京都大学名誉教授の中山研一氏(刑法学者)が亡くなる前に執筆して公開していた「中山研一の刑法学ブログ」の中に、山形大学学長選をめぐる話がある。中山教授は学長選で選ばれた人物が文部科学省の官僚であり、つまり天下りであったことに憂慮しているのだ。かつて学長は学内選挙で選ばれた人物で決まっていたのに対し、昨今は学外者が多数入った学長選考会議で決定されているとして中山教授は危機感を抱いていた。
「かつての大学では、教授会自治が確立していましたので、学内選挙で選ばれた人が学長になることは、大学自治の当然の内容として誰も疑わなかったのです。それは教授人事にも及び、かの「瀧川事件」の歴史的な教訓も、まさにそこにあったのです。
しかし、今や「独立行政法人」化した国立大学では、学長は「(学部長や学外者らで作る)学長選考会議が決める」ことになったのです。ただし、最近までは、ほとんどの国立大学が、学内選挙による投票(学内意向投票)で1位になった人を学長に選ぶという方法をとってきたといわれています。
ところが、学長選考会議自体に学外者が入り、学長候補者にも学外者が入ってくると、学外者が選挙で選ばれる可能性だけでなく、山形大学のように、官僚、しかも文科省出身の官僚が学長に「天下り」するケースが現に出てきており、しかもそれで学内もまるく収まるというのですから、開いた口が塞がらないというのが、率直な印象です。」(「中山研一の刑法学ブログ」より)
ここで触れられている「「独立行政法人」と化した国立大学」とは今から10年前の2003年に制定された国立大学法人法のことだ。当時、この法案には様々な反対意見が出されていた。たとえばこの法律が目指すところは教授会の自治力をそぎ、学長の力を強化してトップダウンでスピーディに大学が「改革」できることを目指していたことだ。これは大学の中に企業の経営理念を持ち込んだものだろう。
実際、この法案が可決されようとしていた頃は「食える学問」という考え方が席巻していた。何年で成果が出るのかわかりにくい研究に対する風当たりが強まった。国立大学法人法案とともに、研究費は競争原理で競わせて国が審査して重点配分することに決まった。しかし、研究計画の選抜が本当に日本の研究をレベルアップさせられるかどうかは審査のあり方自体を国民の眼で見つめることが必要だろう。短期間で成果の見通しのつく研究が本当に世界水準で見て価値があるかどうかは議論があるところだ。見方を変えれば企業の思惑が混じったせこい研究ばかりになる恐れもある。いやもっと悪いことは大学が国(文科省)に対して(研究費欲しさに)頭が上がらなくなることだ。
中山教授がブログで指摘しているように学外者が学長選考会議で発言力を増し、それが教授たちによる学内選挙よりも決定力を持ってきたようである。しかも、学長候補にも学内の人間ではなく、たとえば文部科学官僚が立候補して当選している。こうなると、学長のトップダウンで人事や学内政治が決まっていくのだから、大学内において政治・行政による職員の管理が強化されていることを意味する。
福島第一原発事故を境に「御用学者」の弊害が指摘されているが、それは研究者の個別の良心の問題というだけでなく、国立大学全体を通したシステム的な変化に注目すべきだろう。大学人はかつてなく、自由に発言(研究)できない環境に立たされている。力の弱い教授ほどその恐れは強いだろう。今の職場を失えばその後どうやって飯を食えばいいのか、わからないだろうからだ。しかも、新聞には大学が多すぎる(減らせ)と報じられている。今後さらにポストを得るのは難しくなるだろう。だからせめて今のポストを守りたければ政治的なことは何も言わないに越したことはないと個々の教員が考えてもおかしくはない。
実はことは国立大学の問題だけでなく、東京都立大学が石原前知事によって「改革」され、名前も「首都大学東京」に改められたケースがある。学外からやってきた改革勢力に抵抗して、大量の教員が離職を余儀なくされた。石原前都知事はこの頃、フランス語は数も満足に数えられない言語という趣旨の発言を行い、「改革」に抵抗していた人文学部を挑発している。現在、石原前都知事と同じ日本維新の会の橋下大阪市長は大阪でも大学を改革すると言っている。ポピュリストの政治家が伝統のある大学に政治力で介入し、自由な学風をつぶす。鯛は頭から腐ると言われているが、大学人が政治に対して何もものが言えなくなる時代が来れば、いったい誰がものを言えるだろうか。
■山形大学「結城章夫学長版「がくちょうせんべい」を発売します」
http://www.yamagata-u.ac.jp/jpn/yu/modules/topics0/article.php?storyid=166 「平成19年9月1日に山形大学の新学長に就任した結城章夫学長の似顔絵入りの「がくちょうせんべい」が山形大学生活協同組合により商品化され、12月5日(水)から発売されることになりました。」
■瀧川事件
「1933年(昭和8年)に京都帝国大学で発生した思想弾圧事件。・・・事件は、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が、1932年10月中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容(トルストイの思想について「犯罪は国家の組織が悪いから出る」などと説明)が無政府主義的として文部省および司法省内で問題化したことに端を発するが、この時点では宮本英雄法学部長が文部省に釈明し問題にはならなかった。ところが1933年3月になり共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こり状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日本社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張、司法試験委員であった滝川を非難した。」(ウィキペディアより)
■企業スポンサーと研究結果の修正
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201107122310222 「福島原発事故以来、原発推進派の「御用学者」が問題視されている。しかし、これは核物理学や原子力工学だけのことだろうか。2004年に日本で国立大学が法人化された。公的資金の削減の中で、研究者たちは互いに競争を強いられ、企業スポンサーの研究資金に依存を深めていると聞く。これは産学共同という言葉でもてはやされたもので、市場が求める研究開発こそ時代のニーズに合っているというのである。
さらに、こうした現象は日本だけではなかった。・・・」
|