フランス人の中には日本文化に関心を持つ人が少なくない。俳優のフランソワ・パティシエ氏もその一人。日本を訪れたことがあり、東日本大震災の時には励ましの言葉を送ってくれた。彼は舞台に立つことが多いが、映画にも出演する。最近だと、フランスの名匠、アニエス・ジャウイ監督の最新作「Au bout du conte 」。ジャウイ監督はパートナーのジャン=ピエール・バクリ(俳優)と喜劇の脚本を多数共同執筆しており、社会性のあるコメディを作ってきた。
この映画に出演しているパティシエ氏も3年前に「何か自分たちでも面白いことをやろう」と俳優仲間と脚本を書き、後に30分の短編映画「不測の事態」(Contretemps)を自主製作した。これはやることなすことすべて裏目に出てしまう不器用な男の喜劇で、自ら主演している。手に触れるものすべてが壊れたり、事故ったりする。そして出会った女も男の不幸に飲み込まれていく。この短編映画は今春、カンヌ映画祭にも出品されたばかりだ。(以下はインタビュー)
Q,アニエス・ジャウイ監督と俳優のジャン=ピエール・バクリが作った映画に出演したそうですね。
パティシエ「そうです。私がこの映画に参加したのは1日だけだったけど貴重な体験でした。なぜなら私の出番は撮影初日のなんと最初のカットだったのですからね!二人と仕事をするのは初めてでしたが、アニエス・ジャウイはとてもフレンドリーでした。まるで長年の友達みたいに私を迎えてくれたんです。一方、ジャン=ピエール・バクリも同様で、とても親しく接してくれました。彼は笑顔なしのまじめな表情で冗談を話す人なんです。
私が出演したその撮影初日の最初のカットというのはパリのモンパルナス墓地で撮影されました。埋葬に参列したジャン=ピエール・バクリに私が慰めの言葉をかける。まぁ、出番は少なかったけど、アニエス・ジャウイとジャン=ピエール・バクリに出会えたのはとても幸せでした。ところで、この映画がフランスで公開された初日に、ちょっと不思議な体験だったんですが、私は偶然モンパルナス墓地にいました。実際に知人が亡くなったからで、私は友人にお悔やみの言葉をかけました。映画とまったく同じことを繰り返していたんです」
フランソワ・パティシエ氏はフランスのベテランの俳優で舞台に数多く立っている。作品にはモリエールやジョルジュ・フェドー、エドモン・ロスタンなどが書いた快活な喜劇もあればラシーヌの悲劇もあり、ちょっと変わったところでは作家ダニエル・ぺナックの小説「片目のオオカミ」を脚色した舞台のオオカミ役もある。しかし、自主製作した短編映画「不測の事態」が喜劇だったように、喜劇はパティシエ氏の俳優人生の中で非常に大切なもののようだ。
Q、履歴の中に、モリエールの「いやいやながら医者にされ」の主人公スガナレルがありますね。日本でもモリエールはとてもポピュラーな喜劇作家ですが、現代フランスの俳優にとってモリエールはどんな存在なんでしょうか?
パティシエ「私にとってモリエールの喜劇を演じることは常に歓びにほかなりません。というのもモリエールの喜劇はとてもアクチュアル(現代的)なんです。モリエールの戯曲は老いることがない、という感じがするのですよ。彼の戯曲の台詞もト書きもとても生き生きしています。モリエールの戯曲のいくつかは実際に俳優によって演じられた後に仕上げられています。つまり、モリエールは最初に「カンバス」を書いていたんですよ。俳優はその筋に沿って演じながら、アドリブをたくさん加えていったんです。で、モリエールはそれらのアドリブをたくさん台本に描きこんで最終的な戯曲に仕上げていました。ですから、一度俳優の肉体を経ているモリエールの戯曲はいつも生き生きしているのです。
私が演じた「いやいやながら医者にされ」の主人公スガナレルですが、樵で、しかも働くのが嫌いな男です。スガナレルの妻のマルチーヌはいつもそんな夫と喧嘩をしているわけですが、彼女は偶然医者を探しに通りがかった二人の男に出会います。雇い主の娘が病気になったというわけです。そこでマルチーヌは復讐するために夫が医者だと嘘をつきます。<ただし、彼は自分では医者だとは決して言わないでしょうから、本当のことを言わせるためには棍棒で打ちのめしてやらないといけないんですよ>。そこで二人はスガナレルを棍棒で打ちのめして医者だと白状させるのです。」
「いやいやながら医者にされ」(Le Medecin malgre lui)はモリエールの喜劇群の中でも最も笑える劇の一つだ。アメリカの喜劇作家、二ール・サイモンの初期の笑劇にも通じるナンセンスなおかしさが満載されている。ストーリーのおかしさと同時に、スガナレルという破天荒なキャラクターの言動が、フランス社会を覆っていた偽善と常識を木端微塵に打ち砕いていくからでもあるだろう。
主人公のスガナレルは医者を探していた主の家に迎えられ、娘の病気を治療するが、それは普通の病気ではなく、恋ゆえの仮病だった。娘は父親から裕福な老人と結婚させられようとしているのだが、彼女が本当に恋していたのは貧しい若者。だから親の取り決めた結婚に抵抗するため言葉が話せない病気のふりをしていたのだ。スガナレルは彼女を愛する青年の願いを聞きいれ彼らの味方に付く。と同時に傍のストーリーながら、スガナレルが娘の乳母に魅惑されて、医者の地位を利用しながら、あの手この手で浮気を試みる。と、根はいい人でありながら油断できない男でもある。
パティシエ「モリエールの戯曲ではしばしば同じテーマが繰り返されます。父親が娘を金持ちの老人と結婚させようとすることです。しかし、娘は同じ年頃の青年を愛しているのです。また、しばしば娘を救いだすのがその家の使用人や女中たちです。そして「いやいやながら医者にされ」では、観客は何でも知っていると思っている医者たちを笑い飛ばすのです。」
*パティシエ氏の出演作から(映像クリップ集)
http://www.dailymotion.com/video/xaw3d7_bande-demo-de-francois-patissier-co_shortfilms 村上良太
■フランスの女性映画監督たち 〜時代の転機を先取りしてヒット作を作ってきた〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201101190142463 アニエス・ジャウイ監督の「ムッシュ・カステラの恋」(‘Le gout des autres‘、2000年 )はメーカーの社長と舞台女優の出会いの物語である。実業家と芸術家、まったく接点のなかった世界の男女が偶然出会い、それまで互いに持っていた相手の世界への偏見を捨てて、生き方を少しずつ変える。この映画が作られた背景には人々の接点が次第に失われつつあるという認識があったのかもしれない。それぞれが属する「小さな社会」から一歩踏み出さなければ別の「小さな社会」の住人と出会うことはない。そうしたバラバラの小社会あるいは小惑星の並存に作者は異を唱えているように思われる。タイトルを直訳すると「他人の好み」である。恋愛映画、というだけでなく、社会のあり方を考えさせる映画でもある。
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