けやき出版から出ている柳澤恭雄著「戦後放送私見」は独自の道を歩んだテレビマンが書き下ろした個性的なテレビ史の証言記録である。柳澤氏は「日本のいちばん長い日」でもそのエピソードが描かれているのだが、天皇の玉音放送を守ったNHKの幹部だった。戦時中、NHKが戦争協力をしてきた歴史を反省し、戦後は左翼的立場からジャーナリズムを始めようとしたがレッドパージで追放されてしまう。そこで自ら興したニュース映像の配信会社(当時)が日本電波ニュース社である。それは安保闘争たけなわの1960年のことだった。
「創立にあたって私が考えたことの中心は、外国から入ってくるニュースは、とくにテレビの場合、いわゆる西側だけのニュースで、東側、社会主義のものがない。これでは片目しかあいていない状態だから、補完したいということであった。具体的に言えば、外国を日本の記者が取材したTVニュースの通信社が必要だと考えた。ニュースには客観性とともに国民性、ナショナリティがある。日本人の記者が取材した外国のニュースが必要だということだ」
その後の歩みについては本書に詳しく書かれている。この本を手にすることになったのは日本電波ニュース社の現在の社長をしている石垣巳佐夫さんの聞き書きをしている時だった。石垣さんは「今、インターネットなどを使って新しい報道網を構築しようという動きがありますが、うちの創業者の柳澤もまさに同じだったんです」と話した。アメリカや英国など英語圏を中心にするニュースの配信だけではニュースの取捨選択や価値判断にバイアスがかかっている。だから、日本人の記者がそこに立って報じることが大切なんだ、という考え方である。しかし、そうした流れが止まったのが1990年代だった。
以前、同社の熊谷均プロデューサーの紹介記事を書いたときに触れたことだが、ここで再度紹介したい。
「日本電波ニュース社は海外支局で撮影した映像を各局に配信してきました。最盛期にはアジアのほかローマ、モスクワ、カイロ、リマなど、のべ11カ国に支局がありました。しかし、現在の支局・事務所はハノイ、バンコク、上海の3箇所のみ。その理由は1990年ごろテレビ局が各国の放送局と提携し、ニュース映像のバーターを始めたことにあります。バーター制度によってテレビ局には簡単に世界の映像が入ってくるようになりました。しかしその一方で日本人の支局員を配置できなくなり、日本人専門家の育成が難しくなりつつあります。
問題はそればかりではありません。他国のスタッフが撮影した映像に日本のテレビ局のアナウンサーがあたかも現地で見てきたかのごとく、ヴィヴィッドなコメントをつけるということも最近起きています。これでは誰がニュースを責任持って伝えるのか、その所在が曖昧になってしまいます。」
この放送局同士の映像のバーター制度で世界のニュース映像が簡単に手に入るようになった。それはニュースの画一化にもつながっただろう。だからこそ、今後はインターネットや衛星も含めて世界の出来事を誰がどう伝えるか、またそれをどうペイできるものにしていくか、その中でプロフェッショナルの意義はどうなのかといったことが改めて問われることになる。日本電波ニュース社はその後、ニュースの配信だけでなく、番組制作にも取り組んでいくことになったが、それは石垣氏の聞き書きで紹介したとおりである。
さて、「戦後放送私見」の中で興味深いのはベトナム戦争時代、日本電波ニュース社のハノイ支局で撮影した貴重な映像がアメリカの3大ネットワークの局員たちによって東京に送る途中で盗まれていたというくだりだ。柳澤氏の記憶によると1969年から1972年の間に4回盗まれている。そのうち2回は相手が特定された。CBSとABCだった。信じられないことだが、そのようなことが行われていたのだった。
当時、ハノイから撮影済みフィルムをまずカンボジアのプノンペンの空港に送り、そこで東京行きに積み替えていた。その時、CBSの局員が空港にいたので彼らの映像と一緒に東京のCBS支社に送り、そこから日本電波ニュース社に送る手はずだった。しかし、驚いたことに東京のCBS局員が映像を横取りして自社で使ってしまったのだ。
次はABCのケースである。日本電波ニュース社がハノイで撮影したものを日本向けに衛星で送る手はずで香港の現像所に出したら、そこでABCに横取りされてしまったというのである。少なくともこの2回はフィルム泥棒が特定されており、しかも盗んだ放送局員たちは堂々と「俺が盗った」と言ったそうである。
柳澤氏はアメリカのこのような行動の背景にはテレビ局同士の競争が激しく、ハノイのフィルムを独占したかったからだとしている。もし日本電波ニュース社の映像が別個に流れたら、「独占取材」と言えなくなってしまう。しかも日本電波ニュース社は日本だけでなくアメリカや英国、その他各国のメディアに映像配信していたから、一層、日本電波ニュース社の映像のネガを奪う意義があったのだという。
「私は、アメリカの特派員に盗られたケースから、アメリカのジャーナリストは日本のジャーナリストと質が違うと思った。日本のジャーナリストは、こういう強奪はできない。しかし、アメリカは、それをやる国である。業務上やるのだから、「俺はとらない」とは言わない。「俺がとった」と言う。ABCもCBSもすぐにそのフィルムを放送している。・・・私はCBSとABCに対して裁判をしなかった。アメリカのジャーナリストは苦しい、大変な状態におかれていて、泥棒までしなければ、ジャーナリストの職業を全うできない。アメリカはそういう国なんだということがよくわかった。」
1970年前後、と言えばアメリカがベトナムから撤退を考えていた時期である。米国内では激しい反戦運動が巻き起こっていた。しかし、ニクソン大統領が名誉ある撤退を望んでいたため、戦争を終結させることができなかった。アメリカは熱い政治の季節だった。放送局員がニュースフィルムを泥棒していたのはこのような最中だった。柳澤氏が感慨深く語っているように「アメリカのジャーナリストは質が違う」のかもしれない。それは泥棒をするかしないか、というだけではない。
■米軍のサイゴン撤退 1973年
「ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。その後も北ベトナム+南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦した。」(ウィキペディア)
■敵からぶん捕ったフィルムについて
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201112280913123
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