロ経済学(第4版)」である。厚み4.5cmの大判ながら世界の実例を挙げて大変わかりやすく解説した優れた本であるが、グローバリズムについては肯定的に書かれている。
「比較優位の理論に基づくならば、各国が最も得意な産業に特化することで、いずれの国も(貿易を開始することにより)得をする。労働者は、自分たちの生産性が最も高くなる産業に移ることで高賃金という利益を獲得し、消費者は価格低下により利益を享受する。投資についても同じである。投資が収益が最も高い分野に流れるとき、世界の産出量(そして所得)は増加する。」
これは90年代以後強まったグローバリズムを肯定する理論である。スティグリッツ教授だけでなく、同じく民主党よりでリベラル派のポール・クルーグマン教授もグローバリズムの支持者である。国内労働者の賃金が低下してもモノの価格が下がるからいいのだ、との考え方である。両氏は金融緩和についても肯定的であり、アベノミクスを支持している。アベノミクスはアメリカの大物リベラル派経済学者の支持を得ているのである。
ただし、スティグリッツ教授は「ミクロ経済学」の中に読み物欄を設けて、比較優位の理論に対して批判的な視点も解説している。
「貿易を自由化すれば、各国は国全体として経済状態が改善するものの、国内すべての人について経済状態が改善するわけではない。たいてい勝者の利益はすべて敗者の損失を補填できるほど十分に大きいため、誰もが利益を享受できるようになる。しかし、実際にはこうした補償が行われることは滅多にない。そのため、貿易自由化に関しては、経済のあるグループが得る利益を他のグループが被る損失と比べてどちらが大きいかを判断しなくてはならないという、トレードオフに直面する。」
その例としてアメリカが貿易を自由化した場合、競争力の高い航空機産業では雇用が生まれるが、繊維産業では労働者が失業する羽目になる、というトレードオフの例を記している。グローバル化すれば利益を受ける業界と、損失を被る業界が必ず現れる。しかし、これまでの経験から勝者が敗者に利益を配分したことは滅多にないと言うのである。勝者が利益を独り占めにしてきたのだ。
「とはいっても、アメリカでは、労働市場が比較的うまく機能しているので、解雇された繊維産業の労働者であっても、賃金が著しく下がりこそすれ、最終的には新しい仕事を見つけることが可能である」
「賃金が著しく下がりこそすれ」アメリカは労働市場が比較的機能しているので新たな仕事につける、と言うのはアイロニーの匂いが漂う。さっき、教授は「労働者は、自分たちの生産性が最も高くなる産業に移ることで高賃金という利益を獲得し」と書いていたではありませんか、とつっこみを入れたくなる展開だ。日本でも平均年収300万円の時代が来る、というエコノミストの預言が衝撃を持って迎えられた時期があったが、間もなく年収200万円の時代に下方修正された。そして今では年収が100万円もない労働者も少なくない。
90年代から日本でも成長戦略とか、構造改革とか掛け声こそ立派だったがほとんど実現できていない。もし実現できていたらとっくにデフレは解消されていただろう。今アベノミクスに関して米国のエコノミストたちが口をそろえて批判しているのも構造改革と成長戦略ができていないという指摘である。とはいえ、90年代に来日した米国企業はせっせと日本企業を解体し、不採算部門を閉鎖し、労働者をリストラすることで初めて利益が出る、という貧困な「構造改革」ばかりだった。
一方、スティグリッツ教授はアメリカ国内の不利益を受ける集団の話だけでなく、グローバル化によって悲惨な目にあったメキシコのトウモロコシ農民の物語についても触れている。これは北米自由貿易協定(NAFTA)を締結した結果だった。アメリカでは農業に多額の補助金を使っているため、安価なトウモロコシが大量にメキシコに流入した。その結果、メキシコ南部のトウモロコシ農家が大打撃を被ったケースである。トウモロコシと言えばタコスやトルティーヤを常食するメキシコ人の主食である。
こうした上でスティグリッツ教授は利益を受ける集団と不利益を被る集団の間の富の分配の問題は、あるいはグローバル化をよしとするかどうかも含めてその方針の<決定>に関しては、経済学者のテーマではなく、政治の問題であると解説している。
さらにWTOについてこんな記述がある。1999年にシアトルで起きたWTOへの抗議行動の理由についてだ。
「世界銀行の統計によれば、ウルグアイ・ラウンドが終了した1994年以後のサブ・サハラ(サハラ以南のアフリカ)のような世界でも最も貧しい国々の経済状態は実際以前よりも悪くなった。貧しい国々は先進工業国が生産する財について関税引き下げを強制される一方で、先進工業国は国内の農業部門を保護し続けた。金融サービス市場が開放されても、建築や海運業のような未熟練労働の依存度が高い産業については依然として市場は閉鎖されている。」
仮に先進国で建築や海運業の労働市場が開放されたとしても、その結果、故郷を離れて他国での生活を余儀なくされる途上国の労働者が多数生まれることになる。グローバル化は人々の暮らしを大きく変える力を持っている。スティグリッツ教授のテキストはこうしたアクチュアルな問題を随所に盛り込んでいる。
■ジョセフ・ユ−ジン・スティグリッツ(Joseph Eugene Stiglitz, 1943年2月9日 - )
アメリカ人の経済学者で、1979年にジョン・ベーツ・クラーク賞、2001年にノーベル経済学賞を受賞した。コロンビア大学教授。(ウィキペディアより)
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